第四章•めでたい屋
赤い三角屋根の、郵便局がある通りを、真っすぐに進んでいくーー。やがて、右側に、目印となる、丈高いイチョウの木が現れた。
紅は、青々と葉を茂らせた、大木の向かい側ーー道路を挟み、それはよくよく探さねば、思わず通り過ぎてしまいそうな、細い路地に、入っていくのだった。
人がひとり、それも横歩きにやっと通れるほどの、狭く小暗い路地を抜けると、再び明るい陽の満たす、静かな通りへ出る。
さきほどの通りよりも、道幅が狭く、両側に建ち並んだ、瀟洒な建物たちはみな、住家であった。
鳥たちのうららかなさえずりが、心地よく響き渡る、閑静な住宅通りを、紅は目指す通りの奥へ、足を進めていったーー。
歩みを進めながらーーふと、はじめてその店へ行ったときのことを、思い出す………
(あれはたしか……)
〈スーレン緑青学舎〉の、〈緑門〉に入学したばかりの、十三歳のときだった……。
その日も、今日のようにーーなにかモヤモヤと、暗い気持ちに沈んでいた、学校の帰りに、偶然、店を見つけたのだ。
考え事をしながら歩いていてーー気がつくと、紅はあの目印となる、青空へ高く枝葉をのばした、イチョウの木の前へ、やってきていた。
そして、向かいにある細い路地を見つけ、最初は少し躊躇したが、結局は好奇心が勝り、薄暗い路地を抜けて、ちょうど今のように、この密やかな通りへ、たどり着いたのだ。
そこから店までは、これまた不思議なことにーー紅ははじめてきた通りであるにも関わらず、なぜか通りを奥へ、迷いなく、進んで行ったのだった。
今改めて思い返してみると……あのとき、自分はなにかに……呼ばれていたような気がした……。
霊的な世界を、とくに信仰しているわけではなかったが、確かに第六感ーーとでもいうのか……それがなにであるかを知りたくて……足を、進めていったのだ……。
回想にふけていた、紅の目にーー二つ目の目印である、山吹色の三角屋根にのった、深緑の風見鶏が、見えてくるのだった。
そして、ほどなく、風にのって、甘い香りが漂ってきた。
一日中、固く結ばれていた紅の口元が、自然と緩み、向かう足取りも、自然とはやくなっていった。
その店ーー〈めでたい屋〉は、通りの突き当たりに、ひっそりとあった。
目立つ看板はなく、また静謐な通りにある、他の家々とはちがい、この建物だけが、どこか異彩を放ちーーそれを言葉にするならば、まるで異なる時代を纏っているようなーーそんな趣が、静かに存在していた。
緑色の風見鶏ーー山吹色の屋根ーー深みのある、あたたかな木の造りーー
大きすぎず、小さすぎず、それはちょうどよいすがたの、二階建ての建物の前には、いつも季節を告げる花たちが、美しく咲いていた。ーー四月の今は、コロンとしたかたちが可愛らしい、色とりどりのチューリップの植木鉢が、明るく迎える。
そして、紅がいつも決まって、なかを覗き込む、艶やかな白地に青い蔦模様の入った、美麗な壺ーー。
縦長に、背丈のある紅の腰ほどもある、大きな壺のなかには、澄んだ水に繊細な水草と、なんとも優雅なすがたの朱色の金魚たちが、涼やかに泳いでいた。
なかでも、紅が一番好きだったのは、木の玄関扉を縁取った、色鮮やかな、ガラス飾りだった。ーー飾りは、一つ一つが厚いタイルのような、四角い正方形のかたちに、赤や黄、青に緑に紫、橙とーー鮮やかな色彩たちが、陽の光に思わずうっとりとするような、幻想的な輝きを放っていた。
店主の家だと思われる、不思議に、魅力的な建物の一階部分ーー小さな窓口のようなすがたに、〈めでたい屋〉のお店はあった。
「こんにちは……」
「いらっしゃいませ」
店の窓口に座っていた、〈えびす様〉が、いつものようににこやかに、お客を迎える。
見たところ、紅の祖父母たちよりも年嵩に、齢八十近いのではないかと思われる、店主のかわいらしいおじいちゃんは、そのまるい顔ーーいかにも縁起の良さそうな、立派な福耳ーーそして、いつ来てもにこやかにーー(お店の営業日、定休日共に知らないが、今まで一度も、来てみて閉まっていたことはなかった)ーー微笑みを浮かべているすがたから、紅は心の内勝手に、七福神の一つである、〈えびす様〉と、呼んでいた。
それにまんざらでもなく、本当の〈えびす様〉も、その右手には釣り竿、左手には〈鯛〉を、抱えているのだ。
