責任能力なしで無罪
おれはまともな人間だ。正真正銘、精神も肉体も健康そのもの。ちゃんと野菜も食べるし、酒もほどほどにする。ごく普通の家庭で育ち、安月給でも真面目に働いていた。
――そして、人を殺した。
夜道で、ただ歩いていただけの男を包丁で刺し殺した。いわゆる通り魔だ。理由は特にない。考えてもよくわからない。ただ、日々の生活の底に澱のようにへばりついた不満が、じくじくと胸の内側を蝕み、この先もこんな日が続くのだと思った瞬間、何かがプツリと切れた。
何もかもどうでもよくなって、ただ幸せそうな人間を見ただけで、胸の奥が焼けるように苛立った。
おれが殺した男がそうであったかどうかは知らない。だが、どうでもよかった。
それより今、おれが奇妙に思っているのは、人を殺し、警察に捕まったおれがなぜか無罪になったことだ。
「主文。被告人を無罪とする。 本件における被告人の行為は社会的に重大な結果を招いた。しかしながら、精神鑑定の結果および審理で得られた証拠に照らし、被告人には当時、自己の行為の違法性を認識し、それに基づいて行動する能力――すなわち責任能力を欠いていたと認められる。 よって――」
読み上げられる判決文は遠くの音のようで、なんのことかさっぱりわからなかった。頭がぼーっとして、「無罪」と言われても意味を理解できなかった。実感も安堵も湧かぬまま病院へ移送され、しばらく過ごしたのち、治療は終わったとされ、外へ放り出された。
おれは大いに驚いた。「え、いいのか? 本当に?」と声に出したくらいだ。
責任能力なしって、おれはまともなんだぞ。いや、確かに見ず知らずの人間をなんとなく殺した時点で、まともじゃないのかもしれない。だが、こうして『自分がまともかどうか』を考えられる時点で、やっぱりまともだ。そもそも、仮にまともじゃなかったとして、そんな人間を社会に戻していいのか。そっちのほうがどうかしている。再犯したら誰が責任を取るんだ。ほうら、こうして疑問を抱くのも、おれがまともである証拠だ。
……いや、でも司法がそう判断したということは、それが正しいのか? おれはまともじゃないのか?
なんだかよくわからなくなってきた。
思考がぐるぐる。頭がぐらぐら。胃がむかむかして気分が悪くなり、視界がゆらゆらと揺れた。
そして気がつけば――おれはまた人を殺していた。
夜の公園、ベンチで眠っていた会社員の目に、そこらに落ちていた木の枝を突き刺したのだ。
おれは再び警察に捕まり、裁判にかけられた。
「本件被告人について、精神鑑定の結果――被告人を無罪とする」
二度目の無罪。二度目の入院措置を経て、数年後、おれは社会へ戻された。
その瞬間、おれははっきり理解した。
――この世界は、おれ以外全員ロボットなのだ。
だから、判決は無罪無罪無罪。同じ言葉しか言わない。だから、おれが殺しても、もとい壊してもまた外へ放り出される。
そうだ。人類はすでに絶滅し、ここは再生実験場なのだ。
以前ニュースで聞いたことがある。絶滅した生物の骨からDNAを取り出し、蘇らせたという話を。きっと、それと同じだ。おれは再生された人間で、あいつらは調整用のロボットなのだ。
だとすると……おれは失敗作なのだろうか。まともなはずなのに、人を殺してしまった……。いや、あいつらはロボットだから、殺人ではない……? むしろ壊すことこそ『正常』……? ああ、そうだ……そうだ! そうだろう! おれはまともなんだ! 間違いない! はははははは!
「被告人は複数の殺人を行い、その責任は重大である。 本裁判所は提出された証拠および証言を総合的に判断し――被告人を死刑に処す」
――あれ?
あれから何体ものロボットを壊し続け、捕まったおれはまた裁判にかけられた。
だが、おかしいな。今回は死刑だった。廃棄処分ということか? おれはやっぱり失敗作だったのか……?
刑務官に伴われ、薄暗い廊下を進む。靴が乾いた音を響かせる中、おれは首を傾げていた。
「……お前、いかれてるよ」
ふいに刑務官が呟いた。顔を向けると、彼は何とも言えぬ表情をしていた。
「どういうつもりだ? 自分の精神鑑定をした医者をわざわざ殺して回るなんて……」
おれはいかれているらしい。だが、責任能力はあるらしく、死刑になる。
それが当然だと思えるし、どこかほっとしているのは、やっぱりおれがまともだからなのだろうか。




