第七章•ーー〈出発〉㊀
白い光が満ちた世界に、紅は立っていた。
暑くも、寒くもなくーーとても穏やかにーー深い静けさに包まれーー美しくもあり、同時に、背筋がすうっとするような、恐ろしさーー畏怖の念を抱くーーー
………人は死んだら、こういう世界に、くるのだろうか………
………死んだら………死んだら?………
ぼうっとした頭が、まるで冷水をかけられたように、一瞬にはっきりとした。
全身から、血の気が引くのだった……。
そのときーーー
遠くから、なにかが近づいてきた。
音もなく、見渡す限り、真白な濃霧に包まれたような光の世界を、その圧倒的な気配と共に、こちらへと、近づいてくるーーー
紅は息を凝らして、見つめるのだった………
するとーー視線の先に、〈シルエット〉が現れる。
白い光のなかを、ひと際煌々と輝く、なんとも神秘的なーー〈金色のシルエット〉ーーー
………〈鹿〉………?
輪郭だけで、すがたははっきりと見えなかったが、息をのむ麗しい影絵には、堂々たる見事な〈枝角〉があった。
••••••ときがきた••••••
どこまでも深く、幽玄な声が響くーーしかし、それは、人の声ではない。
静謐な光がそのまま、音になったようなーー古雅な楽器の奏でる、風流な音のようなーー霧深き深山幽谷から、底知れずこだましてくるようなーー神威的な声ーーー
そして、その声は、耳にではなく、心の内にーー不思議なぬくもりをもって、響いてくるのだった………
〈大鹿のシルエット〉がさあっと消えーー次の瞬間、〈人のシルエット〉が現れる。
やはり、はっきりとすがたは見えなかったが、同じ〈金色のシルエット〉は、背が高く、広い肩幅の、勇壮な体躯の男のすがただった。
••••••『迎えがきております』••••••
低く太いーー齢を重ねた、威厳を湛えた声ーーー
紅は、なぜだか、はじめて聞くその声がこだました瞬間、胸がいっぱいになり……あたたかい涙が溢れ、頬を伝った……。
熱く濡れた目を、ぎゅっと閉じる………
………〈夢〉だ……ただの〈夢〉……そうに決まってる………
紅の目が、ゆっくりと開く。
暗い景色に、ぼんやりと、見慣れた天井のすがたが映る。
自分の部屋のーー自分のベッドーー。
紅はしずかに、身を起こした。
(あれは……なんだったんだろう……)
〈夢〉のなかで見た、〈二つのシルエット〉ーーこだました、〈二つの声〉がーー紅の内に強く焼きつき、深く刻み込まれていた……。
真夜中の、深閑とした部屋に、紅は鼻をすする。
耳まで伝い流れた涙を拭おうと、あたたかい掛け布団から、手を伸ばしたーー
刹那、はっと息をのむ……!
「うそ……」
再び、あの光景がーーそれはまぎれもなく、例の光ーーひと目にわかる、〈火の模様〉がーー両の掌に浮かび、真っ赤に輝いていた!
輪のなかに見える、今にも勢いよく火花を散らし、炎炎と踊り出しそうな、〈力強い火の模様〉は、明らかに、前回よりも今回のほうが、その赫々たる存在感を増していた。
「なんで……なんで……」
震えた両手を、強く擦り合わせ、そうすることで、あたかも〈模様〉が消えるかのように……半ば祈りながら……涙目に続ける………
ーーと、紅の顔が、ぱっと窓へ向く。
「なに……」
静まり返った部屋のなかーーコツ、コツ……コツ、コツ……と、固いなにかが、窓ガラスへあたるーー(それはまるで、扉をノックするような)ーー小さく乾いた音が響いた………
心臓が激しく打ちーー凍りついたように、そのまま固まる……。
しばらくして、ようやく……意を決した紅は、ベッドから床へおりる。
音のする、カーテンの引かれた窓のほうへ、恐る恐る……足を進めた………
明かりをつけず暗い部屋に、代わり〈火の模様〉が赤く浮き輝く手で、白いカーテンをそっと掴む……ひとつ息を吸い込み………ばっと開いた!………
「……ちょっと……待って……」
息を切らした紅は、苦しく膝に手をつく。
昼間とちがい、深い眠りに包まれた真夜中の街は、不思議に新鮮で、生まれ育ちよく知っているはずの、見慣れた街のすがたとは、違うものに見えるのだった。
それもそのはずーーこんな夜夜中に、寝静まった家からこっそりと抜け出し、しかも、こんな格好でーー上は寝ていたときのままに、紫色に星柄のパジャマ、下はさすがに、上着で隠すわけにもいかないので、慌てて着替えた、灰色のジャージすがたーー。
こんなに遠くまでくるのなら、やはりちゃんとした服に、着替えてからくるべきだったと、紅は今さらながら、後悔しているのだった。
万が一、誰かに見られたら……。狭い世界に、すぐに噂が広がって、学校中の笑いものになる……。
(やっぱり、帰ったほうが……)
汗をかいた身体に、ひんやりとした春の夜風が、励ますように吹き抜けた。
紅は、大きく息を吸うと……見上げる空中に浮く、〈赤い光を孕んだ、透明な玉〉を、見つめた……。
夜の闇が包む景色にーーこの世のものとは思えぬ、神秘さを放ち、光り輝く美しい〈玉〉を、こうして改めて見つめても、やはりこれは、まだ〈夢〉のなかではないのだろうか……と、そんな思いが、するのだった……。
(そうだ……)
これが〈夢〉であれば………
今も両の掌に浮かび、赫々と光り続けているこの〈模様〉もーーこんな格好で、真夜中の街にいることもーーそして、視線の先に映る、自分を家まで迎えにきて、今どこかへ導いている、〈神秘的な光の玉〉と、心が通じているように感じるのもーー別になにも、問題はないのだ。
現にこうしてーー〈夢〉のなかで聞いた言葉通りに、なっているではないか。
相変わらず宙に浮いた〈玉〉を見つめて、紅が口を開く。
「もう少しゆっくり……せめて、歩いていくのではだめ……?」
すると、まるでその言葉に反応したように、〈光輝な玉〉が、空中高くからヒューっと、紅の目の前に、下りてくるのだった。
恐ろしく澄んだ中に見える、赤い光の流れが、凜々と脈打つように……きらきらと輝いている………
心に伝わったものをーー紅は口にした。
「急がなきゃ、だめなんだね……」
紅はあきらめて、ため息を吐くと、落ち着いたばかりの鼓動に、早々に別れを告げた。
そして、深呼吸する。
「……いいよ」
目の前に浮いていた〈光の玉〉が、再び高くへ、舞い上がったーーー




