第七章•ーー〈出発〉㊂
「着きました」
「本当に……誰にも会わなかった……」
鼓が呆然と、つぶやいた……。
5人の少女と、一人の使者は今ーー後ろにそびえ立つ、それは昔、この地いた先人たちの、惜しみない努力と巧みな手により、巨大な崖のなかにつくられた、岩の階段をようやく下りて、薄暗い小さな砂浜へ、やってきていた。
「〈太陽の浜〉じゃなくて、〈月の浜〉からきたんだね」
渦が、興味津々に言う。
「こちらは、〈月の浜〉というのですね」
サザが感慨深そうに、月明かりの下、こぢんまりとした浜を見回した。
「街には二つ浜があるんだけど、メインは西側にある大きな〈太陽の浜〉で、東側にあるこっちの浜は、小さいし、ほとんど地元住民専用の浜みたいな感じかな」
「常識的に、東のほうが〈太陽の浜〉だと思うけど」
青が、つぶやく。
「私は、波も穏やかで、人も少なくて、静かな〈月の浜〉のほうが好きです」
宿が小さな声で、言うのだった。
「今宵は月が、とても美しいです」
王の第二側近が、しみじみとつぶやいた。
東の夜空に昇った、皓皓たる下弦の月を、しばしの間、みな黙って、見つめるのだった……。
「ーーで、これからどうするの?」
波の奏でる安らかな音に、潮の匂いが溶け合う深い沈黙のなかーー渦の声が通る。
サザの瞳が月を離れ、引き締めた表情に、〈5の守護神〉を見つめた。
「はい。 王国へ通じます入口は、月の輝きが最も集まる場所に、あるばすです」
第二側近が、はっきりとした声音に言う。
「ちょっと待って……まさか……海を泳いでいくとか、言わないですよね……」
ぎょっとし、不安を張りつかせた紅が、怯えたように言う。
「私は水が苦手だし、まったく泳げません」
「私も……夜の海なんて……」
紅の不安と恐れが、伝染したように、宿の白い顔にも、おののく表情が張りついた。
「もちろん違います! あるお方のお力を、賜るのです」
「〈水の守護神〉ーー」
渦の声にーーみなの視線が、黒髪の少女へ向けられる………
「〈水の守護神さま〉、なにとぞ、お力をお貸しください」
••••••••••••
長い間がーーあくのだった…………
「灯りが必要」
冷淡な声が響く。
「塔野さんに言っても無駄だろうから、門さん、手伝って」
突然自分の名があがり、鼓がビクリとする。
「わ、わたし……?」
「そう。 〈雷〉で小さな灯り、つくれるでしょ」
青の冷静な声に、巻き毛の少女は戸惑いながらも、小さく頷いた……。
「やってみる……」
青と鼓が、穏やかな波打ち際へ行くーー
その後ろに、残るみながーー息を凝らして、見守るのだった……。
鼓は、大きく深呼吸すると……両の手を拳に握り、胸の前に、その曲げた指側を打ち合わせはじめたーー辺りに、規則的な鈍い音が響くなかーーしばらくして、音がやみ拳が解かれると、今度は右手を上、左手を下にして、両の掌をぎゅっと、握り合わせたーーー
目を閉じてーーそのまま強く……強く……力を込めて……握り続ける………
するとーー浜を満たす空気に、変化がうまれた………
………っっ………!
紅の瞳が、見開かれる……!
