魔女様の吐露
『――リア』
飛び起きたのは、呼ばれる声がしたからだ。
まだ夜も更けたばかりの時間帯。窓から差し込む光は月の冷たい光だけ。星々が瞬く夜空は、やはりまだまだ色が濃い。
ゆっくりと起き上がって額から伝う汗を拭い、それから隣で眠るエド君を窺う。
カーテンで閉ざされた向こう側では、規則正しい寝息が聞こえてくる。
どうやら起こしてはいないようで安心なのだけど、私は再び寝ようと思ってもそうはいかなさそうだ。
――嫌な夢を見た。何の因果だろうか。命日にこんな夢を見るなど。
師匠が、私を呼ぶ夢なんて。
いや、これは必然だろう。墓の前で色々と語って、また謝ったから。大きく蓋を開けて思い出してしまったから、夢にまで出てきてしまったのだろう。
ふぅ、と息を吐くと、こもった熱が宙に散らばる。
寝汗で貼り付いた寝間着が気持ち悪い。
着替えても、結果的には変わらなそうだ。また寝ようとして汗を掻くに決まっている。
せめて、汗でも落としてこよう。
あれは私が見る夢で、私の深層意識が見せたものだ。未だに胸の奥に食い込んだ、楔のようなもの。
ぎり、と唇を噛み締めて、私は静かにベッドから降りて、上着も羽織らないままに外に出た。
見上げれば満点の星空。
今にも降り注いで来そうな程に散らばった星を見上げて、嘆息。
――あの日も、こんな星空だった。
ザリ、と砂利を踏み締めながら、一直線に向かう先は泉。
家からそう遠くない場所にあるのだけど、そこはとても静かで、落ち着くから。
ついでにまとわりつくようなこの気だるさと重いものを洗い流したかった。
少し歩けば、泉に辿り着く。
当たり前だけど魔物は私の行動範囲にはほぼ近寄らないし、エド君は就寝中。誰も居る筈がない。
そのまま、誰も居ないのを良い事に、寝間着を脱ぎ捨ててゆっくりと足先から浸していく。私が身を浸すにつれて波紋が広がるのを、ぼんやりと眺めて。
凍える程ではないけれど、生温いわけでもなく、ひやりと冷たい水。
汗ばんだ体を清め、火照った体を冷やして。しゃがんで、水面に揺れる髪を、ぼんやりと眺める。
月と星が光源の水面は薄暗いけれど、それでも水面に鏡の役割をさせるくらいには充分に明るい。
水鏡に映った私は素肌も露で、背中に刻み込まれた証すら隠そうとしていない。きっと後ろの水面には私の背に広がる幾多もの赤い線を映し出しているのだろう。
今は居ない、師匠が刻んだ師匠が生きた証。正しくは、生きていた証。
……これがあるから、私は、後を追う事が出来ないのだ。
いや、怖くて出来ないんだろう。中途半端な人間の私は、師匠の元に行けるかすら分からないから。
でも。
もし、師匠が居なくなったこの日に、私も居なくなる事が出来たら、師匠の元に行けるのかな。
なんて考えて鬱になりすぎだと自嘲の笑みを浮かべる。自然と、深い場所に足が進んでしまう。
私に呪縛のような言葉だけ残して消えてしまった師匠。
本当に、最後まで自分勝手な人だったなあ、と思い出して苦笑して――。
「死のうとするな馬鹿!」
焦ったような声が飛んできた。
居る筈のない人の声に目を丸くして振り返ると、ブランケットを肩にかけたエド君が立っていた。
寝間着なのは、そのまま外に出たからだろう。寝癖たっぷり、明らかに今起きたような風貌で佇んでいる。
……ただ、私の格好を見た瞬間に闇に紛れても分かる程に顔を赤らめて、慌てて後ろを向くのだけど。
多分、私が深い場所に入ろうとしたから、入水自殺のように見えてしまったらしい。
「……ついてきたの? いけない子だね」
折角起こさないようにしたのに、どうしてついてきちゃったかなあ。
「ちょっと、目を合わせないとは何事かな?」
「……服を着ろ」
「君が沐浴の最中に来たんしょうに」
「それでもだ!」
私が水滴と髪以外何も纏っていない事が駄目だったらしい。エド君が覗いたのに。
まあエド君に見られた所で私は気にしないのだけど。
「はいはい。減りはしないんだから」
「それはお前が言う側じゃないだろ!」
「じゃあエド君が言えばいいでしょうに。減りはしないよ?」
「俺の神経が磨耗するんだ!」
「あ、じゃあ減ってるね。私は減らないんだけどなあ」
あ、エド君脱力した。
それから小さく「怒れよ普通怒るだろ……」と呟いているけど、別に怒らないよ。事故だし、故意だったとしてもそういうお年頃なんだなあくらいで済ませるから。
耳まで真っ赤なエド君の後ろ姿を眺めて軽く笑い、私はささっと魔法で体を乾かす。
早く着替えないとエド君が凹み続けるから素早く袖を通して、しゃがみ込んでしまったエド君の背をちょんちょんとつつく。
もういいよ、と囁くとびくりと体を揺らして、恐る恐る振り返るエド君。……また前に顔を戻してしまったけど何が駄目なんだろうか。
エド君が立ち直るまで待つのだけど、やっぱりよく分からない。何で、エド君はついてきたのだろうか。
「起こしちゃったのは悪いんだけどさ、どうしてわざわざついてきたの?」
立ち上がったエド君に問い掛けると、未だ羞恥の残滓が付着した顔が、気まずそうに歪んだ。
「お前がこっそり抜け出すからだろう。気になってついてきた」
