痛い沈黙
靴を脱いで家へあがる。
「夕ご飯の支度するね」
朋夏は明るく言って、台所へとかけていく。
千秋の横を通り過ぎるとき「ただいま」とだけ言って、
さっと身をくらましてしまった。
蜃気楼のように。
遅れて俺も千秋の横に並び、帰宅の挨拶を口にした。
千秋は不審な顔のまま俺を見上げている。
何も喋らない。
なにしてるの? って顔にはいろいろな種類があるんだな、と考えた。
自分以外の人の表情を見るのは参考になる。
それが活用するシーンが俺にあるかどうかは、別として。
「なにしてたの?」
ああ、そうか。
もう過去形なんだ。
言われてから、気づいた。
「なにもしてなかったよ」
千秋の頭を撫でようとして、
俺の手から逃れるようにすっとリビングに行ってしまった。
まいったなぁ。
桐原家の家訓は「兄妹は仲良くすること」だ。
……まいったなぁ。
遅れてリビングに入って椅子を引いた所で「お風呂」と千秋が言った。
椅子を元の位置に戻して言われるままに浴室へと向かう。
夕食は静かだった。
朋夏はにこにこしていて、何も喋らず。
俺はどんな表情を浮かべていいのか分からないので神妙な顔をしていた。
そんな俺らを千秋が交互に盗み見する、と言った感じだ。
使い終わった食器を洗う。最近の洗剤は凄い。
驚くほど瞬時に汚れを落としてくれる。
こんなに楽をしていいのか、
と洗剤に対して申し訳ない気持ちになったりもする。
洗剤がたくさん頑張ってくれていることを想像しているのだけれど。
朋夏が変わらず上機嫌のまま浴室へと向かった。
そのすぐ後で、千秋が俺の隣に並んだ。
長い袖を腕まくりして、俺が洗い終わった食器とふきんを手に取る。
「いいよ」と兄。
「いいよ」と妹。
これは俺の仕事だから、と補足をしようとしたけれど。
そんな事は千秋も知っている。
短い返答の中には、
俺がこれから言うことすべてを否定している力強さを持っていた。
だから、黙って食器を洗う方に意識を戻した。
沈黙。少し経って、
「……ねぇ、帰ってきた時、玄関で何してたの」
「何にもしてないよ。何にもしてない」
「そんな訳ないじゃん。
おねぇ、すっごくキモかったもん。いつもよりずっと」
キモいという言葉は、俺にとってはそこそこきつい言葉なのだが、
千秋はよく口にする。
言葉の価値観がズレているのかもしれない。
4歳も離れてれば、それは当たり前の事かもしれないけれど。
「ねぇ、聞いてるの? おにぃ」
「今日学校でちょっと喧嘩しちゃってね。
仲直りしてたんだ。だからじゃないかな」
その表現は嘘でも本当でもない。
ふーん、と気のない返事をしながらも千秋は鋭い目で俺の表情を観察する。
俺は下を向いて食器を洗い続けていたけれど、それくらいは分かった。
俺は超敏感系だからだ。
女の子が考えていることなんて、たちどころに分かってしまうのだ。
妹が2人もいるのも影響しているかもしれない。
そのおかげで、自分の感情や環境を制御するのが大変だ。
本当に鈍感でいられたらいいのに、とも思う。
俺にとって、鈍感というのは演技をする上での単なる知識でしかない。
俺は横顔を見られている。
誰かに見られているとそちらに振り向きたくなるけれど、
その誘惑を振り切って、ずっと処理するべき食器を見続けた。
その甲斐があって、千秋は正面に向き直って食器を拭くのを再開した。
「仲直り……」
千秋がぽつりとつぶやいた。
それから、またこちらを覗き込むように眺める。
「頭を撫でてあげた。それだけ」
「どっちが悪かったの? やっぱり、おねぇ?」
「どっちもどっちって所かな」
悪いのは朋夏だけど、過剰反応し過ぎたのは俺だ。
選択肢はいくつかあったはずなのに、
俺は知らない内に怒鳴りつけることを選んでいた。
「なに馬鹿なこと言ってんだよ」
って、笑いつければよかったんだ、と今になって思う。
ふーん、と千秋はまた気のない返事をした。
今回のふーんがどういう意味を含むのかは分からなかった。
カチャカチャカチャカチャ、キュッキュッキュ。
家の中は静かだ。
まるで、物語の中のハーレムな主人公が他の女の子との
浮気現場(という言い方が正しいかは分からない。
が、詳細を説明しようとすると無駄に冗長になる。
おまけに意味がない)を目撃されて詰問されているみたいだな、と思った。
物語の中であれば、今の千秋との光景はよく作られていると思う。
まさにリアルそのものって感じだ。
つまり、見栄えがよくないということ。
惜しむらくは、これはまったくの現実そのもので、
配役が俺と妹と妹って所だろうか。
俺が妹に浮気をして? そのまた妹が詰問をしている?
ハハハッ。
思わずアメリカ人みたいに笑ってしまうくらいナンセンスだった。
それはつまり、笑える状況じゃない、って意味だけど。
後片付けは、2人いたから2倍速って訳ではなかった。
それでもいつもよりずっと早く終わった。




