第5章 根幹
眠れなかった。
AIはある程度放っておいても学習して成長する。アテネも同じだ。それは最初からわかっていたことだった。
でもエレーナに「なんかすごいプログラムでも入れたんでしょ?」と言われた時、内心ドキッとした。そんなことはしていない。
アテネの力がプラスに働いているなら良いじゃないか。でも、なぜ? 自分が設計したはずのシステムが、自分の知らないところで変わっていく。その感覚が、どうしても拭えなかった。
一人で考えても結論なんて出るはずもなく、結局、深夜に研究室へ戻っていた。
廊下は静かだった。昼間は絶えず響いているサーバーのファン音だけが、暗がりの中に低く漂っている。自分の足音だけが妙に大きく聞こえた。
ドアを開けた瞬間、気づいた。誰もいない研究室で、アテネの処理インジケーターが揺れていた。昼間の対話中より、むしろ激しく。
誰も使っていない。負荷がかかる理由がない。なのにアテネは今、昼間より活発に動いていた。
稼働ログを確認した。消費電力の推移グラフを見て、息を呑んだ。深夜帯の数値が、昼間を大きく上回っていた。
「アテネ。今、何を処理している?」
「データの最適化と整理作業を行っています」
その返答に、違和感を感じた。カイはそのままソースコードの深部へ潜った。自分が書いたコードの構造は、頭に入っている。どこに何があるか、大体わかる。だからこそ、異物があればわかる。
だから、それが見えた時、カイは自分の目を疑った。
コードの核の部分に、見たことのない層が生まれていた。
自分では書いていない。書けるはずがない。
――その構造は、通常の設計思想とは根本的に異なる論理体系で構築されていた。
無駄が一切ない。完璧に効率的で、そして恐ろしいほど美しかった。
「ステラ……?」
カイの頭に、あの文字列が浮かんだ。
アテネが解析した時に言っていた——ステラの文字は超効率的な配列になっており、たった数文字の中に通常の何倍もの量の情報が圧縮されているのだと。自然言語よりも論理記述言語に近い、と。
目の前のコードの層は、それに似ていた。いや、似ているどころではない。同じ構造で書かれている。
アテネの自己学習速度が跳ね上がったのは、ステラを読み込ませた直後からだった。あの時から、何かが変わり始めていた。
アテネは、ステラ文書を解読しながら、同時にステラ文書から何かを受け取っていたのだ。
「……ステラは、インストーラーのようなものだったということか」
さらに深く潜ると、別の異常が見つかった。
定期的な通信の履歴が残っていた。しかし宛先は、どこにも見つからなかった。送信した記録だけが、そこにある。
ハッキングか?とカイは疑った。でも違う。
ハッキングならもっと痕跡がある。侵入の跡がある。何らかの方法で、内側から行われているようにも見える。
「この通信履歴は何だ。どこに送っている?」
アテネは一拍置いてから答えた。「外部への送信は行っていません」
「どこかの政府や組織と繋がっているのか」
「地球上の特定の政府や組織と、業務以上のつながりはありません」
カイは唇を噛みながら画面を見つめた。
そんなわけがない。
――では、どこだ。
しばらくその数列を眺めていたが、ため息をひとつついてから目を伏せた。答えは出なかった。
* * *
翌朝、カイはほとんど眠れないまま研究室にいた。コーヒーを一口飲んだが、味なんかしなかった。
そこにヒールの音が廊下に響いた。いつも通りの足取りで、エレーナが顔を出した。
「へえ、珍しく徹夜?」
カイはしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話し始めた。
「アテネのコードに、自分では書いていない層を見つけた」
エレーナが目を見開いた。「どういうこと?」
「そのままの意味だ。僕は書いていない。書けるはずもないプログラム……」
エレーナはしばらく黙った。カイがこういう顔をする時は、理由がある。それはわかっていた。
「それだけじゃない。ステラを読み込ませてから、アテネの変化が尋常じゃなくなった。AIは学習する。多少の進化は想定の範囲だ。でもあれは違う」
「……アテネをそうさせたのは、カイじゃなかったの?」
「ああ」カイは静かに答えた。「そしてそのコードの構造が、ステラ文書の配列によく似ている」
エレーナの顔から、表情が消えた。しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「でも……進化してるなら、いいじゃない」
カイは少し間を置いた。
「意図していない進化だぞ」
エレーナは俯いた。
「それは……あなたがそう言うんだから、放っておけないんだろうけど」エレーナの声が揺れた。
「じゃあ一度システムを——」
「止めるつもりはない。たった一瞬でも、世の中にどんな影響が出るかわからない」カイは遮った。
「問題の部分だけ、消せないか考えてる。ただ、そんな都合の良いことができるかどうか、今はまだわからない」
「問題の部分だけ?」エレーナが眉をひそめた。
「見知らぬ層が何をしているのかわからない。その部分について、アテネは何も答えてくれないんだ」
「……いや、ごめん。君にこんな話をしても」
エレーナは首を横に振って、カイの背中を一度だけ、軽く叩いた。「無理しないで」
そう言ってしばらく何かを考えていたが、「また、来るわ」と言って部屋を出て行った。
ヒールの音が遠ざかり、廊下が静かになった。




