第三章•スーレン緑青学舎
「……行ってきます」
つぶやくように言うと、紅は家を出た。
いつもこうして、一応は声を出し、そのあとは半ば逃げ出すように、玄関の扉を閉めるのだ。
両親もーー娘ができるだけ顔を合わせないようにしていることを、わかっていた。
そのため、互いになにを言ったわけでもなかったが、母親はいつも、玄関棚の上に、用意したお弁当を、置いておいてくれていた。
紅は歩きながら、水色の布に包まれたお弁当を、鞄のなかへしまう。
水色は正直、好きな色ではなかった。
紅は、オレンジ色が好きだった。
水色はーー妹の、みそれが好きな色だ。
妹のお弁当は、きっと……家を出るとき、母親が手渡して、そのまま見送るのだろう……。
その光景を思い浮かべ、胸をぎゅっと掴まれたような感覚に、紅は慌てて首を振るのだった。
(こんな娘にも、用意してくれるだけ、ありがたい……)
今日はいつもの登校時間より、一時間早く、六時に家を出た。
そのことを母親に、伝えているわけもなくーー(必要最低限のこと以外、口をきかない)ーーお弁当はまだ用意されていないだろうと、学校に行く途中で、買っていく予定だった。
(いつも……)
こんなに早くから、作ってくれていたのだろうか……
紅は再び首を振ると、煩わしい思いを断ち切るように、大きく深呼吸する……
早朝の、心地よい静けさのなかーーさわやかな春の風には、まだ微かに雨の匂いがし、昨夜の〈嵐〉の名残に、あたりには、緑の青く独特な匂いが、漂っていた。
紅の足がゆっくり止まると、恐る恐る……両の掌を見つめる……
こだます心臓の音の先ーーそこに、なにも異常がないことを確認すると、詰めていた息を、長く吐き出すのだった。寝不足の、ぼうっとした頭で、もう何度も、同じことを繰り返していた。
不安なことーーなにか壁にぶつかったときーー誰にも打ち明けられない代わり、紅はいつも決まって行く、場所があった。
飛ばされてきた枝や葉が、いたるところに見られる道を、制服すがたの、ベリーショートに、背の高い少女が、足早に進んでいくのだった。
(あっ……)
紅の足が、静かに止まる。
(誰かいる……)
目的地にはーー先客がいた。
歩いてきた広い公園の、それは終着点にあたる、まわりを大海に囲まれた、雄壮な断崖絶壁の岬にーー一本の、秀麗たる〈桜の樹〉があった。
その名の由縁は誰も知らないが、樹齢5百年という、圧倒的な年月を刻んだ〈双子桜〉は、碧い海〈ラシラシ海〉に臨む、巨大な崖に築かれた〈マーチェの街〉の、シンボル的存在であった。ーーちなみに、〈ラシラシ〉、〈マーチェ〉とは、それぞれ昔の言葉で、〈霊宝〉、〈月光〉ーーという意味だそう。
まだ遠くからではあったが、街の人々に愛され、大切にされてきたその〈桜の樹〉に、だいぶ花が散ってしまったことをのぞけば、懸念していたほどの爪痕がないことがわかると、紅はほっと息を吐くのだった。
新しい朝の澄明な空気に、涼やかな音を響かせて、噴水が、きらきらと水を放っている。
その噴水の横で止まっていた足を、紅は再び、動かすのだった。
自分でも、なぜそうしたのかはわからなかった。ーーというのも、紅はできるだけ音を立てず、ゆっくりと……〈双子桜〉のもとへ、近づいていったのだ……。
樹の下にいる人影が、紅と同じ学校ーー街と海とを一望できる、崖の高みにある、〈スーレン緑青学舎〉の生徒であることは、すぐにわかった。
なぜならば、ぽつんと佇むその人影は、紅が今着ているのと同じ、灰色の上着にーー鮮やかな青のキュロットスカートーー白い靴下に、明るい茶の靴と鞄を、身につけていたからだ。
