第八章•透青湖(とうせいこ)㊀
「助かった……」
止めていた息を、紅が大きく吐き出した。
前にサザと並んでいる青がーー(水の柱は、三角形のかたちに、つくられた)ーーありありとわかる苛立ちを込めて、ため息を吐くのだった。
六人の乗った〈水膜の舟〉は、少女たちの住む世界の〈海〉とーー使者がやってきた世界の〈湖〉とを繋ぐ、その出口から、無事生還したところだった。
「う、うしろっ!……」
鼓が叫ぶ!
全員が、振り返ったーーー
「やっば……」
言葉通り、口をあんぐりと開け、渦がもらすのだった……。
それは何万匹というーー数えきぬほどの、小さな生きものたちが、今出てきた〈水流の渦のトンネル〉を、圧倒的ーーそして、幻想的にーー飾っていたーーー
「クラゲ……みたい……」
宿がつぶやく……。
「クラゲ……わたくしどもの世界では、あれを〈ルピネ〉と、呼んでおります」
「〈ルピネ〉……」
サザの言葉を、紅が繰り返した。
するとーーみなが見とれている先で、〈巨大な渦のトンネル〉が、さあっと消える……。
無数の〈ルピネ〉だけが、空洞になったその周りを、ふわふわと漂っていた。
刹那ーー感じた気配に、紅の顔がはっと向くーー青の顔も、同時に前へ向くのだったーーー
「なにかくる……!」
「しっ」
怯え青ざめた紅の声を、青が鋭く制する。
ほどなくーー鮮やかな朱色に輝いた、二匹の生きものが、ときおり軽やかに飛び跳ねるような、なんとも独特な泳ぎかたに、こちらへと、近づいてきた。
「大きな金魚……」
宿がまるい目を見開き、つぶやいた……。
「〈透青湖の神〉ーー〈シル•カイア〉に仕える、〈フェフェーン〉です」
ササが、厳かな声に言う。
「それってつまり、この湖の神様の側近だ……」
渦の声が、静かな余韻をもって消えたときーー二匹の美しい使いは、六人のいる〈水膜の舟〉と、向かい合うかたちに、とまるのだった。
一度すがたを見ているサザも含め、みな息をのみ……目の前の相手を見つめた……。
しばらくのとき……それは不思議な感覚に……水のなかの時がとまった………
とーー突然、〈フェフェーン〉がくるりと向きを変える。
やってきた方向へ、もどっていくのだった。
「いっちゃうよ……」
宿が慌てて言う……。
「ついていく。 つかまって」
みなが慌てて〈水の柱〉をつかみ、〈舟〉は再び動き出した……。
〈フェフェーン〉に先導され、一行は広大な〈湖〉のなかを進んでいたーー。
〈透青湖〉は、その名の通り、驚くほどの青い透明度ーーそして、美しく鮮明な濃淡をもった、奥深さがあるのだった。
その深淵なる深さでいうとーー一行を乗せた〈舟〉は、今まさに、巨大な断崖の上から、暗闇の満たすはるか底へ、下りていこうと、いうところであった。
「ちょっと待って!……まさか、ここをいくの……?」
震えた紅の声に、青が振り返る。
「いちいち取り乱さないで。 水のなかなんだから、平気でしょ」
冷淡に言うと、血の気が引いた者たちに構うことなく、〈舟〉の舵をにぎる青は、深々とした闇の世界へーー一層に際立つ、艶やかに美しい羽衣のような朱色の光を、追っていくのだった。
前をいく〈フェフェーン〉と、鼓の手のなかにある〈雷の灯り〉だけが、光の届かない静寂の世界に、煌々と咲いていた。
さまざまな色、かたちをした、魚たちのすがたも、今ではもう見られなくなっていた。
「どこに……向かっているんだろう……」
緊張に、か細い声で、宿がつぶやく……。
「大丈夫……信じよう……」
渦がごくりと唾をのみ込み、静かに言う。
「あれって……トンネル……?」
紅の凝視する先ーー二匹の〈フェフェーン〉は、下りてきた絶壁の、向かい側にそそり立つ、これまた大懸崖のなかにあいた洞穴へ、入っていくのだった。
「通れるのかな……」
鼓の、不安な声がもれる……。
「集中させて」
青の鋭い声が響いた。
「門さん灯り、もう少し強めて」
前を向いたまま、静かななかに微かな緊張を含んだ声で、斜め後ろにいる渦へ指示を放つ。
「う、うん……やってみる……」
宿が励ます眼差しを、横にいる鼓へ向ける。
「わたくしが後ろへいきましょうか」
強張った声に、サザが言う。
「明るすぎてもだめだから、動かなくていい」
たった今鼓へ指示をだしたのに、矛盾しているような青の言葉にーーそれは具体的にどうだめなのかーー紅や渦は、聞きたい気持ちをぐっと飲み下して、口を閉ざすのだった。
そうして、みなが息を凝らし……できることといえば、神経を張り詰めた、舟長の気を散らすことなく、あとはただ祈り信じて……見守るしかないなかーー〈水膜の舟〉は、〈フェフェーン〉のすがたが消えた、崖にあいた穴へ、いよいよ入っていった……。
それは思わず、冷や汗が滲みーー紅や宿が、必死に声をもらさまいとするほどーー(〈水膜〉の壁が、縮み狭まったときには、さすがのサザも、明らかに身を強張らせーー思わず叫びそうになった紅の口を、渦が咄嗟に手で押さえーー鼓と宿とは、互いの身体をぎゅっと密着させることで、口をなんとか閉ざすのだった)ーー本当にギリギリの、幅と空間であった。
そして、ついに、舟長の見事な手腕により、無事難所を切り抜けた!
