第1章 星に願う夜(前半)
――出会いの丘――
風の冷たい夜だった。
街の灯が遠く滲んで、丘の上の空は深い群青に沈んでいる。
その静けさの中で、千紗は望遠鏡を組み立てていた。
カチリ、と金属音が響く。レンズを覗く前から、心はもう夜空の彼方にいた。
大学では天文学を専攻している。
研究室では観測データと数値ばかりを追いかけるが、
本当の彼女が求めているのは、理論でも発表でもなく――“瞬間”だった。
たった一度の光との出会い。
それが、彼女が星を愛する理由だった。
息を吐くたび、白い霧が空へ溶けていく。
ふと風が止み、世界が音を失った。
そんな時だった。背後から、静かな声がした。
「こんばんは」
千紗は振り向いた。
そこには、ひとりの青年が立っていた。
黒いコートを着て、両手をポケットに突っ込み、
月明かりを受けて微笑んでいる。
「ここ、星がよく見えるって聞いたんです。もしかして、観測中?」
「ええ……ここは街の光が少ないから」
少し警戒しながらも、千紗は答えた。
しかし青年の瞳に映る星の光が、どこか懐かしく感じられた。
まるで昔から知っていたような安心感。
「星、好きなんですか?」と千紗が尋ねる。
「好きですよ。新しい星を見つけたいんです」
「……新しい星?」
「はい。まだ誰にも知られていない、小さな星。
誰かの目に届かなくても、ちゃんと光ってる。そういう星を見つけたいんです」
千紗は言葉を失った。
“新しい星”という響きが、彼女の心を強く揺らした。
彼の夢は、ただの空想ではなかった。
そこには確かな熱があった。
「あなたは?」と青年が聞く。
「私は……天文学を勉強してます。星の生まれと死を観測して、その光を記録するの」
「じゃあ、すごいじゃないですか。星の言葉を聞く人だ」
茶化すような声に、千紗は思わず笑った。
その笑い声が風に溶け、丘の静寂に柔らかく響く。
「名前、教えてもいいですか?」
「……千紗です」
「千紗。いい名前だ。俺は翔です」
その名を聞いた瞬間、
千紗の胸の奥で、何かが音もなくほどけた。
――翔。
飛び立つような名。空に向かう音。
まるで、この夜にふさわしい名前だった。
その日、二人はしばらく空を見上げていた。
翔は星の形を指でなぞり、
千紗は天体の名前を穏やかに説明した。
ふたりの声が混ざり、空気があたたかくなっていく。
夜が更け、東の空がわずかに白み始めた頃、翔が言った。
「また、ここに来てもいいですか?」
「……もちろん」
「じゃあ、約束。次も同じ時間に」
その言葉が、不思議なほど自然に胸へ落ちた。
千紗は頷き、望遠鏡をたたみながら微笑んだ。
風が、優しく二人の間を通り抜けた。




