伍 月乃~美しき花街の歌姫~
わたしは香織。元ごく普通の女子高生。
幽世にある遊廓、扇子屋で住み込みで働き始めて、早いもので二週間が過ぎた。
「はぁ……」
「カオリ、どうしたの? 溜息ついて」
「!! あ、シャタ!? いや……っ、なんでもっ!!」
ここに来た当初は日本でのアルバイト経験すら無かったわたしが遊廓の下働きなど務まるのだろうかと不安でいっぱいだったが、シャタの助けもあり、四苦八苦しながらもなんとかなっている。
今は厨房でシャタと配膳の準備をしているのだけれど、考え事をしていたらうっかり溜息が漏れ出てしまっていたらしい。
「……本当に? 本当になんでもない?」
「う、うん……」
探るような表情でジッとこちらを見つめるシャタの視線から逃れるように、わたしはそっと目を逸らす。
だって言える訳がない。
今わたしが、当の〝シャタ本人のこと〟で悩んでいるなんて……。
『シャタは本当にわたしに優しいね。どうしてここまで優しくしてくれるの?』
『だから言ったでしょ? カオリに僕を好きになってほしいから。……そしてきみが僕の大事な人に似ているからだよ』
わたしが扇子屋に来た最初の晩に交わした会話。
そこでまたシャタの口から出た、大事な人。
別にわたしだって現世に大事な人はたくさんいるし、いちいち気にすることじゃないって分かっているのに……。
何故かわたしはずっと、気になって仕方がないのだ。
『それは残念。僕はカオリに勘違いしてほしくて、優しくしてるのに』
きっとこんなにもモヤモヤするのは、シャタがあんな風に思わせぶりなことを言ったせいだ。
とはいえ自分より年下の子相手に、本気で間に受けてるわたしもどうかしてるけど……。
「はぁ……」
「また出てるよ、溜息」
「あ」
シャタに目敏く指摘され、わたしは口をもごもごとさせる。
「カオリ」
「!」
わたしの名を呼び、困ったような表情をしたシャタの手が、スッとわたしの前に伸びる。それにわたしの心臓がドッと跳ねた。
「熱はないみたいだね」
「え……」
伸ばされた手はわたしのおでこに当てられていて、わたしはキョトンと目を瞬かせる。
「もしかして過労かなって、思って。急な環境の変化と慣れない労働でそろそろ身体が悲鳴上げていてもおかしくない。楼主には僕から言っておくから、カオリは今日は部屋に戻って休むといい」
「え、あっ!? ……待って!!」
幽世に迷い込み、遊郭で下働きすることとなった時、正直もうまともに生きられる未来なんて考えられなかった。
でも落ち着ける個室に毎日の美味しいご飯と温かいお風呂。
実際に与えられた環境はわたしの想像を覆すくらいに上等なもので、そこまでしてもらっているのに、こんなしょうもない理由で休ませてもらうのはさすがに罪悪感が湧く。
「待って、シャタ! 別に過労じゃないし、そんなの悪いよ!!」
「遠慮しなくていいよ。カオリがここ二週間、すごく気を張って働いていたのは知ってる。ここらでゆっくり休んでもいい頃合いだ」
「いやでも!」
すぐさま楼主の元へと飛んで行きそうなシャタを止めようと、慌てて彼の腕を掴む。
するとそれとタイミングを同じくして、パタパタと軽やかな足音が厨房に入ってきた。
「ねー香織はいるー? 月乃太夫がお呼びだよー」
袖口にリボンとフリルがついた、ふわふわと華やかな着物をまとった禿の子が、他の下働き達を押し退けてわたし達の前に歩いて来る。
そしてシャタの腕を掴むわたしを見るや、あからさまに嫌そうな表情をした。
「アンタまーたシャタとイチャついて! 月乃太夫に言いつけてやるんだから! ほらっ! 伝言したんだから、さっさと来なよね! モタモタして雷が落ちても知らないんだから!」
「あっ、待って! 月乃さんには言わないで!!」
焦って呼び止めるわたしの声などまるっと無視して、禿の子はまた軽やかな足音を響かせて厨房を去って行く。
うう……、なんとタイミングの悪い。
がっくりと項垂れていると、険しい表情で去っていく少女を見ていたシャタが口を開いた。
「……カオリ。別にきみは禿じゃないんだし、月乃のワガママに付き合うことはないんだよ。今日は休めばいいから」
「ありがとう、でもわたしは元気だから大丈夫。月乃さんのとこに行ってくるわ。配膳の準備、最後まで出来なくてごめんね」
