第八章•透青湖(とうせいこ)㊁
先を導いていた〈フェフェーン〉が、左右にわかれーーくるりと、振り返ってとまる。
周りを囲んでいた〈コキョ〉たちも、とまるのだった。
「着いた」
青が言う。
六人の乗った〈水膜の舟〉は、〈シル•カイア〉の〈岩城〉があった近くから、青の言った通りに、〈特別な流れ〉にのり、体感的にはおよそ三十分ほどで、今の場所に至っていた。
見える景色もずいぶんと様変わりーー澄み渡る、水の透明度は同じに、圧倒的な大懸崖が峨峨とそそり立つ、荘厳なさまからーーみずみずしい水草の森ーー一面の白い砂の景色へと、穏やかに変わっていた。
清静たるこの場所が、いよいよ陸地に近いことは、〈水膜〉を通して伝わる水の温度ーー澄んだ光の加減から、それは〈水の守護神〉でなくとも、〈舟〉にいる全員が、敏感に感じ取っていた。
「私もここを通ってきました。 もうまもなく、小舟を繋いだ桟橋が、見えてくると思います」
サザが、緊張と興奮とを入り交ぜた声に、言うのだった。
「今は……何時なんだろう……」
無事役目を果たし終え、〈雷の灯り〉を消した鼓が、疲れの滲む声でつぶやく。
「おそらくですが、私が出発しましたときと、同じような水の明るさでございますので、陸地は早朝であると、考えられます」
「こっちと向こうでは、時間が真逆みたいだから、こっちの世界が早朝ってことは、向こうは深夜……今さらだけど、学校もバイトもとっくに終わってるね!」
こんなときにも、持ち前の明るさに、なんともお気楽な渦に対し、サザを除く、あとの四人は、みなしごく真顔であった。
「親も、学校も……心配……してるよね……」
鼓の強張った声にーー宿の白い顔が、より一層白くなる。
「もしかしたら……警察……とか……」
怯えた宿を、青の瞳がすっと捉える。
「捜索願はでるだろうね」
こともなげに、言うのだった。
「ほんと、相変わらずだね」
苦笑いに、渦が言う。
「こっちの台詞だから」
細い目が、冷ややかに刺すのだった。
「でもさ、ワンチャン、有名な某物語みたいに、向こうの世界の時間が止まっているーーってことも、なくはないんじゃない?」
宿と鼓の顔を見て、励ますように渦が言う。
「心配……してるのかな……」
紅の声にーー全員の視線がとまるーーー
影の映る表情ーーその声に滲んだ寂寥にーー重い沈黙が、流れるのだった………
「……そうだ! 時間が真逆ってことは、まさか季節も、真逆だったりするの?」
いつにも増して明るい渦の声が、重苦しい沈黙を破った。
今度は使者の顔に、みなの視線が注がれた。
サザははっと、すばやく気を引き締めた。
「みなさまがたの世界で拝見いたしました〈桜〉は、誠に美しく、強い感銘をお受けいたしました」
「〈双子桜〉の、ことですか?」
鼓の声に、サザの瞳に光が宿る。
「あの美麗な〈桜〉は、〈双子桜〉と、いうのでございますね」
「私たちの通う学校をつくった人が、5百年前に、植えたんです」
宿が嬉しそうに、口にする。
「めちゃくちゃ変わり者の、いわくつきの人物ね」
ニヤニヤと笑みを浮かべた渦が、いかにも面白そうに、言うのだった。
「潮風もあるのに、今も毎年綺麗に咲いてるのは、〈土の守護神〉のおかげだね」
みなの目が向き、宿は恥ずかしそうに瞬き、首を振るのだった。
「話が脱線してるけど」
青の冷えた声が割る。
サザが慌てて謝辞を述べ、改めて口を開いた。
「季節でございますが、こちらの世界でも、今を盛りと、満開の〈祈り桜〉がご覧いただけます」
「それじゃあ、同じ〈春〉ってことですか?」
紅の声に、サザが「はい」と、頷いた。
