スキの印のキス
帰り道はいつもの3人で歩く。
いつもと違うのは、2人が喧嘩
――というよりはラブコメの練習をしていない事だ。
あれから朋夏は全然口を利かなくなってしまい、俯いている。
唯も心配そうにちらちらと目をやっているが、
朋夏は顔をあげずについてくるだけだ。
ふらふらと歩かれると危ないので手を繋いだ。
なのに手を握り返してもこない。
何か話題はないかなと思って、
八代が部活に来るのっていつ以来だろうか?
と話を振ってみようかと思ったけれど、
それは不適切な話題だと思い直して口を閉ざした。
結局、誰も何も話さないままに家についた。
唯と別れの挨拶をして、家の玄関をくぐる。
ドアが閉まった所で、朋夏は初めて口を開いた。
「ごめんなさい、お兄ちゃん」
項垂れたままで、謝罪の言葉を口にする。
「いいよ。俺の方も、もっと前に止めておくべきだった」
朋夏は力なく首を横に振って否定する。
「ううん、私が悪いよ。
なんでか分からないけど、頭に血が昇っちゃった」
「俺も強く言い過ぎたよ、ごめん」
繋いでいない方の手で頭を撫でる。
さらさらした髪の毛が、触れた所から水のようにさらさら揺れる。
朋夏は顔をあげた。
暗かった表情や強張った肩が少しずつ弛緩していき、
繋いだ手も握り返す力が強まる。
「お兄ちゃん」
朋夏の空いた手が俺の左胸に触れて服の上から肋骨をさすった。
その奥の心臓の鼓動を確かめているのかもしれない。
徐々に身体が近づいて、朋夏は俺の心臓に耳をあてる。
先ほどさすっていた手は既に俺の背に回されていた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
短かったのか、長かったのか。
その時間は、女の子とのデートの1分というよりは、
ストーブの前で温もっている1時間のように感じられた。
ただのイメージだ。
実際はどうだったのか、客観的な判断は俺にはできない。
いつの間にか朋夏が胸から顔を離して、俺の方を見上げていた。
幾分か、瞳が潤んでいる。
一流の役者は、
――いや女の子であれば誰だって涙くらい簡単に流せるものだ。
瞳に浮かんでいるこの水分は、どちらのモノだろうかと邪推する。
そして、自分がどう演じるべきだろうかとも考える。
人生は演劇だ。
一つの流れをその都度、流れていく。だとすれば、どうするべきか?
なんて考える俺には、人生は向いていないのかもしれない。
少なくとも、キャラ学に通っている俺なんかより、
そこらの高校生の方が自然に人生を演じられるに違いない。
俺の背中に回されていた朋夏の手は、
知らない間に俺の頬にあてがわれていた。
何往復か上下にさすった後、朋夏の親指が俺の唇に触れた。
自分がどんな顔をしているのかが気になった。
カメラでもあれば、酷く滑稽な自分が映っているだろう。
あるいは、酷く冷めた表情をしているかもしれない。
どちらでもおなじことだ。
そう思った。
俺は機械的に朋夏の頭を撫でる。
髪を撫でられているのが心地よいのか、
朋夏は俺の顔を見たまま目をつむった。
顎を撫でられている猫のようだ。
でも、朋夏は人間の女の子で、俺は男だ。
つまり、それはキスを求めて……
遠い昔、家出をしようかと思った事がある。
息苦しい家庭から抜け出したかった、という平凡な理由だった。
けれど、玄関から出た所でふと気づいた。
「今、家を出たら自分はもう帰ってこれなくなるんじゃないか」って。
子供心に感じた息苦しさと不安が蘇ってくる。
どちらを選べばよかったのか、俺はまだ答えを出せないでいる。
1分か、あるいは1時間が経った。
軽い物音がする。
振り返ると、廊下の奥にいる千秋が見えた。
足元には文庫本が落ちている。
さっきの音はそれが原因だろう。
なに、してるの? っていう顔をしている。
「なに、してるの?」
あんぐりと空けていた口を不器用に動かして、千秋が尋ねた。
別に何もしていなかったし、物音がしたあと、
すぐに俺と朋夏の身体は離している。
俺でさえもさっき何があったのか、
あるいは、さっきの事は本当の事なのか判断がつかない。
だから、千秋が知ることは到底不可能だろう。
あの位置からは俺の背が陰になって、
朋夏の姿までは見えなかったはずだ。
多分、きっと。