はじめてこの店へきてから、もうすぐ5年の時が経とうというのに、これまた不思議なことに、店主の〈えびす様〉は、少しも変わったところがないように見えた。お客としてときどきやってくる、紅のほうが、この5年間に、それは当たり前のことながら、見た目にもわかる、成長の変化をとげていた。
〈めでたい屋〉に、看板というものがなければ、唯一あるのが、店の窓口に立てかけてある、小さな木の板。
そこには、いかにもあじわいのある筆字でーーー
めでたい屋
〈あんこ ニ○○円〉
〈くりーむ ニ○○円〉
と、書かれている。
そして紅は、店へ来るたび、思うことがあった。
ーー果たして、自分以外に、他にお客さんはいるのだろうか?……と。
場所も、かなり奥まっていて、目立つ看板もないとくれば、お客さんが少ないのも、しょうがないとも思う。素敵な家もあることに、店主もべつに儲けようとして、お店をやっているわけではないだろう。小さな店が、自宅の一部分にあるとすれば、たとえお客さんがほとんどいなくても、お店がつぶれてしまわないこも、合点がいく。
だが、それにしてもーー紅は今まで、この店で、自分以外のお客さんのすがたを、見たことがなかった。ーーいや、正確にいうならば、ただ一度だけ、であった。
その一度というのは、小さな男の子の、お客さんだった。
しかし、これほどおいしい〈たいやき〉は、どこを探そうともーー(もともと、とくにその食べ物が好きだったわけではなかったが)ーー他にどこにもないはず。
なぜ、こんなにもおいしく、値段も手頃なお店が、流行らないのだろうか……と、常々、不思議であった。
といっても、紅自身、お店のことを、他の誰かに教えたことはなかった。
おいしい〈たいやき〉を食べながら、その間だけは、なにも考えずーーなににも煩わされずーー心を落ち着けて、一人静かなときを過ごせることが、敏感な神経にすり減り、たびたび一杯一杯になってしまう紅にとって、とても大切なひとときであったからだ。
「いつものを、ご用意しましょうか」
〈えびす様〉が、まるで後光の見えるような笑みを湛えて言う。
「はい。お願いします」
紅は鞄から財布を取り出し、窓口に置いてある、淡いピンク色の、桜の花の形をした小皿の上に、二○○円を、カチャンと置いた。
〈めでたい屋〉の焼き場は、上品な紫色の暖簾がかけられた、店の奥にあった。
いつも注文をするとーー注文といっても、メニューは〈あんこ〉と〈くりーむ〉の二種類だけで、紅はいつも決まって、〈くりーむ〉を一つ、頼むのだがーー〈えびす様〉が暖簾の奥へ消えて、だいたい十分ほどで、焼きたての〈たいやき〉を、手渡してくれる。
なので、いつものように、暖簾の奥へすがたを消した〈えびす様〉が、すぐにもどってきたときには、紅は少し驚いた。
もしかしたら、自分の前にお客さんがいて、ちょうど焼いていたのかもしれない。
聞いてみようか……どうしようか……と、迷ったあげく、紅は結局なにも言わず、いつものように、にっこりとした〈えびす様〉から、茶色い紙袋に包まれた、焼きたてあつあつの〈たいやき〉を、受け取るのだった。
紅はそのまま、甘く幸せな香りのする〈たいやき〉をもって、店の裏手へ、向かった。
〈めでたい屋〉の裏には、可愛らしい二つの木のベンチが向かい合って置かれた、座って食べられる場所が、設けられていた。
店主の家の裏庭だと思われる、よく手入れの行き届いた、緑溢れ滴るような気持ちのよい庭は、そこからの眺めも素晴らしく、みずみずしい芝草と、可憐に咲いた季節の花々ーーちょうど今は、濃い紫と、真白の花をたくさんにつけた、美しい木蓮のすがたが、見事なはずだった。
長閑な庭には、さまざまな色に舞う蝶たちや、せっせと蜜を集める小さな蜂たちーー美声に歌う小鳥たちのすがたが、いたるところに見聞きし、まるでそこだけ別世界ーー小さな花園へ、やってきたようで、紅にとって、言葉通り特別な空間ーー心癒される場所だった。
昨夜の〈嵐〉の影響がないかどうか……それだけが、心配であった……。
案じながら、店の裏へまわった瞬間、紅の足が、ピタリと止まる。
(あっ……)
視線の先ーー真っすぐに目が合った相手も、まったく同じことを、思ったことがわかった。
そして、次の瞬間ーーおさげすがたの少女は、座っていた木のベンチから、弾かれたように立ち上がった!