「そんなことは気にしなくていいんだよ。それよりごめん、月乃には僕も顔を見かける度に注意しているんだけど、全然聞かなくて……。でも本当に、我慢はしなくていいんだよ。きみが一言〝嫌〟と言えば、僕はどんな手段を使っても、月乃にきみを近づけない」
「う、うん……」
なんだか物騒な物言いだが、シャタが本気で心配してくれているのは伝わる。
素直に頷けばするりと右頬の痣を撫でられ、また勝手にドキドキと胸が音を立てた。
恐らくシャタは、わたしが月乃さんに何をされているか勘づいている。
一言〝嫌〟と言えば……。
「――……」
喉まで言葉が出かかったが、すんでのところで飲み込む。
――月乃太夫。これも〝シャタ本人のこと〟に関する、大きな悩みだった。
「…………ふ」
今から起きることを考えれば、またも溜息がこぼれそうになるが、今度はなんとか堪えた。
◇
『シャタは誰にだって優しいの。勘違いしないことね』
ゾッとするような目でわたしにそう言った、人間でありながら幽世で遊女達の頂点である太夫まで上り詰めた女性――月乃さん。
彼女のあまりの態度に、初めて顔を合わせて以降、もう接する機会はないものと思っていた。
しかし〝シャタに連れて来られた〟ということが癪に触ったのか、予想に反してわたしは度々先ほどの厨房でのように、彼女に呼び出されていた。
理由はただひとつ、わたしを痛めつける為にだ――。
「――香織っ!! 貴女って、本っ当に使えないグズねっっ!!!」
「も、申し訳ありません!!」
今日も今日とて最上階にある月乃さんの部屋に入るなり、やったこともない着物の着付けを禿達の手助けもなしに一人でやってみせろと言われ、案の定モタモタしていたら着物を投げつけられた。
明らかに高級品と分かる着物が皺くちゃになってはいけないと、慌てて拾う為に身を屈めれば、その頭を踏みつけられる。
「……っ!」
「痛い? でも貴女がグズなんだからしょうがないじゃない。着付けなんて貴女よりうんと小さい禿達でも出来るのに、自分が情けなくならない? ――ねぇ?」
月乃さんか部屋の隅で正座をして佇む禿達に目配せする。
――クスクスクス。クスクスクス。
すると同意するように禿達が一斉に嗤い出した。
「…………」
確かに幽世では着物の着付けが出来ない者などいないのかも知れないが、わたしは日本の普通の高校生だ。普段は洋服しか着てこなかった。今だって下働きの制服は甚平だし、着物を着る機会がない。
そう、太夫の世話をする禿ならともかく、わたしはただの下働きなのだ。あまりの理不尽にさすがに怒鳴り散らしたくなる。
しかしここで反論すれば、より面倒な事態になるのは経験済みだ。とにかく彼女の癇癪が治まるようにひたすら謝るしかない。
「申し訳ございません」
畳に額をこすりつけるようにして平伏すれば溜飲が下がったのか、月乃さんは白けたような顔をして鼻を鳴らした。
「ふんっ! 着付けも知らない、まともに働いたこともない! こんななんの取り柄もないただ人間ってだけの子ども、一体なんでシャタは気にかけているのかしら? こんな普通の子、日本に行けば腐るほどいるのに!」
「…………」
それについてはグゥの音も出ない。
シャタはわたしが彼の大事な人に似ているから優しくするんだと言っていたけれど、わたしと似た普通の子なんて日本にはたくさんいる。
たまたまわたしが幽世に迷い込んでしまっただけで、それが違う誰かだったとしても、きっとシャタは同じように優しく助けるのだろう。
「――っ」
なんだろう? そう考えるとなんだか、胸が痛い……。
よく分からない自分の感情に内心首を傾げていると、頭上から盛大な溜息が聞こえた。月乃さんだ。
「極めつけは恋も知らないお子ちゃま。本当こんなのの存在に気持ちがかき乱されるなんて……。バカバカしいったらないわ!」
まさに鈴を転がしたような美しい声で罵倒されてぐっと言葉に詰まっていると、ふと頭が軽くなった。
月乃さんがわたしの頭から足をどかしたのだ。
「……?」
恐る恐る顔を上げると彼女は呆れたような、なんだか複雑そうな表情でわたしを見ていた。
それに思わず聞きたくても到底聞けなかったことが、つい口をついてしまう。
「あの……やっぱり月乃さんは、シャタのことが好き……なんですか?」
「っ!!」
「ごっ、ごめんなさいっっ!!!」
口にした瞬間、速攻恐ろしい形相で睨まれ、わたしはまた慌てて頭を下げた。
また踏みつけられる! 叩かれる! 罵声を浴びせられる!!
