ビッチちゃんの憂鬱
「桐原くんが勝手に」
八代は、握った手のひらを紅音先輩に見える高さまであげる。
それを見て「あらあら」なんて言いながら優しげな微笑みを浮かべる。
今日の先輩は当たりかもしれない。
面倒な事にはならなそうだ、と一安心する。
けれど、そんなのは勘違いだった。
先輩の顔から笑顔がすーっと引いていく。
「ビッチちゃん、今どういう設定なの?」と先輩はすぐに素に戻った。
学校にはメタ空間と呼ばれている部屋がいくつかあって、
この部室もその一つだ。
メタ空間にもカメラは配置されているけれど、
中での出来事は教師からの評価対象にならない。
だから、演技などをする必要がない。
もちろん、昨日の俺たちのグループのように
いきなり即興(だったのか?)で演技を始めることもある。
俺らのグループはAクラス揃いなので、
他の部員から演劇を期待されている節があるからだ。
「失恋したらしいんで、何とか立ち直らせてあげたいわけですよ」
「あんね、桐原くん。失恋って言ってもそれは設定であって、
ちょっとふざけてモーションかけてみただけよ。
なぜって、そういうキャラだからさ。
私、誰からも振られてないってば」
「いや、そんなの分かってるよ。
だから、設定の把握をしてる訳でしょ」
「学校の授業以外でそんなのやりたくないよー」
上半身をテーブルに投げ出して八代は項垂れた。
「あのな、香苗。お前はうちの部活の所属なんだよ。
もうちっとまともに出てこいよ」
紅音先輩は最もらしく言った。
「だってー、なんだっけ? 正式な言い方。
……ともかく、私はビッチキャラなんてやりたくないんです!
なんなの、それ。失礼しちゃうって感じ」
「だって、他のキャラの特性がないんでしょ?
あたしだってツンデレしかやらせてもらえないんだよ。
仕方ないでしょ」
「唯ちゃんはヒロインだからいいじゃない。
私なんて脇役だよ、その上ビッチだよ?
いくらなんでもあんまりでしょ。
みんなビッチちゃんとか呼んでくるし」
当たり前だが、キャラの分類として”そういうキャラ”という
分類ではあるけれど、ビッチなんて分類名になっている訳がない。
が、正式名称がそういった誤解を避けるために回りくどくて
誰も覚えられない。結局ビッチという言葉が使われている。
そういった言い方が気に食わなかったとしても、
俺らキャラ科の人間というのは基本的に役者の卵みたいなものだから、
指定されればそういう演技をしなければならない。
できないのならば、それは才能がないと認識される。
「ビッチちゃん、そんなに嫌なの?」
「嫌に決まってるじゃないですかー。
いかにも悪口―って感じですっごく嫌ですよ!」
「でも、八代さん適合試験で選ばれたわけでしょ?
そういう要素があるんだと思うよ。
俺も不本意にも鈍感とか言われているわけだけど」
「私は、ぜーったいに納得いかない」
両手でテーブルを叩いた。
肘を載せていた俺はちょっと驚く。
うーん、と考えるように唸って先輩が口を開いた。
「じゃー例えばの話。
主人公の男の子が高校生設定だとしてさ。
主人公と結ばれる前に、ヒロインには彼氏がいていいと思う?」
「え、当たり前じゃないですかー。
恋多き可愛い乙女に、高校まで彼氏がいないなんて、有りえないでしょ」
一瞬のテンポもおかずに八代は即答すると、紅音先輩は頭を抱えた。
基礎すらできていない八代に先輩は撃沈されてしまったので、
俺はフォローを入れる。
「あーあー。有りえるか有りえないか、とかじゃないんだよ。
リアリティとか関係ないの。
俺たちはキャラクターなんだからさ。
かくあるべき、で考えなきゃ駄目だよ。
という意味では、ヒロインにはなりえないね。
彼氏なんていちゃ駄目だよ。
というか、いてもいいんだけど、いたと明言しちゃ駄目だよ」
「わーかーんーなーいー。
私たちはアイドルでもなんでもないでしょ!」
「アイドルではないけれど、
アイドルとしての条件を満たす必要はあるんだ」
「いーみーふーめーいー」
八代も頭を抱えた。
紅音先輩はテーブルに頭をこすりつけている。