慌てて、飛び出していこうとした少女だったが、庭はぐるりと、人の腰ほどの木の柵で囲われていたため、出入り口は、一か所しかなかった。
その小さな木の門扉へ、先に着いたのは紅だった。
「山璃さん!」
扉を半分まで開けた相手の前に、紅は立ちふさがるようなかたちで、少女の名を放った。
見るからに、怯え逃げようとしている相手を、半ば強引に、捕らえるようなかたちになってしまったことーー紅は正直、心苦しい思いがした。……けれど、ここで出会えたのも、なにか意味があるはず……再び自分の直感が、そう強く告げていた……。
天敵を目の前に、捕食される前の小動物のように、小刻みに震えた相手ーー山璃宿は、鞄を胸の前にぎゅっと抱え、その右手には、まだ食べかけの〈たいやき〉が、握られていた。
庭のうららかな景色とは正反対にーーなんとも気まずい沈黙が、流れるのだった……。
紅が再び、口を開こうとしたとき………
「塔野さんって、いじめっ子だったんだ」
紅と宿ーー二人の瞳が、同じ先へ向けられる。
そこにはーー木のベンチに座った、少女のすがたが、あるのだった。
冷淡な声と同じに、無駄の一切ない、細い身体ーー白く長い手には、食べかけの〈たいやき〉が見えた。
艶やかに、黒く真っすぐな長い髪ーー着ている制服は、二人と同じであった。
細い眉と目に、とても十代の少女であるとは思えぬような、鋭い眼差しが、射抜くように見据える。
どうして、気づかなかったのか……紅は自分でも、不思議だった……。
とーーはっと、我に返るーー
「違います!」
大きな声に、すぐ近くにいる少女はもちろんのこと、自分自身も驚いた。
「……でも……」
唇を噛み締め、暗く俯くーー
「同じなのかもしれない……」
「ちがいます!」
紅の顔が、ぱっと上がる……
まるく大きな瞳が、思いがけぬ強さに、見つめていた。
相変わらず、鞄を盾のようにぎゅっと抱え、細い声もまだ震えていたが、そこにははっきりとしたものが、あるのだった。
「じゃあなんで逃げてるの」
ベンチに座った黒髪の少女が、冷ややかに言う。
「それは……」
再び気まずい沈黙が、満たすのだった……。
いつの間にか、楽しげに舞っていた蝶たちは消え、鳥たちも鳴き止み、重く静まり返った庭にーー足音が、聞こえてくるーー
その足音は、店の表から、三人のいる裏庭へ、向かってくるのだった。
そして、ほどなくーー視線の先に、新しい登場人物が、現れた。
明るくやわらかな茶色の髪ーー肩よりも上に、ふんわりと広がるその髪は、くるくると見事なすがたに、カールしていた。
すべやかな餅肌に、少しぽっちゃりとした身体ーー胸の前に見えた両手には、〈たいやき〉が二つ、握られていた。
やってきた少女は、目的地に先客のすがたを見つけると、明らかに予想外だったと見え、ぎくりと足を止めた。
驚き、見開かれた瞳がーーおさげすがたの少女を捉えるーー
「あっ……」
宿の口から、小さく声がもれるのだった。
刹那ーー絵に描いたような、美しい巻き毛をした少女は、くるっと背を向け、一目散に逃げ出した!ーーが、運悪く、逃げようとした先にも、人がいた。
「あーっ!」
大きな声が響き渡る!
