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第六章•出発ーー

青い闇がゆっくりと溶け、夜明けを告げる、淡い光が漂う岸辺にーー男が立っていた。

黒いマントを纏った男は、もう長いこと、美しい水鏡にぴんと張りつめた、広大な〈湖〉と、向かい合っていた。

男のすぐ近くには、その樹齢、千5百年という、まさに圧巻なすがたの〈桜の大樹〉が、はるか長きに歴史を積み重ねてきた、荘重に風雅な趣のなかに、今を盛りと、満開に咲き誇っていた。

不思議にーー風はそよとも吹かなかった。

サザの黒い瞳が、手のなかにある、〈しなび黒ずんだ葉の包み〉を、見つめる……。

今〈葉の包み〉は開かれーーそこに、〈一つの種〉が、静かにのっていた。

〈種〉ーーといっても、その名に想像するすがたとは、かけ離れたものだった……。


「〈パドールの涙〉……」


麗しく透き通る、みずみずしい球体ーーー


それは、〈5の光の玉〉と同じほどーーちょうど、親指と人差し指をつけ合わせ、輪をつくった大きさをしていた。

包んでいた〈葉〉のすがたとは、まるで正反対の輝きを宿した、〈透明な種〉ーーー

だがーーサザにはわかっていた。

この一見みすぼらしいような、〈しなびた葉〉の存在こそが、長いときーー今このときまで、清らかに明澄なる〈種〉を、粛々深々とーー守り続けてきたのだ。


〈凛緑山〉の山奥深く、〈神獣•サウゴーン〉の住みかにあるという、一本の神聖なる樹ーー〈ラームの樹〉ーーー

その樹につくのが、もとは純白なる葉であるという、この〈ラームの葉〉であった。


サザは、〈葉〉の上に見つめる〈種〉を、指で慎重につまみ、持ち上げた……

刹那ーー双眸が大きく見開かれる!

「柔らかい!……いや……固い……?」

先代の王が残した〈手記〉にあった通りに、〈透青湖〉へ着いてから、はじめて〈葉の包み〉を解いた瞬間と同じ衝撃が、第二側近の身を貫き走るのだった。

曙の澄んだ光に、それは一種の恐ろしさを感じるほど、どこまでも透き通った〈種〉は、サザが生まれてはじめて触り感ずる、なんとも不思議な感触をしていた……。

指に持つと、ムチっとしーー外側がまるで、弾力のある厚い膜に、しっかりと覆われているようなーーそのなかに、トロリとした液体が、たしかに満ち満ちて、詰まっているようなーー言葉にするならば、そのような感覚だった……。

「いい加減に、腹を括らねば……」

〈種〉を見据え、焦りの滲む声で、サザがつぶやく……。

夜が明け、辺りが明るくなれば、他の者に見られてしまう可能性が高くなる。ーーもうじきに、近くに暮らす〈スーレン族〉の者たちも、朝の祈りに、〈湖〉へやってくることだろう。

ラング•サザは、四代目国王ーーナリ花王の第二側近として、密命を帯びた。

なんとしても厳秘に、事を進めなくてはならない。

未だかつてない、重大な使命をその身に背負ったサザは、まだ漆黒の闇に包まれた夜半のうちに、一人音なく〈城〉を出発し、夜明け前には確実に〈湖〉へたどり着けるよう、細心の注意をもって、計画を練り立て、ここまでやってきたのだ。

つるりとなめらかに、清らかな〈種〉と見つめ合った、サザの内にーー父王が残した、〈手記〉を読み上げた、ナリ花王の声がこだましよみがえる………


………『〈パドールの涙〉ーー清澄なる〈種〉をのみ込み、〈湖〉へーー。 〈シルカイア〉の使い、迎え現れ、その入口へ、導かれたしーー』………


チクチクと乾いた喉が、ゴクリっ……と、かたまりを飲み下すように、音を立てた……。

〈手記〉にあった通りに、あとはこの〈種〉を、今すぐのみ込めばよいのだ……。

のみ込むだけ……はやくのみ込まねば……それなのに……サザはなかなか、それができずにいた……。

強張った口元に、微苦笑が浮かぶ。

「ラング•サザ、おまえはそんなに腰抜けだったか……」

怖いのかーーと己に詰問すれば、これまで生きてきた三十八年ーーまこと多くのことが、身の内にも外にも起こり、そのたびに、感ずるさまざまな感情が、湧き上がったものだが、これまでの人生で、それは間違いなく最もにーーこんなにも悔しく、そして情けないことはなかったが、今はその感情を、素直に認めざるをえなかった……。

第二側近は、襲ってくる恐怖と、必死に闘っていた……。

己に託された、使命の重さーーとてつもない、責任の重さーーそれらの間で揺れ動き……苦しみ……しずかに葛藤していた……。

「自分が行くと、決めたんだ……」

サザは、己を鼓舞するように、つぶやくと、瞼を閉じるーーー


ドクっ……ドクっ……ドクっ………と、激しく身を打つ心臓の響きが、衣の内側ーー首から下げた、王国の〈紋章〉が縫い取られた、〈紫の巾着〉を、その確かな存在感と共に、震わせたーーー

