雨の海
雨が降っている。やまない雨だ。僕の背後で、列車が音を立てて通り過ぎていく。目の前には海がある。ひろい海だ。穏やかな海も、今は、しけて白波が牙を立てるように浮かんでは消え、浮かんでは消えている。目の前には、僕の恋人が横たわっている。僕は、なにもしない。濡れ鼠になった彼女が生きているのか、死んでいるのか、確認するのが恐いのかもしれない。足元で横たわる彼女を、海から救ったのはさっきだった。けれど、僕はなにもしない。僕の脳裏に、彼女との記憶は蘇ってこない。ただ、青白い面にかかる一筋の黒髪を、美しいと思う。
夏の過ぎ去った海は無人だ。誰もいない。僕に声をかける人間も、彼女を見て、救急車を呼ぶ人間も、誰もいない。ただ、悲鳴みたいな秋の海鳴りだけが響いている。時折、波は弾け、叫ぶように、ごうん、ごうんと鳴る。
僕は恋人に触れられない。
生きているのか、死んでいるのか。
どちらであってほしいと思っているのか。少なくとも、助けに入ったということは、生きていて欲しいと思っているのだろう。
海が、鳴る。
「ねえ」
僕は、彼女を見つめながら話しかけたが、本当に彼女に話しかけたのかどうかは怪しかった。本当は、独り言かもしれなかった。
彼女の胸を見る。上下はしていない。真白い体の、ゆびの先。つま先。体より幾分か黒みを帯びたワンピース。端々に海の残滓が残る。それは、
海藻だったり、砂の痕跡だったり、ふやけた指のさきだったりした。
「ねえ」
もう一度僕は言葉を発した。動け、動け、僕の体。それでも動かない。
恐い。僕は彼女が恐い。彼女の死が恐い。彼女の生が恐い。
「ねえ」
呼びかけても、応答はない。どおん、どおん、波の音なのか、僕の鼓動なのか、混じって、混じって分からなくなる。僕は、今生きているのか。途端に分からなくなる。
僕は、そっと彼女に手を伸ばした。
“答え”が、どちらであっても僕は、受け入れられない。
どおん、どおん、海の音が遠くに聞こえる。波の音は、どんどん、遠く、遠くなってゆくーー。