長い金髪を、後ろに高く結んだ少女が、駆け寄ってくるのだった!
左右の耳に三つずつ、髪色に負けず劣らず目立つ、銀の輪のピアスを光らせた少女は、その場に凍りついている、巻き毛の少女の肩を抱くと、称賛するように、力強く揺さぶる!
「あんた、よくやったよっ! 見直したっ!」
巻き毛の少女は、もはや相手の勢いに圧倒され、側から見ていても憐れなほどに、狼狽していた。
だが、金髪すがたの少女は、おかまいなしに、特徴的なつり目に、鼻に皺を寄せた豪快な笑顔で、快活な声を放つ。
「ねぇ!名前なんて言うの? あっ、ちなみに私は、岸呂渦! 〈青門〉の〈一ノ三〉!」
巻き毛の少女は、少しの間、ためらうようにしていたが、やがて諦めたように、肩を落としてため息をつくと、静かに口を開いた……
「……門鼓。……〈青門〉、〈一ノニ〉です……」
「へぇー! なんか変わった名前! かっこいいじゃん! って、人のこと言えないけど!」
渦は言うと、げらげらと笑うのだった。
「ではっ! そんな門鼓さんよ、ここでこうして出会えたのも、なにかのご縁! ぜひとも一緒に、至高の
〈たいやき〉を食べようぞっ!」
ぽかんとした、少女の肩をがっちりと抱いたまま、庭のほうへ足を踏み出すーー
「あーっ!」
二回目となる叫び声が、響き渡るのだった。
指差した相手の隙、逃げ出そうとした鼓をしっかりと離さず、渦はよいしょ、よいしょ、と、細さのわりに驚くべき力で、諦めてもなお嫌そうな少女を、ほとんど押しながら、連れてくるのだった。
「なるほど、そういうことだったか」
庭の門扉にいる、紅と宿のもとへやってくると、ニヤリと笑みを浮かべ、渦が言う。
「べつに、逃げ出すことないのに」
しっかりと肩を掴まれた鼓は、顔を下へ向けていた。
「あの……ありがとうございました……」
宿が、俯いている少女へ言う。
鼓は一瞬、目の前にいる、おさげすがたの小柄な相手を見たが、すぐに顔を下にーー暗い表情で、首を左右へ振った。
「んじゃあ、立ち話もなんだし、この秘密の花園で出会えたことを祝して! みんなで食べようぞっ!」
〈たいやき〉という、なんとも風変わりな切符をもって、小さな花園へ集まった、5人の少女たちは、渦の提案にーー(青は帰ってしまうかと思いきや、なぜか黙して座ったまま、すんなりと応じた)ーーまずそれぞれ、自己紹介からはじめた。
時計回りに、順に進んでいきーー最後が、濡れ羽色の長い髪をした、少女だった。
大人びた雰囲気、見透かすような目、落ち着き払った声からも、どこか怖いような、冷たい印象を受ける少女は、他の四人と同じ、〈青門〉ーークラスは〈一ノ一〉ーー名は、岩底青ーーと、いうのだった。
向かい合った木のベンチに、紅と青ーー宿と鼓ーーという組み合わせに座り、渦はひとり、立っているほうがいいと、二つのベンチの間、すぐ横に咲き誇る、純白の木蓮の幹に、寄りかかっていた。
そうして、自己紹介が終わると、突然ぱんっと、渦が手を打った!
