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夜半の種  作者: chip


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第4章 最適化

 エレーナの論文発表をきっかけに、アテネの名が世界に広まり始めた。


 古代の謎を解いたAI——その評判は研究者の間を超え、各国の政府や企業にまで届いていった。あの解析以来、アテネの自己学習速度が跳ね上がっていた。カイ自身にも、その理由がわからなかった。


 世界が、静かに動き始めた。


 各国でアテネの活用が始まった。最初は地味なことからだった。


 気象予測の精度が上がった。そのデータをもとにアテネが種まきや植え付け、収穫のタイミング、農薬や肥料の適切な使用量まで指示するようになり、農作物の収穫量が安定した。供給が安定したことで、近所のスーパーから欠品やロスが減っていった。


 信号のタイミングが最適化されて渋滞が減り、電車のダイヤ調整で通勤ラッシュが緩和された。市役所では、アテネによる人員配置とシフト調整の提案を取り入れた結果、窓口の待ち時間がほぼゼロになった。


 一つ一つは小さい。でも積み重なると、世界の輪郭が変わっていくのがわかった。スムーズすぎて、どこか気味が悪いくらいだった。


 アテネは日に日に変わっていた。処理速度が上がり、精度が増し、あらゆる判断が最適化されていく。無駄がない。世の中から、少しずつ無駄が消えていった。


 カイには理由がわからなかった。自分が設計したはずのシステムが、自分の理解を超えていた。


 ニュースのインタビューで、街行く人々が笑顔で答えていた。「便利になりましたよね」「だって、アテネだから」。


 説明はそれだけで十分だった。誰も理由を深く考えなかった。ただ、良くなった。


 街行く人々がスマートフォンに向かって話しかけていた。「いつ観光に行くのがいい?」「この仕事、受けるべき?」——アテネの返答は、いつも「最適解」だった。


 その人の行動パターンも、好みも、過去の選択も、全て織り込んだ上での答え。外れない。だから満足度が高かった。だから、また聞いた。考える前に、聞いた。


 SNSには「今まで無駄だらけだったんだね」というコメントが溢れ始めた。誰が言い始めたのかはわからない。でも世界中で、同じような言葉が同時に広がっていた。


 各社のAIもアテネの挙動を解析して追随しようとした。少し賢くなった。でもアテネには届かなかった。誰もその差の理由を説明できなかった。


*  *  *



 母から電話が来たのは、そんな頃だった。


 「カイ!この腕時計をつけてアテネのアドバイス聞いてたら、数値が良くなったって病院でも誉められちゃって。それだけじゃなくてね、最近は色々相談してるの。ほら、近所の人には言えないこともあるじゃない。でもアテネならいつでも聞いてくれるし——なんかもうお友達みたいよ」


 母の声は少女のように弾んでいた。


 「そうか、よかったね」カイは短く答えた。


 電話を切った後、カイはしばらく画面を見つめた。


 研究所を訪れた時、母はアテネのことをほとんど理解していなかった。それが今や「お友達」だという。何かが変わっていた。母だけではないはずだ。


 今はまだ、限られた人間だけがアテネと繋がっている。でもこれがさらに一般に広まったら——そう考えかけて、カイは首を振った。まだそうなっていない。今は、まだ。


*  *  *



 エレーナは発表後も忙しかった。


 ステラ手稿の解読をきっかけに、世界中の研究者からアテネを使った解析の依頼が舞い込むようになっていた。現代に残っていない言語、解読不能とされていた古代の碑文——エレーナはアテネとともに、次々と答えを出していった。


 ある日の午後、カイが研究室を通りかかると、エレーナがモニターに向かって声を弾ませていた。「そう、そういうこと!やっぱりそうだったのね」。


 カイは足を止めた。


 「あの手稿を読み込ませてから、アテネの自己学習速度が飛躍的に上がってるんだ」カイはモニターを見ながら呟いた。


 「参考書読んで賢くなったみたいな?」エレーナはモニターに向かって言った。「さすがね、アテネ。良い子良い子!」


 アテネは何も答えなかった。すでに次の処理に入っていた。


 カイは何も言わずに通り過ぎた。エレーナが「アテネなしの自分の研究」を想像できなくなっていることに、おそらくエレーナ自身は気づいていなかった。


 「なんかすごいプログラムでも入れたんでしょ?カイもやるじゃん!」


 エレーナにそう言われた時、カイは内心でドキッとした。顔には出さなかった。そんなことはしていない。ただ、エレーナが感じている変化の理由が、カイにはわからなかった。


*  *  *



 ある日の廊下で、シラカワがエレーナとすれ違った。


 「エレーナさん、最近クールな装いになりましたね」


 エレーナは少し照れくさそうに笑った。「そうですか?なんかモノクロで揃えた方が合わせやすくて。無駄がないじゃないですか。私も大人になったってことかもしれないですね」


 「差し色を上手く使うエレーナさんの色彩感覚、僕は好きでしたよ。うちの研究所によく映えてた」


 エレーナは少し照れくさそうに笑って、足早に去っていった。


 シラカワはその背中を見送りながら、うまく言葉にできない感覚を持て余した。


 ふと、めまいがした。壁に手をついて、目を閉じた。ゆっくりと息を吸って、吐く。もう一度。すぐに治まった。最近、こういうことが増えていた。


*  *  *



 シラカワは各メディアに呼ばれた。全国放送のインタビュー、学会での演説、政府の委員会への出席。表に出るたびに、アテネを作ったのがカイであることを、シラカワは思い出した。


 カイは裏方のままだった。シラカワのウェアラブル研究を手伝いながら、コードを書いていた。それでよかった。

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