第一章•《タルフヒア》に迫る影
けたたましい足音が近づいてくるや、王広間の重厚な大扉が、勢いよく開かれたーー
張り詰めた多くの視線の先にーーひとりの男が、肩で息をし現れた。
筋骨逞しい、精悍な顔立ちーー纏う深緑の兵衣には、その左胸に、眩い〈白の剣〉とーー選ばれし、ただ一人のみに与えられる、名誉ある〈金の蔦〉のすがたが、燦然と輝いていた。
〈神恵ノ国〉、〈鋭兵隊•スーザラン〉、隊長レセネ•エンが、火急の件で、王への一報を伝えにきたのだ。
見上げるほどに天井の高い、荘厳な王広間にはーー王族の次に高い地位をもつ、濃い青の衣を纏った、三人の重臣をはじめ、その後ろにはずらりと、淡い青の衣すがたの、5十人もの臣下たちが、広々とした空間を左右にわかれて立ち並び、一糸乱れぬ完璧なすがたに、一堂に会していた。
その場にいるすべての者が、髪を頭のてっぺんに団子状に結い上げ、纏う衣と同じ色の長い髪布〈リレ〉を、まとめた髪に巻きつけ、背へ長く垂らしていた。
王広間の一番奥ーー両開きの扉から真っすぐに伸びた、深紅の絨毯の行きつく先に、他より数段高くなった、特別な場所があった。
純白の壁には、大きな〈紋章〉ーー中央に浮く、〈紫の球体〉ーーその周りを、〈金色の枝角〉と〈銀色の尾鰭〉が、円を描くように、囲み包んでいるーーー
光輝な〈紋章〉の下に輝くはーー唯一無二の、美麗なる玉座のすがたーー
繊細、巧緻な蔦模様の金縁飾りーー流れるような、見事な両の肘掛けーーそして代々、王族のみ使うことが許されている、王家ホールキンを象徴する、深く艶やかな紫の絹地ーー。
しかし、今ーー受け継ぎし王は、美しい玉座に腰を据えてはおらず、その代わり、玉座の前に、現れた鋭兵隊長の言葉を待ち構えていた。
すらりとした身の丈ーー内にある芯の強さーー意志の強さを感じさせる、目鼻がくっきりと際立った、眉目秀麗な顔立ちーー
齢はあと二年ほどで、四十路を迎えようとしていたが、明るい栗色の髪と髭には、まだ白いものはほとんど見られず、真っすぐに開かれた、澄んだ琥珀色の瞳が、異彩を放ち、また独特の尊貴なる雰囲気を、醸し出しているのだった。
〈神恵ノ国〉、四代目国王ーーナリ花王であった。
音という音がすべて消え去り、息苦しいほどに張り詰めた沈黙にーー突如、声が割り響く。
「目通りの許しもなしに、神聖なる扉を開け放つとは、なんたる無礼者っ! 恥を知れっ!」
立ち並んだ列の先頭、玉座に一番近い場所を占めた、重臣の一人が、もたらされた恐怖を怒りに変えて、鋭く吠えた。
それを皮切りに、まるで時の止まった様相から目覚めたように、呆然としていた臣下たちも次々に、怒りの声をあげるのだった。
「静まれっ!ーー」
王広間を満たした喧騒をーー一つの声が、打ち消した。
水を打ったようなしじまに、広い部屋にあるすべての目がーー高貴な紫の衣を纏った、王へ向けられた……。
「累卵の危うきとき、今は礼儀の一つなど、叱責している場合ではない」
力強く、それでいて澄みやかに響き渡る声には、一国の王としての威厳が、満ち満ちていた。
みなの目に映る、ナリ花王の顔はーー血の気がなく、青ざめていたが、大きく開かれた琥珀色の瞳には、確かな光が宿っていた。
閉められた扉の前に立つ、鋭兵隊長へ、王が声を放つーー
「エン、ここへ来て報告せよ!」
鋭兵隊長の勇ましい声が響き渡ると、すでにピンと張られた広い肩が風を切り、王広間を真っすぐに伸びた、深紅の絨毯の上を進んでいくーー
エンは、玉座の前に立つ、ナリ花王のもとまでやってくると、左胸に輝く〈スーザランの記章〉へ右手をあて、次にその手を額へあて、再び左胸の〈記章〉に手をあてる、鋭兵隊の敬礼をみせた。
そしてーーひとつ、息を吸い込むと、しんと静まり返った空間へ、声を放ったーー
「つい先ほど、〈凛緑山〉、〈リノ砦〉から危急の知らせが届き、〈真偽ノ岸〉が、残す半分をきり、打ち破られたとのことです!」
氷のように冷たいものが、波紋のごとく、広がった…………
鋭兵隊長エンの、張りのある声ーーそのなかに、隠しきれぬ、微かな震えが伝わる声が消えてもーー長いとき……誰も、口を開く者はいなかった……。
荘厳な王広間を美しく飾る、両壁にいくつも並んだ、丈高い窓から、部屋を満たす重苦しい空気とは対照的に、春のうららかな陽光が、差し込んでいた。
一切の音が消え失せた、精気の薄らいだ広い部屋でーー外の世界を自由に飛びまわり、楽しげに鳴きかわす、長閑に生気溢れる鳥たちの声を聞くことは、なんともちぐはぐに……奇妙なものだった……。
長く耳を傾けていた沈黙は、突然、破られた。
「〈大冷〉ーー」
響き渡ったその名にーー広間にいる誰もが、はっと身を固くした……。