「そうだ! 誕生日のこと忘れてた!」
「誕生日……?」
眉間に皺を寄せ、思わず聞き返した紅に、金色の髪をした少女は、あけっぴろげな笑顔で頷く。
「人の誕生日を聞くことほど、愚問愚答はない」
青が、冷然と言い放つ。
だが、渦の明るい表情は変わらず、面白そうに笑みを深めた。
「その言葉、前に定期試験で出たことあったよね! あ、でもどういう意味だっけ? 忘れちゃった!」
冷然とした、黒髪の少女の面にはじめて、〈呆れた〉という言葉が、微かに読み取れるのだった。
「……くだらない、質問と答え……」
鼓が、遠慮がちに、つぶやくように言う。
「ああ! そうだそうだ!」
しかし、派手な髪色をした少女の顔には、紅がやはり天性なのだろうと羨み思った、相変わらず屈託のない笑顔が、浮かんでいた。
「うちは、くだらないと思ったことないし、絶対聞くな! だってさ、誕生日を知ってれば、その日が無事にきたとき、相手にちゃんと『おめでとう!』って、伝えられるじゃん!」
紅ーー宿ーー鼓ーーの三人は、まじまじと、派手やかな少女のすがたを、見つめるのだった……。
「あ!あともう一つ! 女子会には欠かせない、恋愛部門のほうも、今恋人がいるかどうか、それも教えてほしい!」
映ったニヤリ顔に、ひぃっ……と、そろって息をのんだ、三人をよそにーー青は黙ったまま、無表情に〈たいやき〉をかじった。
そうして、先ほどと同じ順に、紅から、二回目の自己紹介がはじまる。
「私は、5月十5日生まれです。 か……彼氏は、いません……」
恥ずかしげに俯いた、紅の横で、〈たいやき〉を食べていた青の手が、はたと止まるーー
「うそっ! うちと一日違いだ! 5月十六日! ってか、ずっと言おうと思ってたんだけど、紅ってめっちゃまつ毛長いよね!羨ましいなー!髪がベリーショートだから、なんか余計に際立つっていうか、絶妙な感じでさ! で、話を戻してと、みなさま気になる恋愛部門のほうは、残念ながら、つい最近彼氏と別れたばっかです。うちって、男友達が多いじゃん?なんか、いろいろめんどくさいなーって。やっぱり、ガキだなーって。ーーで、こっちから振ったの。実はこう見えて、けっこう年上がタイプだったりするんだ。天真爛漫より、静かに落ち着いた人が好きだったり。意外でしょ?」
息つく間もない、怒濤のお喋りに、久しぶりに人から褒められたはずの紅は、頷き返すのが、やっとだった。
緊張を映した宿が、深呼吸し、口を開く。
「私は……5月十七日です……」
「うそー!すごくない!三連ちゃん! で!好きな人は?」
渦の興奮した声に、宿は首を振るのだった。
「私は5月十八日、彼氏はいません……」
間を置かず、半ば怯え怖がるように、鼓が一息に言い放つ。
明るい声は響かずーー代わり沈黙が、庭を押し包むのだった。
〈たいやき〉をもった青の手は、もはや膝の上に動かずーー爛々としていた渦の目も、今や真剣味を帯びていたーー
紅ーー渦ーー宿ーー鼓ーー四人の瞳が、息を凝らして……残る一人を、見つめるのだった………
黒髪の少女は、なにも浮かべぬ表情で、真っすぐ前を向いていた。ーーが、微かに息を吐くと、口を開く。
「5月十九日」
淡々とした声が通る。
強張った沈黙にーー息をのみ……声を失う者と、失わない者とが、はっきりとわかれた。
「恋人は?」
いたって真面目に、渦が聞く。
青は冷めた表情に、答える気配は皆無であった。
「あ、まって、うちがあてる。昔から勘だけは、誰にも負けないんだよね。 青の恋人は、学校の人じゃないと思う。そもそも、年が近い人に、興味がない。うちと同じで、十ぐらい年上がタイプ。好きになった人は、自分でもすごく意外な人で、自分にはないものをもってる人。背が低くかろうが、お箸の持ち方とか、言葉遣いとか、最低限のことができてれば、容姿は関係ない。ただ、心と名前が美しい人であれば、それでいい」
固まり、目を見開いている三人の先ーー細く鋭い目が、金色の髪の相手を睨み据える。