〈スーレン緑青学舎〉には、5クラスある、下学年の通う〈緑門〉とーー四クラスの、上学年の通う〈青門〉とがあった。
視線の先ーー淡いピンクに染まった、美しい花びらの絨毯の上に立つ人物が、青いキュロットスカートを身につけているということは、紅と同じ、〈青門〉に通う学生であることが、わかるのだった。
後ろすがたでは、見ることができなかったが、灰色の上着の左胸のポケットには、校章である、〈二つの色味がちがう、桜の花が重なったエンブレム〉と、その下にーー学年を表す、〈青門〉であれば、青いまるのすがたが、あるばすであった。
〈緑門〉は5学年、〈青門〉は三学年あるため、たとえば、〈緑門〉の四年生であれば、〈桜のエンブレム〉の下に、緑の葉が四枚あわさったものが、ついている。
紅の場合、まだ三週間ほどしか経っていない、この四月から、〈青門〉に入学したばかりなので、今までの緑の葉が5枚あわさったものから、新たな一学年を表す、青いまるが一つ、〈桜のエンブレム〉の下に、ついているのだった。
実際に、学舎の入口には、二つの門がーー緑と青色をした、立派な門が並び、紫色の花が咲きこぼれる、人の腰ほどの低い生垣が隔て、学生は属するほうの門をくぐり、これまた二つある、開け放たれた扉へと、進んでいく。
大きな一つの建物のなかに、それぞれの空間が独立して存在しーーあるところでは、繋がっているーーいわば、二世帯住宅的な、少し変わったつくりをしていた。
そして、変わっているといえば、この〈スーレン緑青学舎〉の創立者、医師であった、〈根玄櫂〉という人物もまた、摩訶不思議な奇譚をもち、なかなかに変わった男であったと、今も有名な話に、語り継がれている。
たとえば、この〈根玄〉は一度、死んだ者として、葬儀まで執り行われていた。
その昔、医師であった〈根玄〉は、最愛の妻と、そのお腹にいた赤子を、病で一度に失った。
絶望のどん底に落とされた〈根玄〉は、それまでの頑健、溌剌たる風貌から、見るも痛ましく痩せ細り、妻と赤子の葬儀を終えた翌る日、それは忽然とーーすがたを消したのだ。
街の人々は、悲嘆のあまり、〈根玄〉が自ら海に身を投げたのだと、そう考えた。
しばらくは、みなお世話になった先生のため、せめてその亡骸だけでも見つけてやろうと、懸命な捜索が続けられた。ーーしかし、その思いも虚しく、すがたが消えてから半年ほどが経った頃、ついに人々は、『〈根玄先生〉はあの世で、亡くなった奥様とかわいい赤子と一緒に、幸せになられたのだと』ーーまこと涙なくてはいられない、そういった感動話に、締めくくられたのだった。
ところがどっこい、物事は時として、人の思いを鮮やかに裏切るように、ようやく街に語り継がれる傑作話ができあがってほどなく、消えたときと同じに忽然とーーすっかり死んだと思われていた、この〈根玄〉が、みなの前に現れたのだ。
人々の驚きたるや、まさに稲妻ーー鳴動のごとく、凄まじいものだったという。
だが、なによりみなが驚いたことといえば、〈根玄〉本人の、変わりぶりだった。
最後に見たすがたが、頬がこけ、生気なく痩せ細っていたすがただったが、半年ぶりに現れた〈根玄〉は、まるっきり別人のようにーーそれは悲運に見舞われる前のすがたにも増して、生気に満ち溢れ、その顔にも身体にも、健康そのものに、肉付きがあったという。
驚き歓喜した街の人々が、その後いくら聞いても、〈根玄〉は生涯、すがたを消していた間のことは、一切語ろうとはしなかった。
