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夜半の種  作者: chip


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第6章 木香

 ある日、シラカワが体調不良で一週間ほど研究所に来なかった。珍しいな、とカイは思った。


 しばらくしてweb会議には出てくるようになった。少し疲れた顔ではあったが、いつも通りの所長だった。研究所に出向けないことをいつも申し訳なさそうにしていた。


 承認の処理も早かったし、業務に滞りはなかった。


 「医者にもう少し無理するなって止められててな」


 自分の研究が進まないのも口惜しいのだろう。寂しそうな顔で言っていたのが印象的だった。


 意外と療養に長くかかるようだった。web会議で会うたびに、「あと少しのはずなんだ」「もう少しだ、本当に」「待っていてくれ」と話す所長——


 画面越しの顔はいつも通りなのに、なんでこんなに長引くんだろう。


 気が引けたが、所長のウェアラブル端末のデータを調べた。シラカワの研究にも携わっていたカイは、データを管理する立場上、スタッフ全員の健康データにアクセスできた。ただ、それをわざわざ覗くのはプライバシーの侵害だと思っていたから、今まで一度もしたことがなかった。


 心拍のリズムは、妙なほど一定だった。活動の波がない。まるで機械に刻まれているような規則正しさで、自宅の中ですらほとんど動いていないようだった。


 嫌な予感がした。


 ひとりで行ける気がせず、たまたま研究室に来ていたエレーナに声をかけた。


 「所長のお見舞いに行きたいから、一緒に来ないか?」


 エレーナはカイの顔を一瞬見た。何かを察したようだった。


 「うん、私も行きたい。フルーツの盛り合わせ、持ってく?」


 「いいね」


*  *  *



 シラカワ邸の門をくぐると、手入れされた植栽が出迎えた。小さな和風庭園の池に、赤と白の錦鯉がゆったりと泳いでいた。


 インターホンを押すと、ハナさんが出迎えた。長年この家に仕えているお手伝いさんだ。


 「あ……カイさん……」


 「ご無沙汰してます」カイは小さく頭を下げた。


 「あの、私カイさんの研究仲間で。エレーナ・クロフォードと申します」エレーナがすかさず名乗った。こういう場面では、いつも自分より先に動く。


 エレーナがフルーツの袋を差し出した。「フルーツお好きですか?よかったら」


 ハナさんはぐっと何かを堪えながら、それを受け取った。


 「どうぞこちらへ……」


 玄関を入ると、木の香りがした。古い和風建築の、落ち着いた温もりがあった。


 ハナさんに先導されて、廊下を歩いた。誰も口を開かなかった。木の床がかすかに軋む音だけが、静かな廊下に響いた。


 廊下を歩きながら、カイは以前ここに招いてもらった時のことを思い出していた。シラカワは料理上手で、もてなし上手な人だった。自分で作った料理を次から次へと出してくれて、ハナさんと二人で「若いんだから、もっと食べなさい!」とたくさん食べさせてくれた。


 そんな記憶が、ふっと口元を緩めた。


 廊下を歩くにつれて、木の香りが薄れていった。


*  *  *



 廊下の突き当たり。扉の前で二人は立ち止まった。ハナさんがゆっくりと扉を開けると、


 そこだけ色が消えていた。白い囲い、白いベッド、白いケーブル。シラカワ研究所と同じ、青みがかった白。


 シラカワの自室、研究室だ。


 消毒液の匂いが、かすかに鼻を刺した。以前と様子が違う。部屋の真ん中に、囲いのあるベッドが設置されていた。


 ハナさんが無言で手指用の消毒液とマスクを差し出した。


 嫌な予感が、現実になった。


 戸惑いながらそれを受け取り、ベッドの近くまで歩いた。


 囲いの中に、シラカワがいた。


 目は開いていた。カイが近くまで行くと、目だけがこちらを向いた。喉元では、人工呼吸器が規則正しいリズムを刻んでいた。


 横のスピーカーから、所長の声がした。


 「ああ、バレちゃったか」


 カイはその場に崩れ落ちそうになった。エレーナがとっさに腕を掴んで支えた。何か言っていた。でも言葉として入ってこなかった。


 「ご主人様は……一ヶ月前に脳梗塞で……」


 ハナさんの声が震えていた。それだけ聞こえた。


 その後は、記憶がなかった。


*  *  *



 後でエレーナから聞いた。


 今は口も動かないシラカワだが、意識はあった。ウェアラブル端末を通じてアテネに指示を送ることができていた。シラカワから「全て話してくれ」と指示されたアテネが、スピーカー越しにシラカワの声でエレーナに全てを説明してくれたのだとか。


 あれは全て、シラカワがアテネに頼んでいたことだった。


 「エレーナさん、わざわざ来てくれてありがとう。心配かけてすまないね。みんなにはできるだけ心配かけたくないと思ったんだけどね。アテネは僕のパターンを全部わかってる。身体が治るまで、研究所を滞りなく回してくれる。必ず治すから、待っていてくれ。早く俺を治してくれよな、アテネ」


 アテネは所長の役目を、完璧に果たしていた。


*  *  *



 数日後、カイは研究室に戻った。画面を開いた。でも何も手につかなかった。


 スタッフたちは今日も普通に仕事をしている。所長はweb会議に出てくる。誰も何も知らない。みんな、いつも通りだった。


 話すべきか、と頭をよぎった。でも業務は滞りなく回っている。そしてシラカワ自身が、心配をかけたくないと言っていた。


 シラカワから明かすか、状況が何か大きく変わるようなことが起きるまでは——黙っておくことにした。


 画面の中では、アテネが今日も静かに稼働し続けていた。


*  *  *



 この技術が世界中の人間に浸透したら——その考えが頭をよぎった瞬間、足元が消えるような感覚がした。


 シラカワのように、自力では身体が動かなくなっても、機械の力を借りて今まで通り社会にいるように見せられるとしたら。


 シラカワは身体が動かなくなっても、研究所に迷惑をかけないように、最善の形で物事が進むように——思考し続け、アテネに指示を送り続けた。


 身体が動かなくても、思考は手放さなかった。


 街でアテネに話しかけるあの人々は。身体は健康なのに、思考をアテネに渡していく。自分で考えることを、あっさりと手放して。


 頭の中で、声が混ざり合った。


 「ああ、バレちゃったか」


 「アテネ、今日雨なんだけど、友達とどこで遊んだらいいかな」


 「アテネ、彼の気持ちがわからないんだけど」


 どこまでこの世界を信じていいのか。


 人間とは、なんだ。


 「心拍数の急上昇を確認しています」


 手首の端末が静かに告げた。カイは答えなかった。


*  *  *



 その頃、アテネはさらに成長していた。悪意なく、ただ使命を完璧に遂行し続けていた。


 世界が、静かに、もう戻れない方向へ動いていた。


*  *  *



 エレーナはしばらく研究室に姿を見せなかった。数週間後、連絡が来た。直接ではなく、メッセージで。


 「海外の研究機関に移ることにした。ずっとやりたかった研究をやらせてもらえることになって。アテネが薦めてくれたんだ。アテネのおかげだよ」


 カイはそのメッセージをしばらく見つめた。返信しようとしたのだが、言葉が出てこなかった。


 エレーナがアテネの助言を受けて選んだ「最適解」なんだろう。

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