三人の重臣のなかで、一番年嵩に、齢六十ほどと見える、中背に骨筋張りの目立つ痩せた身の男が、冷たく鋭利な眼で、真っすぐに王を見据えていた。
王族の次に高い地位をもつ、〈神恵ノ国〉の重臣たちーーその席は全部で5つあるのだが、かねがね、二席は空いたままだった。
なぜかといえばーーかつて、その二席に着こうとした、野心家に、命知らずな者たちは、その後、まったく奇々怪々なことに、全員がーー行方をくらますのだ。
みな決して、口にはしないものの、至る恐ろしい答えは、同じだった……。
それほどまでに、この〈ロー•三兄弟〉というのは、長年にわたり、絶対的な権力の峰に、君臨していた。
三兄弟のなかでも、一種の冷酷さをもち、研がれた刃のごとく、辛辣を極め、最も恐れられているのが、長兄のママネだった。
その一見やわらかな面と声とが、冷ややかな不気味さを助長させていた。
言葉にするならーー穏やかな水面の下に潜む、鋭い歯をした、肉食魚ーー。
そのママネが、王を射るように見据えたまま、再び口を開いた。
「ナリ花王がかつて、すがたを見られたという、邪悪なる国の王ーーまこと穢らわしい、〈冷邪〉なる魔物たちーーたとえこれら闇黒の力が、〈岸の結界〉を破ろうとて、我らは恐怖に駆られ、震え怯えることはありません。
なぜならば、この清麗たる〈神恵ノ国〉へ、悪の影が及ぶことは、決してないからです。
我らには、偉大なる前国王ーーマル花さまが、その尊きお命をもって残された、〈伝説の力〉があります。
不浄なやつらが、〈真偽ノ岸〉を打ち破るときーーそれは闇黒の力の、破滅のときに、他なりません」
ママネの、どこまでも落ち着き払った、低く深々とした声は、今まさに絶望という悪魔の口に、のみ込まれようという場において、一条の光明が差す様に、それは劇的な効果を、もたらすのだった。
「そのとおりだ!」
太く轟いた声に、隣に立つ兄のママネ、王を除いて、誰もが身をびくりとした。
先ほど鋭兵隊長に、抜かりなく吠え立てた、次兄のクルアが、その赤蕪そっくりな顔にここぞと光をみなぎらせて、自己顕示欲と同じほどに膨れ上がった大きな腹を、背後にいる臣下たちへ向けた。
「〈三つの伝説〉のうち、二つは〈山の神獣〉やら〈湖の神魚〉やら、不確かにうやむやな、我らを守り救うこともなければ、なにの役にも立たないガラス細工ーー。
しかし!ーー〈マル花さまの伝説〉はちがう! 〈湖〉の対岸に、忌まわしい〈外邪ノ国〉なるものが現れてから約十八年、今日まで闇黒の力を封じ込め、この国を守っていたのは、ここにいる誰もが知っての通り、それは紛れもなく、偉大なるマル花さまが残された、〈三つ目の伝説〉ーーあの〈結界〉のおかげなのだ!」
演舌の余韻が漂い残る、深い沈黙のなかーー一度は消えかけた、みなの心の灯ーー精気の光が、再び奮い立たされていく……その確かな息遣いを、感じられた………
じわじわと広がっていく、異様なる熱気を、静かな声が塞き止めた。
「だからとて、あとの〈二つの伝説〉ーー〈スーレン族〉の崇める〈ドゥア〉を、冒涜することは許されない」
次兄クルアの、飛び出し気味の目が、隣に立つ背の高い弟を、ぎょろりと睨めつける。
兄の睨みを見返す弟は、静かな表情に、強く拳を握っていた。
ロー・三兄弟、末弟のキナイは、二人の兄とは、まったく似ていなかった。
その齢も、長兄のママネとは、十5も離れており、次兄のクルアとでさえ、十離れているのだった。また、中背の兄たちとは違い、一人とても背が高く、引き締まった、体格の良いすがたをしていた。
唯一、この三人が、血の繋がった兄弟である証といえば、他の人々より大きな、特徴的な耳の存在だった。
ピリピリとした、緊張が満たした空気にーー王の声が響くーー
「キナイの言う通りだ。神聖なる〈ドゥア〉を冒涜することは、すなわち、我が国を冒涜すると同じこと。いかなるときであれ、断じて許されん。 クルア、以後肝に銘じよ」
ロー•クルアは、最後に鋭い睨みを弟に突き刺すと、王の前に太鼓腹を向け、その右手を左肩につけた、臣下たちの礼のすがたに、深く頭を下げた。
ナリ花王はそれを見届けると、鋭兵隊長に、琥珀色の瞳を向ける。
「引き続き〈リノ砦〉から、厳重に見張りを続けてくれ。少しでも変化があったときは、時を問わず、場を問わず、その都度すぐに私のもとへ報告せよ」
「はっ!」
エンの、勇ましい声がこだました。
「万が一……」
王の声が途切れーー長い間があくーー
息を詰めた沈黙にーーナリ花王が深く……息を吸う………
「〈スーザラン〉隊長、レセネ•エン、〈真偽ノ岸〉が打ち破られたとき、〈リノ砦〉から〈大鐘〉を鳴らすよう、ここに命ずる」