「調子に乗らないで」
「図星だ」
渦がニヤリと笑み、肩の高さに両手を上げるーー
「ーーって言っておいて、やっぱ詮索するのって野暮だよね。 青、ごめん」
そのまま両の掌を、胸の前につけ合わせるのだった。
「くだらないことより、他に考えることがあるでしょ」
冷ややかな声に、隣に座る紅も我に返り、頷いた……。
誕生日ーーこれほどきれいに連なるとはーー確かにおかしい……不気味さに、腕には鳥肌が立っていた………
「不思議な〈偶然〉……いや、これは〈必然〉なのか……そういえば〈たいやき〉も、全員〈くりーむ〉だし……!」
木蓮の幹に寄りかかり、腕組みをしていた渦が、声を放つ。
「それは……〈たいやき〉は……どうなんだろう……関係あるのかな……」
戸惑うように、鼓が言う。
「ないに決まってるでしょ」
青が、ばっさりと切るのだった。
「いや、わからんよ。だって、誰も定番の〈あんこ〉を食べてないって、どう考えても変じゃん! 一番選びそうな青だって、〈くりーむ〉を食べてるし!」
「たしかに……」
宿がつぶやき、向けられた鋭い目に、慌てて顔を俯けた。
「〈あんこ〉苦手。 あなたも苦手。 馴れ馴れしく名前で呼んでるけど」
ドキリとした三人をよそに、渦の顔には、面白そうな笑みが浮かんでいた。
「青さんよ、そんなに目刀で刺してばっかいないの。せっかくの美人さんが、もったいないよ」
相手の口撃もひらりとかわし、明るく笑って返すのだった。
「ここの〈くりーむ〉、本当においしいですよね」
微妙な空気にーー宿が勇気を出して、口を開く。
「〈あんこ〉も〈くりーむ〉も、自家製だそうです」
驚いた紅の瞳が、向かいに座る、クラスメートを見る。
「あのえびす……おじいちゃんに、聞いたの?……」
隣に座る青が、さっと〈たいやき〉を口元へもっていった。
「ねぇ!今青笑ったでしょ!」
目ざとく渦が、指を差す。
紅が横を見れば、相手は変わらず、冷たい表情のままだった。
「笑ってないから」
「いいじゃん、いいじゃん、隠すことないじゃん。 中身もそうだけど、なんでこんなにいい匂いがするんだろうね!ほら、他の店のたいやきは、ここまで甘い匂いはしないじゃん。なんだかさ、甘い匂いに誘われて、自分が虫にでもなったような気がして、おもしろいんだよね」
渦が笑い、紅、宿、鼓の顔にも、笑みが伝播する。
「バニラ……かな……でも、なにかちがうような……」
〈たいやき〉をくんくんと嗅ぎながら、鼓がつぶやく。
「今度聞いてみよう!」
渦が言い、ニヤっと笑みを深めて、おさげの少女を見る。
「なんか宿って、すごく華奢だし、勝手にか弱いタイプって思ってたけど、案外、ここにいる誰よりも、肝っ玉が太かったりして」
みなの視線がーー赤毛の少女へ向く。
宿は恥ずかしそうに、顔を赤らめるのだった。
「だけど、不思議だな……」
腕組みをして、握った拳を顎にぽん、ぽん、とあてながら、渦がつぶやく。
「だってさ、〈緑門〉のときには、みんなきれいにクラスがわかれてたみたいだけど、そのときから、ここへは来ていたーーそれなのに、今日まで、誰一人会ったことがなかったなんて……」
「人がいないからよかった」
青が、すげなく言う。
「たしかに……いつ来てもお客さんがいなくて、店が閉まらないか……心配だった……」
両手にある〈たいやき〉を見て、鼓がもらす。ーーと、はっと手にあった二つの〈たいやき〉を、隠すようにした。
「今さら無駄でしょ」
紅の顔がぱっと、横にいる少女を睨む。
「二つとも〈くりーむ〉のほうが、よっぽど変だと思うけど」
鼓の顔が俯かれて、すかさず、渦の高らかな声が通るのだった。
「今日の鼓はすごいんだから! 誰になにを言われようと、〈くりーむのたいやき〉を二個食いするにふさわしい!」
渦は木蓮の木の下から、宿と鼓が並んで座るベンチの後ろへまわると、その手をぽんっ!と、下を向いた巻き毛の少女の肩へ置く!