「そう。単に水浴びしていただけだよ。……へくちっ」
「……水浴びすれば体は冷えるに決まってるだろう、ばか」
「そりゃごもっとも。……あれ?」
思わずくしゃみをしてしまった私の肩に、先程までエド君がかけていたブランケットがかけられる。
ふわりとした温もり。もう染み付いてしまったエド君の香りが、鼻孔を柔らかく擽った。
エド君は、寝間着一つ。私の為にかけてくれたのだろう。
気にしなくてもいいのに。体が冷えたのは自業自得だし、寧ろ頭が冷えて良かったくらいだ。
毎年懺悔しては気が滅入る時期だったのだけど、今年は思ったよりも早く平常に近づいたから。
「いいよ、私は暖められるし」
「良いから黙ってかけてろ」
言った途端に肌寒さに体を震わせたエド君は、本当に格好つかないなあ。可愛いんだけどね。
自分でも格好つかないと思ってるのかほんのりと顔を赤らめているけど、良いよエド君らしくて。
「寒いんじゃないのか。無理しないでいいよ」
「うるさい」
「でも、ありがとうね」
気持ちは本当に嬉しいから相好を崩すと、エド君は余計に顔を赤くして「……元々お前のものだろ、礼を言われる筋合いはない」とかごにょごにょと言い訳じみた声を上げる。
そこは素直じゃないんだねエド君。
「まあ、確かにエド君は私のものだけどー」
「このブランケットがだよ!」
「ふふ」
躍起になるエド君は私が穏やかな笑顔になっていると気付いて、ちょっとほっとしたようだった。
うん、心配かけてごめんねエド君。エド君が引き留めてくれなければ、ちょっとふらふらーっといってたかもしれない。直ぐに思い出して戻るとは思うけども。
ブランケットの前を寄せて笑った私に、エド君はちょっとだけ、触れるのを躊躇った。
けど、エド君は私の腕を掴んで、その辺りの柔らかい草むらに座らせて、ぽんぽんと頭を軽く撫でる。
……気遣わせてしまったみたい、だなあ。
静かな夜空の下で、私達は互いの呼吸と微かに草木が揺れる音だけを聞いて、隣で過ごす。
エド君が寒いだろうから、途中から側に寄って一緒のブランケットにくるまるのだけど、やっぱりエド君はその時点で恥ずかしそうだった。
相変わらず、照れ屋さんだなあ。そう、笑って一緒に温もりを共有して。
「……背中のは、何だ」
そうして暫くして、ゆっくりとした問い掛けが飛んできた。
――正直、質問が来るとは予想していた。
だから、驚きはしない。
「あ、それ聞いちゃう? まあ良いけどね」
さっきのを見ていたのだろう。いや、最初の着替えの時に見ていたみたいだから、今更なのだけど。
あれは、エド君に見られてはならない、というものではない。場所が場所だけにアレクにすら見せた事はないけど、エド君なら良いだろう。
それだけ、エド君は私の内側に踏み込んでいるから。
申し訳なさそうなエド君に大丈夫だよ、と微笑んで、ゆっくりと前のボタンを開く。
途端に慌て出すのだから面白いのだけど、流石に露出狂の気はないからね私。
背を向けそのまま前を少しだけ開けて、そのまま背中側の布地を弛ませる。
長い髪を退ければ、否応なしに目につくだろう。
エド君の視線を背に感じて擽ったさを覚えつつ、もういいかなと服を整えてから向き直る。
「これは、まあ私の魔力を安定させる為にあるし、私を魔女たらしめているものって感じかな」
「……魔女たらしめているもの」
「そう。私に刻み込まれた、魔女という証」
背に刻まれたのは、夥しい量の赤い線で描かれた複雑な紋様。
「魔女ってね、生まれつき宿命を背負った人と、後天的になる人が居るんだよね。私は後者なの。……師匠の名と力を受け継いで、魔女になったんだ」
「……魔女に」
「そ。元は知っての通り一般人だよ。忌み子だった事には変わりないんだけどね」
元々先天的に魔力を持っていたけれど魔女ではなくて、扱い方も知らなかった赤目。それが私だ。
そんな私を、師匠は拾った。
「……つまらない過去だよ。それでも聞く?」
「お前が話したいならな」
エド君は、選ばなかった。実際どちらでもいいのだろう、私が話さないならそれ以上は追及するつもりはないらしい。
……優しいよね、エド君。
だからこそ、私もエド君に話す気になれたのだろう。
「……そうだね。隠しておくのも、悪いし。聞いてて楽しくないと思うよ」
「それがお前を形作るものなら、俺は聞く」
「……そっか。うん、じゃあ……楽しくもなんともない昔話をするね。多分、エド君が一番聞きたい事から、話そっか」
ずっとエド君が気にしていた『師匠』の事。私も、聞かれたくなくて深くは説明してこなかったし、聞かれないようにしていた。
けど、もう潮時だろう。
私の過ちを話すべきなのだ。今、彼に。
思い出すと指先から凍えてくるような感覚がして体を震わせると、エド君が躊躇いがちに掌を握る。
じわりと、優しい温もりが染み渡って、何だか少しだけ、目頭が熱くなった。
何処までも優しいエド君に、私は精一杯微笑む。
軽く、何でもない風に。責めて欲しいのに責めて欲しくないなんて矛盾しているのだけど、仕方ない。
耳を傾けてくれるエド君に、私は分かりやすく、端的に告げよう。
「――私ね、師匠死なせたの」