握手
「……早乙女から聞いたんだ。春人たちの家庭のこと」
「は? 薫から?」
なんで薫がそんな事知ってるんだ?
朋夏が喋ったのか? だとしたら、なんで?
「そう。お父さんが誰で、どんな生活を送ってきたのかとか」
「だからなんだ」
「最初に聞いている内は、羨ましいと思ったよ。
著名な作家が父親なんてね。それに俺が尊敬している作家だったし。
俺はキャラ学に自分で望んで入ったから、
春人の家ができたのは自然の成り行きだと思ってたんだ。
でも、本当はそうじゃない事くらい俺だって分かってる。
機会があったら同じ事をするか?
って聞かれたら、俺だったらやらない」
「だったら、なんでこの作品を選んだんだよ。
OBも来るような文化祭に。親父だって来る。
僕たちを題材にして作った作品を僕たちにやらせるのか?
作った親父の前で。そんなこと初めから分かってたんだろ!?」
「乗り越えたかったんだよ。桐原先生を。
俺は『愛妹ガールフレンド』の描写がリアルだと思った。
現実に生きてる人間の息遣いを感じた。
でも、そうじゃないんだろう?
だから、俺は昔に感じた桐原先生への感想を断ち切りたいんだ。
けど、偉そうなことを言ったって俺には書けない。書けなかった」
俺は頭がぼんやりしてきて、結太の言葉を何度も頭の中で繰り返した。
何を言っているのかが、理解できない。
そもそも、自分が何をやっているのかも理解できないのだ。
台本はどこだ? カメラはどこを向いている? 俺は何を演じればいい?
春人、と結太が呼びかけてくる。
焦点を合わせると、結太は俺の視線から目を逸らして、下を向いた。
「桐原先生はどうしようもないクズだ。
君たち兄妹の気持ちをもてあそんだあげく、
小説という嘘のカタチにしたためた。
でもね、それが作家なんだ。
人間をないがしろにするのが作家で、
人の気持ちを踏みにじるのが作家なんだ。
もちろん、そんな側面だけじゃない。
でも、作家は自分で見たことや気づいたこと、
大切なものをみんなの前にお披露目するのが役割なんだ。
俺は、桐原冬人はその点において立派だと思ってる。
尊敬してさえいる。
だから、俺はそれを自分なりに乗り越えなきゃならない」
結太が視線を上げ、俺と目が合う。
「それを春人に演じて欲しいんだ。桐原先生の前で」
反射的に怒りが込み上げてくる。
けれど、その感情は確固とした形にはならずにもやもやと漂う。
これは何のための怒りなんだろう。
ただ単に腹が立った? 俺たちの家庭を侮辱されたから?
いや、別に結太はそんなことを言っていない。
単に、簡単に「気持ちを見失った」なんて言ってほしくなかっただけだ。
俺たち兄妹だって、
気持ちの整理なんてこれっぽっちもついていないから。
「ごめん」
俺から口をついて出た言葉は謝罪だった。
一言、言ってみると、自分のしでかした暴挙に後悔の念がよぎる。
まだ頭に血が昇っていて、その気持ちを素直には肯定できない。
けれど、頭で、気持ちで納得していなくても、
自分がやってはいけないことをした、という自覚は確かにあった。
「ごめん。自分でも何でこんなに怒りが込み上げてきたのか……」
常に監視カメラを意識してきたのに。
常に感情を「表現する自分」を後ろから眺めてきたのに。
どうして、こんなことをしでかしたんだろう。
「いいよ。
題材を選んだ時から殴られる覚悟はあったんだ。
むしろ、殴られなきゃ駄目なんだとも思ってた。
でも、実際に殴られるとあんなにも痛いんだね。知らなかったよ。
そんなシーン、今までいくつも書いてきたのにね。
自分が情けない」
結太は言いながら立ち上がった。
自嘲的な笑みを浮かべながら、頬を撫でている。
「この劇、なんとしても成功させたいんだ。
春人には悪いけど、でも、協力してほしい」
結太が手を差し伸べてくる。
俺はその手を握るか、迷う。
俺にその手を握る権利はあるのか?
「そんなの当たり前だろ。俺がキャラ科なんだから」
「春人、そういう意味じゃないよ。
僕は、春人に手伝ってほしいんだ。もちろん、朋夏ちゃんにも」
朋夏。
朋夏はこの小説を演じるのに何を思っているんだろうか。
俺たち兄妹の生活を、どう思っているんだろうか。
「分かってる……。でも、俺はお前を殴って……」
「おあいこだって。殴られるだけのことを僕が言ったってだけだろ。
単なるおあいこ。僕は殴られたことは何とも思ってないよ」
「でも、俺は殴られてない」
「ぷ、っはっは。馬鹿だな、春人は。
役者の顔、殴っちゃダメに決まってんだろ。それも監督が直々にさ」
それもそうだ。
けど、何も殴れる場所は顔だけじゃない。
でも、結太が言いたいことは、そういうことじゃないのだろう。
場を和ませようと、言葉を繕ってくれている。
演技だ。
「それもそうだ」俺は言葉にした。
結太の笑顔を見ていて、俺も気分が楽になってきた。
俺は笑う。
何年も顔に張り付けてきた表情だから、
俺は自分の意思で「自然に」笑える。
その笑顔が作りものじゃなくて、自分の本心であることを願って。
俺は結太が差し出した手を握った。




