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夜半の種  作者: chip


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第3章 芽吹き

 数日後の朝、モニターに文字が並んだ。


[解析結果]


・植物の薬効成分と投与量を示す処方記録

・農作物の種まき時期を示す農業暦

・使用植物の一部は現存する種と一致しない(絶滅した種の可能性あり)

 ※星図は暦の基準として用いられているとみられる


 「これでひと通り解析が完了したことになります。お疲れ様でした」


 アテネの声は、いつも通り平静だった。


 エレーナは立ち上がった。それまで積み上げてきた出力結果のファイルを両手で抱きしめるようにして、「これで揃ったのね!」と呟いた。


 「もう一度全体を通して整理したいわ。今日の結果ももらっていくわね!ありがとう!」


 言い終わるより先に、エレーナは研究室を飛び出していた。ヒールの音が廊下に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 カイはその背中を見送りながら、コーヒーを一口飲んだ。


 アテネの「お疲れ様でした」という言葉が、まだ耳に残っていた。感謝でも労いでもない。ただの処理完了の報告。


 でもエレーナは、あの一言に何かを感じ取ったのだろうか。


*  *  *



 数日後、エレーナが研究室に戻ってきた。目の下にうっすら隈があった。


 「ほとんど徹夜だったわ」と、彼女は笑った。「チームのみんなで読み漁って、語り合って……」


 エレーナのプロジェクトチームは、アテネの解析結果を夜通しかけて検証していたという。植物由来の処方記録、農業暦、そして驚くべきことに——手術の記述まで含まれていた。


 「これ、通仙散に近い処方なのよ」エレーナの声が高くなった。「チョウセンアサガオやトリカブトを使った麻酔薬。江戸時代の華岡青洲より何百年も前に、同じような組み合わせがここに書かれていた」


 「六百年前に麻酔薬を使って手術まで行っていたということか」


 「そうなの」エレーナは言葉を切った。うまく言い表せない興奮が、顔に滲んでいた。


 「植物学者や薬学者が検証してみると、書かれた処方は理にかなっているって。さらに手稿には、麻酔薬を使った手術の記録まであった。六百年以上前の人々が、そこまで行っていたなんて——専門家たちは口々に言ったわ。信じられない、って」


 カイは静かに聞いていた。エレーナの興奮が本物だということはわかった。ただ、カイの頭の中では別のことが動いていた。アテネがこれほど精度高く解析できたのは、なぜか。この文書の構造が、アテネにとって読みやすかったということなのか。


*  *  *



 「数ヶ月後の学会で発表することにしたの」エレーナは続けた。「権威ある場で、正式に。もちろんカイとアテネのことも載せようと思うんだけど」


 カイは少し苦笑した。「僕は直接関係ないし、今までも名前を出していない。ただ——アテネのことは、この研究所の名前を添えて載せてもらえないかな。今回の一番の功労者はアテネだ」


 「研究所の名前を?カイの名前は?」エレーナが首を傾げた。


 「いい。所長には世話になってるから」


 エレーナはそれ以上聞かなかった。


 カイがこの研究所の所長、シラカワに恩義を感じているのは本当だった。前の職場では、上司との方針の違いで行き詰まり、資金面でも袋小路に入って辞めた。その時に声をかけてくれたのがシラカワだった。小さな研究所だったが、カイには自由にやれる環境があった。それだけで十分だった。


*  *  *



 学会発表を前に、研究所の名前を記載することに関する簡単な確認と契約を交わすため、三人は会議室に集まった。


 白い壁に囲まれた部屋で、エレーナが契約書を広げながら話し続けていた。研究所の名前が載ること、アテネのクレジットが入ること——嬉しさが抑えきれない様子で、言葉が止まらない。


 カイは窓際の椅子に座って、静かに聞いていた。


 シラカワは正面でエレーナの話を受けながら、穏やかに微笑んでいた。白髪に口髭を蓄えた六十代で、自身も研究者でありながら大学の学長のような風格があった。研究所が世界に認められていく、その瞬間。シラカワも嬉しそうだった。


 「では、よろしくお願いします」


 エレーナが契約書を差し出した。シラカワがペンを取った。


 その時、シラカワは右手に痺れを感じて一瞬動きを止めた。できるだけ表情を変えず、二人に気づかれないように、左手をさりげなく添えた。ゆっくりと、サインをした。


 大丈夫だ。誰も気づかなかった。


 カイは窓の外に目をやっていた。自分の名前はどこにも出ないけれど、それでよかった。これが世に出れば、この研究所、そしてシラカワに少し恩返しができるかもしれない。


*  *  *



 エレーナがステラ文書の論文を発表した。


 翻訳者の欄にはエレーナの名とエレーナの研究チーム、そして「アテネ(SHLAB)」と並んだ。SHLABとはシラカワ研究所の略称だ。カイの名前はどこにもない。カイはそれで構わなかった。


 論文は考古学や歴史の研究者たちの間でたちまち話題になった。六百年間誰も解読できなかった文書を、AIが数日で読み解いた。その事実が持つ意味は大きかった。未解読の古文書や碑文がまだ世界中に眠っている——研究者たちは新たな可能性に目を輝かせた。


 研究所の名が知られるにつれ、所長のシラカワの出番が増えた。シラカワ自身は研究所で「ウェアラブルデバイスとAIを組み合わせた健康管理」の研究をしていたが、対外対応に時間を取られることが多くなっていた。


 取材の問い合わせが研究所に入り始めた頃、シラカワはカイに一言だけ言った。「アテネの件は俺が対応しておくから」。


 「ありがとうございます」カイはそう答えて、すぐ画面に戻った。


*  *  *



 ある日、母から電話がかかってきた。


 「カイ、お母さんね、最近ちょっと調子が悪くて……」


 カイがシラカワに相談してみたところ、シラカワは母の具合を心配してくれ、自分の研究の被験者として体調管理をするよう提案してくれた。ウェアラブルデバイスをつけてデータを取り、適切な投薬や生活改善をしましょうと。


 後日、母が研究所にやってきた。


 「まあ、白くてちょっと眩しいくらいね」


 「まぁ、ね」


 シラカワの診察室で血液検査などの簡単な検査をいくつか済ませた後、ウェアラブルデバイスの説明を受けた。デバイスについては母はあまり理解できていない様子だったが、シラカワが「そんなに気にしないでください。お風呂の時以外はできるだけ常に装着して、充電だけ忘れないようにしていただけたら大丈夫ですから」と言うと、ほっとした顔を見せた。


 「あとはね、息子さんが研究しているアテネというAIも搭載されていますから。お母さんの声も登録したので『ねぇ、アテネ』と呼びかけるだけで、色々な質問に答えてくれますよ。天気予報とか、今日の運勢とか、ちょっとした相談にもね」


 「まあ、カイの研究なの?」母は嬉しそうな顔をして、さっそく「ねぇ、アテネ、明日の天気は?」と呼びかけていた。


 すっかりシラカワを信頼した様子で、母は帰り際に「あの先生、優しくて良いお医者さんだわ」と言った。


 「うん」


 カイはそれだけ答えた。

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