言うことといえば、ただ一言だけーー『私は麗しき世界へ、行ってきた』ーーこうであった。
そして、〈根玄櫂〉の、奇譚の感動話はここまでに、その変わり者話がはじまるのは、まさにここからだった。
〈根玄〉は、摩訶不思議に生還を果たしてからすぐ、再開した医師の仕事のかたわら、それまで街になかった大きな学校ーー〈スーレン緑青学舎〉を、つくったのだ。
〈根玄〉がとくにこだわった、学舎の教育方針も、すこぶる変わったもので、その変わりぶりを物語るものの一つが、今も学舎のなかに、〈伝統〉として、受け継がれていた。
それがーー〈クラス分けノ儀〉であった。
入学して、まずはじめに行われる、この〈伝統の儀〉によって、卒業までのクラスが決まるのだ。
〈緑門〉の5クラスは、〈鼻ノ試験〉という、これまた〈根玄〉本人が校庭に植え、今も大切に育てられている、ここにしかない特別な植物ーー本来は、花をつけるのだろうが、未だかつて、誰も咲いたすがたを見たことのない、〈マーマツリの葉〉をもんで、それがなにの匂いと感じたのかーー〈朝露〉、〈芝草〉、〈花蜜〉、〈月夜〉、〈土煙〉ーー紙にある5種類のなかから、一つを選ぶ。その選んだものごとに、クラスが決まる。
一方で、〈青門〉の四クラスは、もう少し複雑な、〈感ノ試験〉というものだった。
それぞれに渡された、巾着のなかに、一合分の米が入っていて、それを利き手で掴み、黒いまる盆の上に落とす。そしてそれを、人差し指で合計三回触り動かし、盆の上に浮かび上がった米のすがたが、どの生き物に見えるのかーー〈龍〉、〈亀〉、〈鷲〉、〈猪〉、〈蛇〉、〈虎〉、〈馬〉、〈蝶〉、〈土竜〉、〈鯰〉ーーこれも紙にある十種類のなかから、一つを選ぶ。どの生き物が、どのクラスにあたるのか、それは決まったあとに、なんとなくわかることだった。
そして最後は、自身でその米を研いで炊き、一人ずつに祝いの品として贈られた、美しい銀の器で、残さず食べきる。
他にもまだまだ、変わり者話が絶えなかった〈根玄〉であったが、不可思議な生還話に続いて、知らぬ者のいない、有名な話があった。
それが、岬にある〈双子桜〉を植えたのが、この〈根玄櫂〉であった、ということだ。
あのすがた………
紅は、〈双子桜〉と佇む人物のすぐそばまで、やってきていた。
小さめの背ーー特徴的な、赤みを帯びた茶のおさげすがたには、見覚えがあった。
(不思議ちゃん……)
心のなかで、みなが言っている名をつぶやくとーー紅は突然、苦いものでも噛み潰したように、暗く顔をゆがめるのだった。
(私も……同じだ……)
下ろされた両の手がーー強く拳を握る……。
おさげすがたの少女は、紅が後ろに足を止めても、まったく気づいていないようだった。ーーというのも、遠くからではわからなかったが、少女はただそこに佇み、〈桜の樹〉を眺めているわけではなく、あることを、集中してやっていたからだ。
紅はそっと、さらに近づくと、少女の伸ばされた手元を、覗き見る……
深い褐色をした、堂々たる太い幹に、その右手をあてーー目を閉じてーーなにか囁いていた………
(なにを……しているんだろう……)
不思議と……強く惹きつけられるように……紅は息を凝らし……見つめるのだった………
すると、次の瞬間ーー紅の顔がはっと上がる!
聞き慣れない、メキメキメキ……という音に、大きく開いた視線の先ーー見上げる先にある、折れて裂け目の入った枝が、それはみるみるうちに……自ら、傷を癒していくのだった!
