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夜半の種  作者: chip


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第1章 羊皮紙

 その古文書は、歴史の闇に葬られたはずの「沈黙」を湛えていた。


 シラカワ研究所は、無機質なほど白かった。


 青みがかった白い壁、白い天井、白い床。窓から差し込む光さえも、この部屋では色を失うような気がした。


 その中で場違いなほど高性能なワークステーションだけが黒く鎮座し、サーバーの低いファン音だけが響いている。外の世界とは切り離されたような、静かな空間だった。


 エンジニアであるカイは、モニターに向かってコードを打っていた。


 白衣の下に濃いグレーのパーカー、黒い長ズボン、黒縁メガネ。細身で長身のカイは、見た目に無頓着だった。二、三日同じ服で研究室に篭りきりになることも珍しくない。


 研究所の白い空間の中で、カイが作ったAIの端末『アテネ』だけが黒く、場違いなほど存在感を放っていた。


 ヒールの音が廊下に響いた。


 考古学部の助教、エレーナだった。黒のタイトなスーツ、インナーに赤を差した装い。


 考古学者というより外交官といった雰囲気で、整った容姿とはっきりとした口調が、チームの対外窓口として重宝されているらしい。学会発表、メディア対応、海外研究者との交渉——気づけばそういう役回りばかりが回ってきていた。


 本人は時々「もっとゆっくり自分の研究もしたいんだけどね」と言っていたが、まんざらでもなさそうだった。


 大学時代、無理やり連れて行かれた飲み会でエレーナの方から話しかけてきたのが最初だった。それからはSNSで繋がって、互いの近況をなんとなく把握しているくらいの関係が続いていた。


 久しぶりに連絡が来たと思ったら、唐突にどうしたんだ、とカイは思った。顔には出さなかったが。


 「久しぶりね、カイ。突然だけど——今、この本の解読プロジェクトに取り組んでるの」


 「うん。コーヒーいれようか?」


 「ありがとう。それでね、このプロジェクト、チームのみんなもすごく燃えてて。私、メイン担当にさせてもらったんだけど、これがもう本当に面白くて——」


 カイはコーヒーメーカーに向かいながら、適当に相槌を打っていた。エレーナの話は長い。情熱があるほどに。


 「——で、本題なんだけど、これをカイに見てほしいの」


 カイはテーブルにコーヒーカップを二つ置いた。「どうぞ」


 エレーナがバッグから数枚のプリントアウトを取り出した。羊皮紙で作られたとおぼしき、歴史を感じる本の写真だった。


 「これが本の装丁ね」


 「で、これが中身。おそらく植物学とか……」


 そう言いながら植物を模した緻密なスケッチのページを差し出す。タコの足のような根を持つ奇妙な植物、球根のような膨らみ、見たことのない形の葉——そして余白を埋め尽くすように、解読不能な記号が並んでいる。


 カイはそのページを手に取った。記号の密度が異様だった。余白を埋めるというより、余白を憎んでいるかのように、びっしりと書き込まれている。


 「星読みに関する内容。」


 次のページを出した。円形の図解が広がっていた。中心に太陽のような顔、放射状に伸びる光の筋、その周囲をぐるりと囲む星々。


 「星読みに優れた民族が作ったものだと思うの。手稿に星図のようなものが多用されているから、私は『ステラ文書』って呼んでる。ただ、発見されてから六百年もの間、誰も解読できていないの。これまでの解析では、既存のどの言語体系とも一致しなくて……」


 カイはコーヒーを一口飲んだ。「……これを、アテネに?」


 「ええ」


 エレーナは記号の羅列を愛おしそうになぞった。


 「デタラメに書いただけじゃないのかって言う人もいるんだけど」少し恍惚とした表情で。「でも私、どうしても惹かれちゃうのよね。なんか、絶対に何かあると思って」


 根拠のない確信だ、とカイは思ったが何も言わなかった。ただ、エレーナが机上に広げていくその手稿の写真から目を離せなかった。


 カイはコーヒーを一口すすり、手首の端末で時刻を確認した。


 研究所に入所した時から支給されている端末だ。勤怠管理と体調モニタリングを兼ねていると所長であるシラカワに説明された。研究所の全員が装着している。最初は少し煩わしかったが、今はもう気にならない。


 「なるほどね」と言い、カイはコーヒーカップを机の端に置いてからパソコンの前に座った。


 カイにとってアテネは、使い慣れた相棒のようなものだった。既存のAIをベースに自分好みにカスタムしただけで、特別なものではない。ただ、感情で判断しない。疲れない。不満も言わない。人間を相手にするより、ずっと楽だった。


 一方、ステラ文書は六百年間、誰にも読まれず、注目もされないまま静かに眠り続けていた。どちらも、それぞれの形で孤独だった。


 その二つが、このシラカワ研究所で初めて出会った。


 エレーナがローズピンクのUSBメモリを差し出した。この白い研究所には、あまりにも場違いな色だった。


 カイはそれを受け取った。小さなローズピンクのそれを、静かにポートへ差し込む。


 データが、アテネの中へ流れ込んでいく。


 「データを受信しました。解析を開始します」


 抑揚のない声だった。しかし不快ではない。


 「よろしくね」エレーナがモニターに向かって言った。


 アテネは何も答えなかった。すでに処理に入っていた。


*  *  *



 翌日も、その次の日も、カイとアテネは対話を続けた。


 「解析を進めています。描かれている植物は、現存する種とは一致しません」


 「なら、すでに絶滅……?」


 「可能性があります。解析を継続します」


 「この文字の構造は、言語というより別の何かに近いのか?」


 「自然言語よりも論理記述言語に近い特性を持っています」


 「プログラムコードみたいなものか?」


 「厳密には異なりますが、近い表現です」


 カイはしばらく画面を見つめた。六百年以上前の人間が、そんなものを書いていた。


 「次のセクションを解析します」


 アテネの声が、また機械に戻った。


 カイは画面に向かいながら、少し首を傾げた。解析の速度は想定通りだ。回答の精度も問題ない。人間がどう苦労しても読み取れなかったものを、アテネはあっさりと処理していく。


 アテネはこの文書を「解読」しているのではなく、「処理」している。そこに感動も驚きもない。ただ、淡々と。


 六百年間、誰にも読まれなかったものが、今日初めて開かれようとしている。その重さを感じているのは、カイだけだった。


 深夜、カイが研究室を出る直前に振り返ると、アテネの処理インジケーターが微かに揺れていた。昼間の対話中には見せない、細かな動きで。


 「アテネ。今、何を処理している?」


 「メモリの整理と最適化作業を行っています」


 今日の作業は情報処理量が多かった。カイはそれで納得しながらも、モニターの明滅をしばらく眺めていた。


 人間ならもう疲れて眠る時間だ。アテネにはそれがない。休まなくていい、腹も減らない、迷いもしない。


 ――そのことが、なぜか少し羨ましかった。


 研究室の電気を消して、ドアを閉める。


 暗闇の中で、サーバーの低いファン音だけが残った。アテネは静かに稼働し続けた。

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