「あの胸糞悪い女たちに、ガツンっ!とズバっ!と、言ってやったんだから!」
宿が慌てて、大きく頷く……。
「私の探していた運動着を、見つけてくれました」
紅の瞳が、おさげすがたの少女を見つめる……。
(だから……)
体育の授業は、四クラスあるうち、二クラスずつーー合同というかたちで行われる。 紅と宿が属する〈一ノ四〉と、鼓が属する〈一ノニ〉は、一緒に行っていた。
薄々は、わかっていたことだったが……見つめる先にいる、小柄なクラスメートが、たびたび体育の授業を休んでいた理由が、はっきりした……。 先生には、運動着を忘れてしまったと、そのたび注意を受け、これ以上休めば単位を落とすことになると、そう言われていた……。
今日の午後にあった授業は、遅刻があったものの、宿は自分の運動着を着て、授業にでていた。
ぎゅっと噛み締めた、紅の唇が開く……
「山璃さん、やっぱり……」
掠れた声をーー別の声が打ち消したーーー
「どうしてわかってるのに、なにも言わないの」
鼓がばっと、立ち上がる!
丸い顔には血の気がなく、怒りと恐怖に震えていた。
驚き、不安そうに見上げている相手を、激しく睨む。
「全部知ってるくせに、とぼけた顔して!」
「顔はしょうがないと思うけど」
つぶやいた青の細い腕を、紅の手が反射的に掴んだ。
鼓は苦しそうに息をし、肩を大きく上下させていた……
「私がいつも、運動着を隠してたっ!」
こらえきれず、涙をぼろぼろと流しながら、鼓は震えた身に、震えた声で言い放つ!
「でも、今日は……」
「花壇に埋めろって、そう言われたから……」
宿の瞳が、大きく見開かれる……
「だめっ! 花たちがっ……」
視線の先に映る、華奢な少女から、これほど大きな声が出ようとは、その場にいる誰もがーーそれは、当の本人でさえーー驚くのだった。
「ごめんなさい……」
時の間、呆然としていた鼓だったが、次の瞬間、勢いよくベンチに置いていた鞄を掴み取ると、そのまま走って、庭を出て行った……。
「いつまで掴んでるの」
沈黙をーー青の声が破る。
紅の手が、はっと離すのだった……。
沈んだ間が流れるーー
「運動着のこと、やっぱ知ってたんだね」
笑みを静めた、渦が言う。
宿は暗く俯いたまま……小さく頷いた……。
「くだらないことに付き合ってないで、さっさとちくればよかったのに」
青の声に、宿は俯いたまま……首を振った……。
「まぁ、どうでもいいけど」
冷ややかに言うと、鞄をもって、立ち上がる。
「帰るの……」
「フルートのレッスン」
「フルート……」
紅の声に、青は振り返らずに答え、門扉へ足を進めるーー
「母親の趣味。拒否すると面倒だからやってるだけ」
「私の名前……どうして……」
青の足が、止まるーー
「いつも不幸を纏ってたから」
背を向けたまま、さらりと言った。
「他に聞きたいことは」
「え……あ……岩底さんは、左利きですか……」
一瞬間、背に真っすぐ下ろされていた、長い黒髪が、揺れたような気がした。
「うち、右利きだと思ってた。 紅、どうしてそう思ったの?」
驚いたように、渦が聞く。
「さっき掴んだとき……なんとなく、そうかなって……」
短い沈黙が流れた。
「はじめて言われた」
青は一言残すと、さっさと庭を出て行った。
突然、渦が叫び声を上げ、紅と宿がドキリとする……。
「やばっ!バイト完全に遅刻だ!じゃあ、うちも行くね!……あー、とにかく!会えてよかった!それに、またすぐに会う気がする!また明日学校でー!」
渦は、まるで疾風のごとく、驚くべき足の速さに、駆け去っていくのだった。
紅と宿ーー二人きりになった。
「……今朝のこと、ずっと謝りたくて。……驚かせてしまって、ごめんなさい」
「••••••」
前を見ると、大きな瞳はじっと、足下の芝草、花たちへ、注がれていた……。
紅が静かに、立ち上がる。
「それじゃあ……私もバイトだから……もう行くね……。 また明日……学校で……」
「••••••」
庭の門扉を出て、建物の角まできたときーー紅が、振り返る……。
やわらかな夕焼けの光が漂いはじめた空の下ーー美しい花園に、おさげすがたの少女が一人、座っていた。
草花に包まれーーいつのまにか、すがたを消していた蝶たちも、少女のまわりをひらひらと、舞っているのだった。