「〈夢〉で見た光景も、そうじゃないかなとは思ってたけど……〈桜〉のすがたは、一度も見なかったな……」
思案するように、渦がつぶやいた。
「〈祈り桜〉……」
繰り返した宿のまるい瞳が、生き生きとする。
「その樹齢は千5百年になると、伝えられております」
「千5百年……」
途方途轍もない年月に、紅、渦、宿、鼓は、目を見開き、息をのむのだった……。
「これから向かいます桟橋の近くに、〈祈り桜〉は咲き誇ってございます」
「見たい見たい!」
「動くから、掴まって」
青の声に、〈舟〉はついに、はじまりの場所へーー進んでいくのだった。
水中から、桟橋に繋がれた木の小舟の横へ、〈舟〉が浮かび上がっていくーーー
〈水膜の舟〉は、すんっとした、地上の空気に触れた瞬間、それは儚く溶けていくように、消えていくのだった。
向こうの世界で、はじめに見た光景ーー摩訶不思議な、水面に浮く〈膜〉だけになった〈舟〉から、青の指示通り、まずは一人ずつ小舟へ移り、そこから桟橋へと、順に移っていった。
最後に、青が木の小舟へのり移ると、ほどなく、ここまで大役を果たし終えた〈舟〉の残りも、ついに〈湖〉のなかへ、消えていった。
「ありがとう……」
宿が水面を見つめ、涙目に言う。
鼓の手が、優しくその肩に触れるのだった。
新たなる一日のーーそして、歴史的な一日のーー神聖な空気ーー澄明な光のなかーーそれぞれの思いに、しばしの時、清らかな水面を見つめるのだった。
「あれって……」
静謐なしじまをーー紅の掠れた声が破る……。
震えた紅の手が指差した先ーー壮麗な〈湖〉の反対側ーー遠く見えた景色に、みなの視線が向く………
〈湖〉の上に広がる天空は、澄み切って明るいのに対しーーその場所は、いかにも不穏な暗雲が、厚く垂れこめ、黒煙を薄めたような不気味な霧が、おどろおどろしく包んでいたーーー
そしてーーー
やわらかに波打つ、〈光のベール〉が、巨大な壁のようにーー幻想的ながらも、厳めしい存在を放ち、隔てていたーーー
ときおり、流れ動く灰色の霧から、さながら剣山の如く、鋭く尖った荒々しい岩山のすがたが、ぞっと現れては……消えていく………
「〈外邪ノ国〉です」
サザの低い声が、響くのだった。
〈夢〉でみたおぞましい光景がーー寒気と共に……ぬうっと、鎌首をもたげ、生々しく浮かび上がる……。
紅はぶるっと、身震いをした……。
「地獄って、あんな感じかな……」
遠く、打ち眺めたまま……渦がつぶやく。
「死んだら無でしょ」
同じく見据えたまま、青が淡々と言う。
「それは救いか否かーー」
詩の一節を口ずさむように、渦の声が深い余韻をもって消えた。
「空がわかれてる……」
沈黙にーー鼓の恐ろしげな声が、もれるのだった……。
「日一日と、邪悪な〈影〉が増しています。 今はまだ、〈真偽ノ岸〉の〈結界〉により、封じ込められていますが、その力も、いつまでもつものか……わかりません……」
「あのカーテンみたいな〈光〉が〈結界〉で、その下に、〈岸〉があるってことですか……」
掠れた紅の声に、王の側近が頷く。
「あの〈結界〉って、いつどんなふうに、誰がつくったの?」
渦が真剣な顔に聞く。
使者の深刻な眼差しが、王国の地に降り立った、〈5の守護神〉のすがたを、見つめるのだった……。
「〈神恵ノ国〉には、〈三つの伝説〉がございます。 一つ目はーー〈凛緑山〉の山奥深く、太古の時から住み生きる、〈神獣〉ーー〈サウ•ゴーン〉の存在ーー。 二つ目はーー〈透青湖〉の頂点に君臨する、〈神魚〉ーー〈シル•カイア〉の存在ーー。 そして、三つ目がーー第三代国王•マル花王が、その尊いお命をもって、誕生させられた、王国を守る結界ーー〈真偽ノ岸〉の存在です」
