温泉街へ
第一章 『温泉街へ』
誰でも構わない、たわいもないものでいい、人間と話がしたい。
私の枯渇しきった心に一滴の潤いを与えて欲しい。晩夏のある日私はそんなことを思いながら、またもう一本煙草に火をつけた。火曜日の深夜2時、トンネルを抜けた先にある人通りの少ない細道、美しい街灯が駐輪場に散乱した自転車を照らし、その後ろのフェンスの奥には静まりかえった大阪駅の線路が眺望できる。その日も一晩中、ただ呆然とその景色を眺めていた。気づけばかれこれ3ヶ月が経った。
夕方に起床し、深夜になると外に出て呆然と静まり返った夜の街を眺める、そして朝方には帰宅し眠りにつく。無職になってからはほぼ毎日こんな調子の生活を送っていた。
そんな憂鬱な日々にも別れを告げる時がきた。
長い間、人間とまともに会話をしていない私は接客の無い裏方の仕事を探し、この旅館にたどり着いた。
地元からはそれほど遠くない、有名な温泉街だが、僕はその日初めてこの地に足を踏み入れた。待ち合わせ場所で旅館のスタッフが迎えてくれ、いくつもの無造作に立ち並ぶ旅館やホテルの中で一際存在感のある建物に案内された。
並の人間なら感じるはずの新しい職場への期待や不安などは一切なかった。ただ、旅館の従業員という共同体に属すことで、人間たちと関わりをもち、それによって私の枯渇し切った心に少しでも生気が戻るかもしれないという、そんな期待はあった。
翌日から早速仕事が始まった、私は、主に皿洗いや食器の片付け、配膳などを行う内務課という部署に配置されることになった。
「はじめまして、上田です、今日からよろしくお願いします。」この類の文言を述べるのは久々だからなのか、どこか新鮮さを感じる。
「上田くん、よろしくね。内務課の統括をしてます柿田と言います。じゃあ早速だけど、案内しますね。」
黒縁メガネに短めのパーマ、なんとも言えないおかしなガニ股歩きが特徴の彼が、幼稚園児を諭すような口調で私を出迎えてくれた。
洗浄室では数人の若い日本人男性と、三十代くらいの大柄な日本人女性、さらに、おそらく発展途上国からの出稼ぎ労働者であろう外国人たちが黙々と皿洗いなどの作業を行なっている。
「よろしくお願いします。玉那覇です。」
これもまた黒縁メガネをかけた、オタクっぽい雰囲気の彼がとても丁寧にマニュアル通りの挨拶をしてくれた。後で彼の年齢が三五歳と聞いたとき、せいぜい五つぐらい年上なのかと思っていた分かなり衝撃を受けた。
その日は玉さん(玉那覇さん)が一通りの作業手順などを教えてくれ、22時になると全体の作業が終了し、ゾロゾロと皆が帰路につきはじめた。
いかにも陽気で人気者な雰囲気を身にまとった、最近流行のセンター分けパーマが特徴的なリーダー格の木下くん、彼の相棒であり内務課きってのおしゃべり番長で、ヤンキー風の言葉遣いが特徴的な後藤くん、それと玉さん、私、の四人で旅館から徒歩5分のところに建つ古びた寮まで一緒に帰宅した。
昼間とは裏腹に静けさに包まれた薄暗い夜の温泉街、閉店後の露店や、縁側の草木をいくつもの街頭が美しい橙色に装飾する様はそれはそれは美しく感じた。
帰宅途中では、若い男の集まりには欠かせない女性に関する話題をきっかけに様々な話で盛り上がり、木下君と後藤君から女性関係に関する様々な武勇伝を聞かせてもらった。
35歳で地味な見た目の玉さんに関しては、意外なことに休日には決まって1時間ほど電車に揺られながら三宮まで向かい、夜中まで駅周辺でナンパを行うことが習慣化しているらしい。
ここに来る以前、彼女すらできたことがなかった彼は、生粋のナンパ師である木下君にコツを教えてもらい最近ではなんの躊躇もなく声をかけまくれるようになるほどに成長したそうだ。
その後も会話は弾んだ。他人の感情など少なくとも一生覗くことはできなさそうなので彼らの私に対する第一印象などわからないし、わざわざ考察する気もないが、私に関しては初日から彼らの輪に、少しだが馴染めたことが嬉しかった。
帰宅後はすぐに寮の一階にある大浴場につかり、さっぱりした後、談話室に設置されている自動販売機でコーラを購入し、そのまま部屋まで戻った。
先ほど購入したコーラの信じられないほどの美味に驚いてるうちに眠気が襲ってきたので、歯磨きを適当に済ましベットに横たわる。その瞬間、なんとも言えない安堵の感情に全身が包まれた。
その晩は今までの不眠症が幻だったかのようにぐっすり眠りにつくことができた。
三日目の勤務を終えたその日、僕は初めてスバスと会話をした。旅館での勤務から帰宅し入浴後、自分の部屋のある六階に行くためにエレベータに乗るのだが、その手前にある談話室でソファーに座っている彼と目が合った。
「上田さん、ジュース買ってください」
職場で軽く挨拶は交わしていたので初対面ではないが、いきなりの要求に少しとまどった。しかし特に断る理由もなかったのでコーラとメロンソーダを一本ずつ購入し、彼の座っている同じソファーに腰掛けた。
「スバスさん、どっちがいい?」
「わたし、どちらでも大丈夫ですよ」
「じゃあ、はい、メロンソーダ」