「なんか……」
「しっ……」
宿の怯えた声を、青が視線の先にある手を凝視したまま、鋭く制する。
それを言葉にするならばーー夏の夕立前の、身体にねっとりと纏わりつくようなーー胸がざわざわとするようなーー重たく、濃密な空気ーーー今にも空に、ゴロゴロ……と、遠雷がこだますであろう、それは古来より、地上に生きるさだめの人間たちが、一種の生きものとして、本能的に捉え感ずる、緊張感を孕んだ気配ーーー
強く握られていた鼓の手が、そのままゆっくりと……上下にーー天地へーー開かれていった………
大きく目を見開いた、みなの口から、息をのむ声がもれる……。
横にいる青の表情も、好奇の色を映していた。
鼓の美しい巻き毛が、あたかも静電気を帯びたように、ふわりと浮き上がりーーその開かれた手のなかに、淡い白黄のーーうまれたての、〈小さな雷の赤ちゃん〉が、ピカリっピカリっと、弾け光っていた。
薄暗かった辺りが、相手の表情まではっきりとわかるほどに、明るくなるのだった。
無事灯りがつくと、青が動き出すーー
「ちょっと!……」
驚いた紅が、悲鳴に近く、叫ぶのだった。
突然海のなかへ入っていった青は、しかしまもなく、止まった。
みなが唖然としている、浜のほうへ振り返ると、膝まで海水に浸かったその表情は、常のように、いたって平静だった。
「〈水膜〉をつくる。 門さん、灯りを海面に向けて」
「あっ……はい!」
鼓が言われた通りにする。
〈小さな雷の灯り〉が照らす先ーー青の白い両手が、暗くたゆたう水面につけられたーー
再びーーみなが息をのむ……!
青の掌からーー〈微かに光る透明な膜〉が、みるみるうちに、広がっていった………
それはちょうど、水のなかに、油を落としたときのような……それに似た、光景だった……。
ほどなく、〈水膜〉はなかなかの大きさに、みながいる波打ち際のすぐ近くまで、伸び広がったところで、青が海面から手を離し、〈水膜〉はとまった。
すると、まだ呆然としているみなの先で、青がいとも軽々と、出来上がったばかりの〈水膜〉の上へ乗る。
みなの目が、さらに見開かれるのだった!
驚いたことにーー(乗った少女が、身長はあるものの、それほど体重がないとしても)ーー〈水膜〉は破れたり、少しも沈むことはなかった。それはムチっとした、不思議な弾力ーーしっかりとした強度がありつつーー絶え間なく揺れ動く不安定な水面に、抜群の安定感を保ち、それでいて極薄いゼリーのような、摩訶不思議が柔らかさも、あるのだった。
「早く乗って」
青が、淡々と放つ。
「これだけ浅ければ、怖いはずないでしょ」
冷ややかに、付け加えた。
最初に動いたのはーーサザだった。
革の長靴を履いた、足下が濡れるのも構わず、纏う上等なマントの裾が、海水に浸かるのも厭わず、冷たい海のなかへ迷いなく入っていくと、〈水膜〉の上へ乗るーー瞬間、驚きの声がもれた!
「すごい!……」
海水を吸い色を変え、目に見えて濡れていたはずのサザの足下が、〈水膜〉の上へ乗ったと同時に、みるみるうちに、もとの色へーー乾いていったのだった!
「本当に、素晴らしいお力でございます」
第二側近の声は、感動に震えていた。
次に動いのはーー鼓だった。
両手が灯りにふさがっていたが、青とサザが手を貸して、無事に〈水膜〉の上へ乗った。
ここまで、三人の人間が乗っても、暗い海面へ浮く、〈薄い水膜〉は、びくともしなかった。
そして、鼓のすぐあとに、宿がえいやっ!と、思いがけない勇気を発揮して、〈水膜〉へ乗り込むのだった。
残るはーー紅と渦になった。
「紅、一緒に乗ろう! ほら、うちの腕しっかり掴んで!」
渦が笑顔に言う。
「やっぱり無理……できない……」
震えた声が漏れ、紅の足が後退るのだった……。
「できるよ!」
「できない……」
「塔野紅はできる」
響き渡った声にーー紅の瞳がはっと向く……。
「できる。 絶対できる。 自分が嫌いで、自分に腹が立って、そんな自分を変えたいんでしょ。 だからここまで来た。 誰だって、はじめは苦しい。 すごく怖い。 でも、歯を食いしばって、そこを越えなくちゃ、なにも変わらない。 誰も変えてくれない。 自分しか変えれない。 塔野紅なら絶対できるって、うちは信じてる」