「あの声の人だ……」
宿が、つぶやく……。
「マル花さまに、お会いになられたのですか?」
サザの上擦った声が響く。
宿の顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。
「会ったというか……〈夢〉で……『迎えがきております』って……わたし……どうしてか……その声を聞いて、涙がでて……とまらなくて……」
紅の瞳がーー宿を見つめた。
紅も、同じだったのだ……。
「そうでしたか……」
サザの目に、光るものが浮かび、王の第二側近は唇を噛み締めて、深く息を吸う。
「一つ目の伝説の、〈神獣〉ーー〈サウ•ゴーン〉って、立派な枝角をした、でっかい〈鹿〉のこと?」
渦の言葉に、湧き上がる感情を落ち着けた、サザの目が見開く。
「はい……さようでございます。 〈サウ•ゴーンの枝角〉と、〈シル•カイアの尾鰭〉は、王国の〈紋章〉にも使われ、〈神恵ノ国〉を象徴する光輝な存在でもあります」
「〈伝説〉の三つ目は、前の王様が、自分の命と引きかえに、〈結界〉をつくった、ということですよね」
青の冷静な声にーー縦に頷かれると思っていた、使者の顔が、なぜか……暗く俯かれるのだった。
「え? なに、ちがうの?」
渦が思わず、声を出す。
口をつぐみ、苦悩を映した顔が、ゆっくりと……上がる。
「申し訳ございません。 そのことにつきましては、この場で私の口からではなく、〈城〉のほうで、ナリ花さまより、お話があると思います」
「ナリ花さま……」
紅の声に、サザがはっとする。
「これは、大変失礼をいたしました。 ホールキン•ナリ花さまは、前マル花王の息子さまであらせられ、〈神恵ノ国〉、四代目の王様でございます。 わたくし、ラング•サザは、ありあまる光栄に、第二側近として、お側に仕えさせていただいております」
「王様もそうだけど、ラング•サザって、何回聞いてもいい名前だね」
渦が笑顔に、惚れ惚れと言う。
「恐縮でございます」
強張っていたサザの面が、少しだけ、和らぐのだった。
「〈真偽ノ岸〉って、ここと同じような対岸が、そのまま守りになっていると、そういうことですよね」
青の静かな声に、王の側近が頷くーー
「さようでございます。 実際に近くで、見たことはございませんが、〈凛緑山〉にあります、〈リノ砦〉から、望遠筒で見ましたときには、眩いばかりの玉砂利が、一面にのび広がっておりました」
「純白の玉砂利……」
紅が、つぶやく……。
〈光の玉〉が額へ入ったときーーそれは走馬灯のように、流れ駆け抜けた、鮮やかな光景のなかにーーたしかに、それを見た………
「白と黒ーー誠と偽りーー善と悪ーー」
遠く、相反する二つの天を打ち眺めーー青が言う。
誰もーー〈夢〉でみた、その先のことは、口にしないのだった……。
「あっ……」
宿が、指差す……。
見つめる黒雲の空にーー黒い点々ーーカラスの群れのようなすがたが、突如現れーー深い霧のなかへ、消えていった……。
「烏……?」
宿の声に、サザが首を振る。
「〈外邪ノ国〉に、生きものはおりません。 かつては、多くの鳥たちがいたと、聞いたことはございますが、今いるものといえば、邪悪な魔物たちだけです」
「じゃあ、あれは……」
おののく紅の声が、掠れ消えていく……。
「〈冷邪〉です。 日を追うごと、数を増しています」
忘れもしない、そのすがたがーー少女たちの内へよみがえり、襲いかかるのだった………
毒々しい紫の長い髪ーーギラギラ光る真っ赤な目ーー鋭い二本の牙ーーー
信じられぬほど大きな口から、さながら蛇のごとく、二股にわかれた青い舌を、まるで嘲笑うように、シュルシュルと気味悪く動かしているーーー