〈巾着〉のなかにはーー〈5色の輝きを孕んだ、5の光の玉〉が、入っているのだった。

凪となってきた暗闇にーーマル花王のすがたーーナリ花王のすがたーー師匠、ハスギの顔が浮かぶーーー


閉じられていた瞼が、ゆっくりと開いたーーー

痺れたように、長いこと止まっていた足が、ようやく動き出すのだった。

〈満開の桜〉に見送られ、サザは視線の先にある、小さな木造の舟が繋がれている桟橋へ、向かっていった。

ロープで繋留された小舟へ、静かに乗る。

大きく深呼吸し……指に持っていた〈種〉を、口に入れた!………

(……っつ!……)

黒い瞳が見開かれた刹那ーー乾いた喉が、ゴボリっと大きな音を立てて、飲み下される!

〈種〉の大きさからして、まるまるのみ込むのは難しそうだったが、噛んでみるのかーーどうするのかーーそれは考える間もなく、〈透明な種〉はサザの口に入った瞬間に、パチンっ!と弾け、一気に満たし詰まっていた中身が、流れ出たのだ!

弾けた勢いそのままに、のみ込んだ後には、微かにまろやかな塩味とーーまるで、乱れた心を落ち着かせるような、静謐に芳醇な香木のような香りが、ふわりと広がり、すっと消えていった………

サザは、しばし呆然と……小舟に立ち尽くすのだった。

とーー鍛え抜かれた身が、ビクっと動くーーー

それは、王の一番近くに仕える、側近という重役を務めるがゆえの、血肉に叩き込まれた習慣ーー習性ーーいかなるときも、決して緩むことのないものだった。

押し包む静寂にーー微塵も音を立てずーー第二側近はすっとしゃがみ込むーーー

いち早く、なにかが近づいてくる気配を感じ取ったサザは、無意識のうち、腰にある剣の柄へ右手をあてていた。四方に広く鋭く視線を走らせ、考えられるあらゆる状況に応じた、動きのパターンを準備した。

そこに、殺気のないことがわかっても、意識をして繰り返した呼吸のなかに、短く息を吐いただけで、決して気を緩めなかった。

慎重に……小舟から少し身をのりだして、穏やかな湖面を見据える………

張りつめた水面にーーさざ波がうまれ、それがスルスルスル………と、こちらへ、向かってきた………

息を殺した、サザの目にーー澄んだ水のなかを泳いでくる、鮮やかな朱色が、映るのだった。


「まさか……本当に……〈フェフェーン〉なのか……」


水面近くに現れた、二匹の艶麗な〈フェフェーン〉は、それぞれ体長が一メートルほどに、なんとも雅やかな、羽衣のような長いひれを、優雅になびかせていた。


まるでサザを、迎えにきたように、小舟の近くに、とまるのだった。

冷静に考えてみれば、水中にいる典雅なかれらに、なにか話しかけたところで、まず言葉が通じるとは思えない。そのような行為は、十中八九まで、馬鹿げたことに思えるはずだ。

だが、しかし、この〈フェフェーン〉を目にしたものは、何人たりとも、その常識の内にはいられない。

例にもれず、王の第二側近を務めるラング•サザも、またそうであった。


「〈シル•カイア〉の使いたちよ、私は〈種〉をのんだ。 これから、どうすればよい……」


水中にとまっている、〈フェフェーン〉のすがたは、さながら、二つの朱色の大輪が、幻想的にーー匂い零れるように、咲き誇っているようだった。

優美な使いたちが、水上にいるサザの言葉に、答えるはずもなかったが、ここで、いとも不思議なことが起こった………

それは忽然とーー揺れるサザの心に、これからなにをすべきなのかーー浮かび上がったのだ。


…………〈湖〉のなかへ…………


サザは恐る恐る……小舟から、清らかな水面に片手をつけてみた………


「……っっ!……」


息をのんだ先ーー湖面につけた自分の手と、その手の周りに広がった、〈奇妙な膜〉が、映るのだった……。

手をぱっと引き上げてみたが、やはり掌は、わずかな水滴もついていなければ、まったく濡れてはいなかった。

水のひんやりとした冷たさは、確かに感じたのに……〈膜〉があることで、水には一切、触れなかったのだ。

第二側近の顔には、血の気がなかった。

こんなことが……現実にあろうとは………

背筋がすうっと、寒くなった。全身の肌が、粟立っていた。ーーと、同時に……抑えきれぬ興奮が、ぞわぞわと湧き上がり震えるように、身を駆け巡った……!