いつもとことん明るく、前向きで、豪快な笑顔みせる少女のなかにーー紅は自分と同じ、暗い影を、垣間見るのだった……。
後ろに下がった紅の足が、ゆっくりと……前へもどる……。
「ほんとうに……変われるのかな……」
「『良いことも、悪いことも、すべてのことに意味がある』ーーこれ、うちの座右の銘」
金髪の少女は、鼻に皺を寄せて笑うと、紅の手をとり握る。
「行こう」
そして、二人一緒に、ひゃっと冷たさに声を上げながら、海のなかへーー〈水膜〉へと、乗るのだった。
「遅い」
すかさず、鋭い声が刺す。
「相変わらず手厳しいな」
渦が苦笑いに言う。
全員が乗っても、海面特有の揺れを感じるほか、〈水膜〉は変わらず安定していた。
「これから海のなかへ入っていくけど、誰かさんにみたいに、うるさく悲鳴なんてあげたらすぐに放り出すから。 それと、水の柱を三箇所につくる。 冷たいだの言っても放り出すし、黙って二人ずつ掴まって。 門さんには、そのまま灯りを維持してほしいから、山璃さんが腕をもって、支えてあげて」
「以上! 美人だけどおっかない船長による、完璧な乗車説明でした!」
緊張が走り、生唾を飲み下したみなに代わり、渦が皮肉を込めて、明るく言うのだった。
「入口は、見つけられるでしょうか」
サザが畏れながらも、隠しきれぬ興奮を湛えて、〈水の守護神〉へ聞く。
「水を通して、わかると思う」
青が淡々と答える。
「動くよ」
そして、ついに、〈水膜〉が動き出すーーー
「待って!……待ってっ!」
紅が、必死の形相に叫んだ!
「なに」
青が苛立ちを込めて放つ。
「やっぱりこんな大人数で……密閉した空間で……すぐに酸欠になって……息ができなくなるんじゃ……」
「えら」
「えら? それって、魚のえら?」
青の一言に、渦が目を大きく聞き返す。
「たしかに地上の空気に比べて、水のなかにある酸素は、はるかに少ない」
青が言い、黒い瞳がサザへ向けられる。
「〈水膜〉に包まれたとき、最後まで呼吸できたでしょ」
王の第二側近は、力強く頷いた。
「はい! おっしゃる通りでございます。 最初はわたくしも、〈膜〉のなかにある僅かな空気だけで呼吸をし、進んでいなくてはならないのだと、お恥ずかしながら、恐れ慄きましたが、途中で息苦しくなることもなく、地上に着くまでちゃんと、呼吸ができておりました」
「身体一つ分の〈水膜〉のなかの空気で、泳ぐような運動をしたら、ものの数分で酸欠になる。 そうならず、意識が飛ばなかったのは、魚のえらと同じように、〈水膜〉が水中の酸素を集め取り込んで、出た二酸化炭素を排出してたから」
「なるほど!」
渦が顔を輝かせ、両手を打ち合わせた!
「紅、大丈夫だよ! たしかに人数はいるけど、その分〈水膜〉が大きくなれば、水に触れる面積も大きくなって、しっかりと必要な酸素を取り込める! ちゃんと空気が循環するなら、途中で窒息死したりしないよ! それよりよっぽど、おっかない船長に放り出されて、溺死しないように気をつけたほうがいいよ!」
紅は、その言葉を自分に言い聞かせるように、何度も何度も……反復して……頷いた……。
渦が親指を立てた手を、船長へ向ける。
そして再び、六人の乗った〈水膜〉は、ゆっくりと動き出したーーー
恐怖と興奮ーー緊張が満ち満ちたなかーー足下の〈水膜〉は変わらず安定したまま、全体が徐々に……海のなかへ……沈み潜っていく………
紅は叫ばないよう、震えた手で必死に、口を覆った。渦が横に、しっかりと肩を抱く。
宿もわなわなと震えていたが、凍りついたような鼓の腕を掴むことで、なんとか耐えていた。
水に触れた瞬間から、側面に〈水膜〉がするすると伸び広がって覆い、足下の〈水膜〉からも三箇所、青が言っていた通りに、細い水柱がうまれ、沈んでいくと共に、その力で上へと抜け繋がった。
そうして、六人のいる空間は、一切水が入ることなく、柔らかく頑丈な〈水膜〉に守られ、それはあっという間に、〈美しい潜水艦〉が、完成したのだった。
まるで、巨大なクラゲの傘のようなすがたにーー〈5の守護神〉と、一人の使者が乗った、〈神秘的な舟〉は、暗闇に包まれた夜の海を、〈出発〉した……。