紅、宿、鼓はーー無意識のうち、悪寒に耐えるように、両手で両腕を強く掴んでいた。
「膨大な数の〈冷邪〉たちをまとめ、その手に操っているのが、〈外邪ノ国〉の王である、〈大冷〉です」
「ダイレイ……」
渦の低い声が、繰り返した……。
ついにーーそして、はじめて聞き知る、その名にーー5人の少女たちは、言い知れぬ寒気が、背筋を走り……噛み締めた歯に、肌がざわりと、粟立つのだった………
しばらくーー無言の時が流れた………
「みなさま、そろそろ……」
「やっぱり……」
サザと紅の声が重なるーーー
「やっぱり帰ろう、って今更無駄だから」
青の冷ややかな目が、紅を刺し見据える。
「そんな……」
使者の顔が、青ざめた。
「やだな!ほんの冗談だよ!冗談!……ねっ!」
慌てて渦が明るく放ち、鼓と宿に目を向けるーー二人の顔も、サザと同じほどに青ざめ、強張っていたが、どうにかこうにか、引き攣った笑みをみせると、コク、コク……と、頷いてみせるのだった。
サザの顔に、安堵の色がもどる。
「〈5の守護神さま〉、どうか王国の未来を、お救いお守りください」
王の第二側近は改めて、深々と、その身を下げるのだった。
一陣の風が吹きーーー深いピンク色の花びらが、彩るように舞う………
全員の視線がーー〈祈り桜〉へ、向けられるのだった………
とーー察した気配に、いち早くサザが身構え……すっと前へ出る………
5人の少女たちも……開かれた瞳を向けた………
「ねぇ……」
「黙って」
紅の震えた声を、青が制する。
咲き誇る〈祈り桜〉の後方、影に包まれた木立から、下草を踏みしめる音が、静寂に響き渡ったーーー
息を殺したみなの先ーー5人の人影が、現れる。
輝く亜麻色の髪ーー身に纏った、美しい秘色の衣がーー淡い桃色を帯びた、独特な白い肌を、得も言われぬほどに、際立たせていたーーー
かれらは、サザと少女たちのすがたを目にすると、一瞬間足を止め、息をのんだようだった。
それはまるで……この世のものではないものを、目の当たりにしたときのような……畏敬に打ち震えた……そのような面様であった。
しかしすぐに、もとの引き締めた面にもどると、いとも厳かに、足を進めた。
向かってくる5人のうち、二人は、女性であった。
その装束を思わせる身なり、気品ある佇まい共に、明らかに高い位であろう年嵩の女性を先頭に、かれらは〈祈り桜〉のもとまでやってくると、静かに足を止めた。
両手を前にだしーー右手ーー左手ーーと、ゆっくりと順に胸の中央へ重ねあて、そのかたちのまま、深々と身を下げた。
「ワコク殿、なぜに……」
サザの掠れた声をーー相手がすっと、手を前に、制するのだった。
「ご無礼をお許しください。 〈5の守護神さま〉を、我ら〈スーレン族〉のもとへーー〈奉迎の儀〉を執り行いたく、お願い申し上げます。ーーお話は、そのあとに」
これほどまでに、その第一印象から想像していた通りの声というものを、5人の少女たちは、聞いたことがなかった。
女族長ーーワコクの声は、細く繊細でありながら、そこには驚くほど強く奥深い響きがあり、風に揺れる艶やかな繻子のようなーー遠くまでこだまする、横笛の音のようなーーそのような声音であった。
「〈スーレン族〉……」
紅の震えた声がもれる……。
「これって……ただの偶然だよね……」
青白く、緊張を張りつかせ、鼓が宿を見る……。
宿は固まり、呆然としていた……。
「はたまた、必然か……」
渦の声が、深く耳にこだます……。
「そして数珠は、繋がったーー」
つぶやいた青の瞳にーー静かなる光が、宿るのだった。