誰もがほっとし、身体から力が抜けた刹那、全員の肌が粟立つ………!
〈舟〉のなかにいても、水が変わったことは、明白だった。
壮大に開けた景色にーー神秘的な〈岩城〉が、唯一無二に、そびえていたーーー
息をのむ、深い青の世界にーー巨大な球体の空間を中心とした、〈岩城〉のすがたが、まるで幻のように……映っていた……。
いくつも見える窓の部分に、もちろんガラスはない。銀色に光る小魚たちが、枠だけの窓を出たり入ったり、なめらかな岩の城を飾るように、キラキラと泳いでいた。
不思議な光の粒をたくさんにつけた、丈高い水草が揺れる入口ーー朱色に光り輝く〈フェフェーン〉たちが、次々に入っていきーー大きな螺旋を描き、上にある球体の空間へ通じる城内を、いとも雅やかに、泳いでいくーーー
そして、はるか上に見えた、同じ光の粒をつけた、こちらは丈の低い水草が揺れる出口から、艶麗な使いたちは、再び優雅に、流れるように出てきていた。
六人の乗った〈舟〉は、〈岩城〉を目の前に、止まっていた。
「……本当に……あった……〈伝説〉は、本当だったんだ……!」
茫然自失の体から、ようやく目覚めたように、サザが叫ぶ!ーーそして、はっとし、我に返るのだった。
使者として、まだ重大な責務の只中であることを、思い出したのだ。
「お見苦しいすがたを、大変失礼いたしました」
「〈伝説〉って……」
「うわあっ!」
紅の声を、渦の叫び声がかき消した。
「亀だっ!」
見ればいつの間にーー〈舟〉の左右後方に、体長三十センチほどの、甲羅をつけた生きものたちが、囲んでいた。
「かわいい……」
水膜の壁に顔を近づけて、宿が嬉しそうに言う。
「〈コキョ〉です。 私も実際にこの目で見ましたのは、こちらを出発しましたときと、これで二度目になりますが、かれらは〈透青湖〉を見まわる衛兵であると、そういった言い伝えがございます」
「こんなに広い〈湖〉のなかを?」
鼓が驚いた顔で、まじまじと見つめ言うのだった。
「はい、見かけによらず、かれらは泳ぎが得意なのです」
「今の話を聞いて、ますます〈亀〉が好きになった! ちなみにうち、〈感ノ試験〉でばっちり〈亀〉を選んだ!」
渦が得意げに親指を立ててみせ、目を輝かせて、外に見える小さな衛兵たちのすがたを眺めた。
「動くよ」
青の冷淡な声が通る。
みな慌てて、水の柱に掴まるのだった。
二匹の〈フェフェーン〉は、〈岩城〉から少し離れた場所に、まるでこちらを待っているように、振り返ってとまっていた。
「あとどれくらいで……着くんだろう……」
〈雷の灯り〉をつくりもっている両手を見つめ、不安げに、鼓がつぶやく……。
額には汗が流れ、浮き上がった巻き毛も、その疲れを表すように、はじめより元気がなく落ちてきていた。
「〈シル•カイア〉の〈岩城〉は、〈青島〉のはるか下にあるのだと、〈伝説〉では言われておりました」
サザの手が、上方を示す。
「〈城〉は、私たちが先ほど通ってきました、穴のあった絶壁と、ずっと上のほうで繋がるかたちになっています」
「ほんとだ……」
青以外のみなの目が見上げ、渦が感慨深げに、声をもらす……。
「つまり、ここは〈透青湖〉にただ一つ存在します、〈青島〉の真下ーー〈湖〉の中心にあたります」
紅の脳裏へーー〈夢〉のなかでみた、壮麗な〈湖〉にぽつんと見えた、〈島〉のすがたが、浮かび上がる………
そして、それは、黙した、青ーー鼓ーー宿ーー渦ーーのなかにも、同じことが、起きていた……。
「でも……そうだとすると……まだ距離が……」
宿が不安そうに言い、心配する眼差しを、腕を組み支えた鼓へ向ける。
「〈流れ〉が、あるんだと思う」
青の静かな声が響いた。
「〈フェフェーン〉が待っているあたりに、他とは違う、〈特別な流れ〉を感じる」
「なにそれ!すごっ! え、それって、例えるなら、地上でいう高速道路的な?」
興味津々に渦が放ち、束の間考えた青だったが、不承不承に頷いた。
「最高じゃん! いいねーいいねーこのまま流れに乗っちゃおうねー! 〈雷の守護神〉! もう少しだよ! みんなついてるから、頑張って!」
鼓が大きく頷き、青はうんざりしたように、小さく息を吐いた。
「黙ってしっかり掴まってて。 怪我しても、自己責任だから」
みな冷たい水の柱を掴み続けかじかんだ手に、もう一度、ぎゅっと力を込めた。
紅の乾いた喉が、ごくりっ……と、音を立てる……。
まもなく〈舟〉は、ぐうんと速度をあげたーーー
••••••キュワーン••••••
耳ではなくーー心にーー響いた声ーーー
それはまるで……たくさんの光の粒たちが、一斉に震えはじけるような……歓喜に揺れこだますような……なんとも心地よい……清澄な音色………
六人の視線の先ーー一番大きな窓のついた、〈岩城〉の球体の空間に、七色に煌めく、真白に神々しいすがたがーーさぁーっと……横切り……それは時の間の、儚く美しい夢のごとく、見たものの心を奪い、消え去るのだった………