折れた先にはーー新しい枝がうまれ伸びーーそこから、ぽん、ぽん、ぽん、っと、蕾が顔出して花を咲かせ、痛々しいすがただった裂け目には、新しい皮膚のように、健やかな樹皮が覆われた。
「……どうして……」
息をのんだ紅の口から、思わず声が、もれでるのだった……。
しかし、驚き、呆然とするのは、飛び上がらんばかりに振り返った、少女のほうも同じだった。
「どうして……」
同じ台詞に、細い声は、怯え震えていた。
互いにーー大きく見開かれた目で、向かい合う相手のすがたーー同じ制服を着た、同じクラスメートのすがたを、見つめた………
そのまま凍りついたように、時が流れーーやがて、聞こえたカラスの鳴き声に、ごくりっ……と、生唾を飲み下した紅が、ゆっくりと……唇を解く………
「……あの……」
しかし、その瞬間、相手ははっと我に返った。
鞄をぎゅっと握りしめると、慌てて、走り去っていくのだった。
カーン、ゴーン……カーン、ゴーン……、カーン、ゴーン…………
十五時を告げる鐘が鳴り、〈スーレン緑青学舎〉の二つの門から、にぎやかな声と共に、学生たちが流れ出てくるーー
紅は一人、〈青門〉へ向かいながら、深くため息をついた。
(やっぱり……避けられてる……)
今朝早く、なんとも気まずい別れかたをしたあと、そのまま仕方なく登校した紅は、自分の属する〈一ノ四〉の教室へ着くと、すぐに相手のすがたを探した。ーーしかし、おさげすがたの少女は、まだ来ていなかった。
もしかすると、顔を合わせるのが嫌で、そのまま家に帰り、今日は欠席することにしたのかもしれないーー待てどもすがたを見せぬ相手に、そんなことが頭をよぎり、紅があきらめかけたころーー結局、始業の鐘が鳴るちょうどに、少女は教室へ飛び込んできたのだった。
その後も、相手はひどく警戒しているようで、再び話しかける機会は、とうとう訪れなかった。
だが、わかったこともあった。
よく考えてみれば、みなが言っているあだ名ばかりで、相手のちゃんとした名前を、知らないことに気づいた紅は、学校に来てすぐに、調べたのだ。
少女の名は、〈山璃宿〉ーーといった。
その名を知って、紅は思い出したことがあった……。
〈緑門〉のときには、同じクラスではなかったが、〈宿〉という、珍しい一字の名前であったことに加え、少女はなぜかいつも、ひとり草や花ーー木に、話しかけていたのだ。
人目を気にせずーーというわけではなかったが、だからといって、見つからないように、こっそり隠れてーーということもなく、紅は学舎の行き帰りに、たびたび蹲り話しているそのすがたをーー(時には、体調が悪いのだと勘違いした大人が、心配して声をかけていた)ーー見かけたことがあった。
もちろん、そういう子を、いじめっ子たちが放っておくはずもなく、彼らの格好の餌食に、〈不思議ちゃん〉ーーというあだ名で呼ばれ、よくからかわれているすがたを、なにもできない自分の意気地なさと共に、目にしていた。
彼女は本当に……話していたのかもしれない………
紅の脳裏にーー今朝の光景が、ありありとよみがえる……
紅は足を止めると、最後にもう一度、笑いさざめくなかを、よくよく見回した。
けれどもやはり、探しているすがたはなかった。
紅は再びため息を吐くと、重く感じられる足を動かした。
とても疲れていたーーきっと、寝不足のせいだ……そう……あの掌に浮かんだ、光のせい………
紅ははっと、慌てて振り払うように、首を振った。
このまま家に帰っても……
(そうだ……)
暗く陰った心の内に、やわらかな光が差す。
こんな気分の日に、ぴったりの場所があった。
今日は今日ーー明日は明日の、風が吹く。
そうと決まれば、目指す店へ向かって、〈青門〉へ進む紅の足取りが、確かに軽くなるのだった。