わたしはあらん限りの懲罰を覚悟したのだ、が、
「……ええ、好きよ。本気で」
「…………」
まさか返答があるとは夢にも思わず、わたしは目を見開く。
するとわたしの表情をどう捉えたのか、月乃さんはムッとした顔をする。
「ああ、その顔。いい年した大人が子ども相手にって思ってるわね」
「い、いえそんな!」
「確かに見た目は子どもだけど、人間と妖怪では流れる時間は違う。聞いたことはないけど、シャタの実年齢だってわたし達より遥かに上かも知れないわよ?」
「え……」
人間と妖怪では流れる時間が違う。
そうなんだ……。そんなこと、考えもしなかった……。
だけどそう考えれば、見た目にそぐわないシャタの妙に老生した言動も納得出来る。
「……好きになったキッカケとかあるんですか?」
常ならばこんなことを聞けば絶対に「なんで貴女にそんなこと教えなきゃならないのよ!!」と怒鳴り散らされるだろうが、何故か今なら許されそうな気がした。
だって月乃さんのこんなに穏やかな顔、初めて見たから。
「そうね……」
呟き、月乃さんが軽く息を吸う。
そして口ずさむ美しい音色が室内に響いた。
「――……」
彼女の口から紡ぎ出されるメロディーはとても優美で、儚く切ない。
伴奏など何も無いのに、まるで背後にオーケストラがいるかのよう。
「すごい」
これが人間ありながら、数多の遊女達を押し退けて〝太夫〟に登り詰めた人。
あっという間に彼女の歌声に引き込まれ、聴き惚れてしまう。歌が終わったことすら、月乃さんが喋り始めなければ気づかなかった程だ。
「……私が扇子屋に来たのはちょうど一年前。たまたま店の前で倒れているところを楼主に運良く拾われたの」
窓辺に立ち、月乃さんがジッと外を眺める。
「私、地下アイドルしてたの」
「えっ!?」
「歌手になりたくて上京して、でも上手くいかなくて。気づいたら悪い奴らにボロボロにされてた」
「…………」
「で、ヤケになって川に飛び込んだら、幽世に迷い込んでたって訳」
「……っ」
――身投げ!?
驚いて月乃さんを見ると、彼女はおかしそうに笑う。
「私は貴女と違って帰りたい家もないし、守るものもないしね。遊女になるのも別に抵抗はなかった。ただ本当に無気力で、無意識に歌だけ口ずさんでた。そしたら――」
『月乃の歌は優美さの中に危うさを孕んでいて素敵だね。もっともっと君の歌を聴きたいな』
「我ながら単純だけど、そのシャタの言葉が私の生きる理由になった。それでなくたって化け物みたいな見た目の妖怪達の中にあんな美少年が一人。恋焦がれたって、仕方ないでしょ?」
「――……」
恋焦がれたって、仕方ない。
その言葉がなんだかわたしの中にストンと腑に落ちた。
「そう……ですね」
「その顔、お子ちゃまは脱したってことかしら? あーあ、敵に塩を送るつもりはなかったのに。ま、いいわ。今日はもう貴女と遊んでいる時間は無いの。さぁ貴女達、今晩は上客が来るから準備するわよ」
月乃さんは正座したままの禿達に声を掛け、わたしに対しては「しっしっ」と犬でも払うような仕草をする。
呼びつけておいて相変わらずだなと呆れるが、それでもいつものような腹立たしさは感じない。
少しではあるが、彼女という人となりが分かったからかも知れない。
「分かりました。お仕事頑張ってください」
お辞儀をして退出すれば、襖の隙間からこちらに向かって適当に手を振る月乃さんの姿が見える。
それにちょっとだけくすりと笑って、部屋を後にした。
「また月乃さんとこうして話せたらいいな」
――そんな願いは次の日、永遠に叶うことがないと知ってしまうのだけれど。