24歳とは思えないくらい綺麗に光り輝く後頭部と、まるで力士のように立派なお腹を持つ彼は、話によると約6年前、出稼ぎのためにネパールから単身で来日し、つい一ヶ月前にこの旅館にやってきたそうだ。
その日はお互いが好きなサッカーの話や彼が最近手をつけているらしいFXの話などで盛り上がった。彼はもともとネパールでドクターを目指していたが、試験に落ち、その後来日を決断したそう。
彼の日本語の習熟度や会話の内容からしても彼の賢明さはすぐに感じ取ることができた。
この地に足を踏み入れて早くも一週間がたった。旅館の従業員という共同体の一部になったことで、私の枯渇しきっていた心に潤いが生じ始めると同時に、以前の不規則な生活習慣により荒れきった肌も徐々に本来の状態に戻っていくのが見えた。
「上田くん、山田さんと一緒ねー。」
相変わらず幼稚園児を諭すような口調の柿田さんの声が待機室に響く。
「上田くん、よろしくね。」
「お願いします。」
宿泊客が夕食や入浴のために部屋を空けるタイミングで、就寝の準備として布団を敷く作業があるのだが私たちも毎日1時間ほどこの作業を手伝うことになっている。その日初めてペアを組んだ彼女は三十代くらいのそれはそれは親切な女性で、とても好印象だった。ただ一点、表情とは裏腹に笑みのない目に何とも言えない違和感を感じてしまった。
その日は、木下くんや後藤くんが休みだったので玉さんと二人で寮まで帰ることになった。お互いの趣味が読書であることなどから、年齢こそ離れているが彼とはとても気が合い出会って一週間足らずの間にもかかわらず、かなりいろいろな話題について会話した。
どうやら彼は、並の人間には到底不可能なほど急な角度から世の中を見ているらしく、そこから飛び出す突拍子もない解釈が私にはかなり面白かった。
「玉さん、山田さんのことどう思います?」
「いきなりどうしたんですか?」
「いや、すごく優しい人なんですけど、なんか目が笑ってないなと思って、なんかそれが違和感で」
「あー。サタンに恐怖してるんじゃないですか?」
「えっ?」
「世の中がサタンに支配されてしまってるとしたら、それはちょっと笑えないよね。」
初めは何を言ってるのかよくわからなかったが、彼の言うに山田さんは本当にサタンに怯えているらしい。キリスト教から派生した某宗教団体があり彼女はそこの信仰者らしい。その某宗教団体の教えによると、現存する世界は神の天敵であるサタンに支配されているが、まもなく始まる神とサタンとの大戦争によって世界が神の手に戻るという、そして信仰者のみがこの大戦争を生き残れるのであり、彼らのみがその後のパラダイス(楽園)に辿り着けるという。信仰の邪魔になるような事象を全てサタンの誘惑だとみなす彼らは、サタンに惑わされないよう常に気を張っていなければならないらしい。「上田くんがサタンの化身である可能性もあるから、それは挙動不審にもなりますよね。ただ、これだけ科学が発展した時代に、神による創造論を信じることができるその精神力には驚きです。いや、むしろ科学こそがサタンにより創造された虚像である可能性も考えられるのか。」
「なんか複雑ですね。神様ってなんなんですかね。あ、ところで玉さんってここに来る前は何してたんですか?」
「水道系の仕事しながらヒソヒソと小説書いたりもしてました。」
「小説書いてるんですか?すげー。なんでここにきたんですか?」
「前職で上司とトラブルを起こしてしまって、勢いでやめてしまって、その前にもいろいろあって人生に疲れてしまったので山奥でのんびり過ごそうかなと思っていろいろ探してたらここにたどり着きました。」
その後も、物書きであるという新事実が発覚した玉さんと、彼の書いた作品の話などをで盛り上がった。
机と椅子とベットのみが備え付けられた10畳ほどの広さの部屋に帰宅し、入浴や歯磨きを終えて、眠りにつこうとするとふと先程玉さんから聞いたサタンと神様の話が頭の中をちらついた。彼女たちがどこまで神の存在を信じているかは私にはわからないが、少なくとも神という存在に大きな影響を受けているのは確かだろう。神とは一体何者なのか。仮に人類の創造物だとすれば、一体なぜ神は創造されたのか。
封建主義時代の下級民達にとっての神や宗教の存在感とはどれほどのものだったのだろうか。逆にそれをうまく利用して利益を享受していた人々にとっては、どうだろうか。
そして科学の発展によりその存在が、公に否定されている今、人類は何を信じ何の為にこの理不尽な世の中を生き抜いていくのか。
孤独になってまでも経済的な成功や世の中の真理を追求する道に進むのか、それとも平凡だが友情や愛に満ちた生涯を理想とするのか。
人生に大義などあればここまで苦悩せずに生きれるのか。
この世は、人間が理解するには複雑すぎたのかも知れない。理解不能な現象を理解しようとすること自体が愚かなことなのか。急な虚無感に心が支配された私は、それを断ち切るようにyoutubeを開き、Kーpopアイドルの動画をむさぼり観た。
少しすると先ほどの虚無感は消え去り気づけば意識を失っていた。