一陣の風が、吹き抜けるーーー

高古な〈桜の樹〉が揺れーー花びらが舞う………


サザは意を決すると、小舟の上に立ち上がる。

そして、深く息を吸い込み……ぎゅっと鼻をつまむと、できるだけ静かに、足から〈湖〉へ入った!………


••••••ザバっ••••••


目を開けるとーーそこには、青く壮麗な世界が、広がっていたーーー

見渡す限りの白い砂ーーそびえ立つ、大きな岩たちーー向こうには、背の高い、艶やかな水草の森が、生気を満ち放ち、広がっている。

その神秘的な森から、きらきら光る、美しい小魚たちの群れが、一斉に飛び立った。

全身を空気と共に、ゆったりと覆い包んだ、〈薄い膜〉を通して、ひんやりとした、水の心地よい冷たさを感じた。

この息をのむ光景をーーナリ花王、そして、師匠であるハスギにも、見せられたら……。

胸から熱いものが込み上げ……途端、はっとする。滲んだ視界を、強く瞬き、気を引き締めた。

まだまだこれから……道のりは長いのだ……。

サザは鼻をつまんでいた手を、恐る恐る、離してみる……黒い瞳が、さらに大きく見開かれた!

(息ができる!)

ーーが、すぐに、背筋をぞくりとする、重大な現実に突き当たる。

この不可思議な〈膜〉のなかにある空気だけで、これから広大な〈湖〉のなかを、進んでいかねばならないのだ……。もしも……途中で空気がなくなったら……。

サザは、邪念を振り払うように、首を振った。

(やるしかない……ならば時間をむだにするな……)

そのとき、サザの目の前に、あの二匹の〈フェフェーン〉が、やってきた。

こうして水のなかで、改めて前にすれば、その艶やかな美しさはえも言われぬほどで、ナリ花王からかつて、〈透青湖〉にまつわる〈伝説〉を拝聴した通りに、〈シル•カイア〉に仕える、神聖なる生きものであるのだと、身にしみて、感銘を受けるのだった。

二匹の〈フェフェーン〉は、サザを導くように、前を泳いでいくーーー

〈透明な膜〉に包まれたサザも、元より泳ぎが得意な長い手足を動かして、不思議な感覚に、そのあとについていくのだった。

それにしても、〈フェフェーン〉は、なんとも変わった泳ぎかたをした。

スルスルスル………と、泳いでいくと、突然ポワーンと、水中を跳ねるように、軽やかに浮き上がる。

スルスルスル………ポワーン………スルスルスル………ポワーン………これを繰り返して、進んでいくのだ。


ふと気がつくと、驚いたことに、いつの間にかサザの周りには、甲羅をつけた、体長三十センチほどの、生きものたちがいた。

甲羅からのびた、長く平たい前足をなめらかに動かして、その見た目に裏切られるような速さで、共に泳いでいくーーー


(〈コキョ〉……)


サザを取り囲むようなかたちに、まるで警備にあたっているかのようなすがたは、これまた、ナリ花王からかつて拝聴した、〈伝説〉の通りであった。

ーー〈コキョ〉は、〈透青湖〉を見まわる、衛兵であるーーーと。

先頭に二匹の〈フェフェーン〉ーーその後ろをサザーーサザの左右後方を、十5匹ほどの〈コキョ〉たちが囲んだ一行が、しばらく進んでいくと、ついに、前方に目指す〈目的地〉が現れた。

(すごい……)

今までにも、〈ルピネ〉のすがたは、〈湖〉で何度か見たことがあった。

だが、これほどまでの、圧巻な数の光景は、はじめて見るのだった………

何千ーーいやーー何万匹ーーという数の、コロンとした、掌ほどのまるい傘状をした〈ルピネ〉が、透きとおる傘の部分を淡く光らせて、そこからのびた触手をゆらゆらと……気持ちよさそうに、漂っていた。

数えきれぬほどの〈ルピネ〉たちは、中心にある、まるでトンネルのような、巨大な水流の渦のまわりを、形作るように、漂っている。

サザを護衛していた〈コキョ〉たちが、無事任務を果たし終えたように、すーっと、離れていくのだった。

前を導く二匹の〈フェフェーン〉は、〈ルピネのトンネル〉の入口へ向かって、上へ上へとーー優雅に泳いでいった………

サザも、滲んだ汗に、残る力を振り絞り、懸命についていく………

そして、入口に着くとーー〈フェフェーン〉は左右にわかれて、向き直りとまるのだった。


「……ありがとう」


美しい〈神魚〉の使いを見つめ、サザが言う。


トンネルの入口は、水流がグルグルと勢いよく渦巻いて、先のほうは、真っ暗だった。

火照っていた熱がみるみるうちに冷め……全身が粟立ち……心臓が早鐘を打つ………

(ここまできたんだ……)

第二側近は目を閉じて、最後に大きく、息を吸い込む………


「〈5の守護神さま〉を、王国へっ!……」


〈膜〉に包まれた、サザの身体が、〈ルピネのトンネル〉へ、吸い込まれていった………

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