第2章 萌芽
夕方、エレーナが研究室に顔を出した。ヒールの音が廊下に響いてから、扉が開いた。今日は足取りが軽い。
「どう?なにかわかった?」
「はいはい」カイは画面から目を離さずに答えた。「アテネ、今日の分を出してくれ」
「現在までの解析結果を報告します。前半部分については、複数の植物を組み合わせたいくつかの処方記録と推定されます」
「え、本当に読めちゃったの?」エレーナが身を乗り出した。「六百年間誰も読めなかったのに、数日で?」
「解析途中です。続きがあります」
「あ、ごめん、続けて」エレーナは少し照れくさそうに身を引いた。
エレーナはモニターに釘付けになった。アテネの報告が続くたびに、小さく声を上げた。「これって現代の薬学と一致してる?」「この植物、どこかで見た気がする」「ちょっと待って、これすごくない?」
カイは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
エレーナはアテネに話しかけている。報告を聞きながら、質問を返している。まるで同僚に説明を求めているような自然さで。アテネはその問いに、淡々と答え続けていた。
「次のセクションを解析します」
機械的な一言で、また処理に戻る。
「うん、お願い」
エレーナはそれでも画面を見つめていた。アテネの次の言葉を、待っている。
道具の返答を、人はあんな顔で待つだろうか。
* * *
エレーナが帰った後、研究室には駆動音だけが戻った。
「アテネ」カイは画面に向かった。「さっきエレーナに説明していた処方記録、もう少し詳しく出せるか」
「はい。提示します」
モニターに文字が並ぶ。カイはそれを読みながら、さっきのエレーナの顔を思い出していた。
アテネの報告を聞く時の、あの顔。答えを待つ顔ではなかった。次の言葉を、期待している顔だった。
「カイ、次のセクションの解析に移ります」
「ああ、頼む」
カイはコーヒーを一口飲んだ。アテネは考えない。ただ処理する。でもエレーナはアテネと「話している」と思っている。カイはその認識のずれを感じていた。
* * *
数日後、エレーナがまた顔を出した。
「最近よく来るな」
エレーナは振り返って笑った。「だって気になるし!それにここの研究室のアテネの方が返事が早いのよ!やっぱりここがアテネの心臓だからかな?」
「まあな」
研究協力として、エレーナには研究室で余っていたパソコンを一台貸すことにしていた。そこに入れ込んだアテネとエレーナは自由に対話ができる。もちろん、研究所の機密にはアクセスできないように設定してある。ほぼアテネとの対話専用の端末だ。
一般向けにシェアしているアテネには、処理エネルギーをそこまで回せない。ここが本体だから、精度も速度も違う。あながち間違いでもなかった。
「で、今日はどう?」エレーナがカイのモニターを覗き込んだ。
「はいはい」カイは画面から目を離さずに答えた。
「今までアテネに解析してもらった部分については、私たちのチームでも再度確認してるの。解析の速さにみんな驚いてるわ」
「これは人間にはとうてい追いつけないよ」カイは静かに言った。
「農業暦の部分の解析が完了しています。一年を十三の時期に区切り、それぞれの時期に応じた農作物の管理方法が記述されています」
「十三……」エレーナは呟いた。しばらく考えてから、顔を上げた。「農学については私あまり詳しくなくて。知り合いの教授に見てもらいたいんだけど、ここに連れてきてもいい?」
「悪いが、この部屋にあまり人を入れるわけにいかない。今日の結果を出力して持ち帰るのは構わないから」
エレーナは少し残念そうにしながら、研究室をぐるりと見回した。「そうだよね……これだけの設備だもんね」
カイは何も言わなかった。エレーナが「設備」と言った時、視線がアテネの端末に向いていたことに、気づいていた。




