参 扇子屋~歪んだ女の園~
「あ、あの……」
「ヒヒヒ」
おずおずと頭を下げると、仕立ての良い着物を来た老婆がニタニタとした笑みを浮かべて不気味な笑い声を上げる。
その嫌に耳に残る不快な響きに内心ゾッと身を震わせるが、しかしだからといってこの場から去る選択肢はない。
だってわたしには居場所がないのだ。
――――この、扇子屋しか。
◇
わたしは香織。ごく普通の女子高生。
学校の帰り道、突然迷い込んでしまったのは、人間を喰らうという妖怪が闊歩する世界〝幽世〟だった。
『それなら僕が働いている遊廓に来るといいよ』
そんな凶悪な妖怪達から逃げる最中に出会った釈咫。
本来人間は捕食対象であろうに、わたしに優しく接してくれる角の生えた少年。わたしはシャタを頼って、彼が下働きしている〝扇子屋〟という遊廓に連れて来てもらったのだけれど――。
「ヒヒヒヒ。よぉこそ人間のお嬢さん、扇子屋へ。男達の遊び場にこんな若い娘がどのようなご用件かね?」
遊廓というのはどんな建物なのか想像もつかなかったが、連れて来られたのは立派なお屋敷のような場所だった。見上げると〝扇子屋〟と書かれた看板が高く掲げられている。
「楼主様、彼女はカオリ。見ての通り現世から幽世へ来たばかり。ここの下働きとして働かせてほしいんだ」
「えっと……香織です! 住む場所が無くて困っているんです! どうかここで働かせてください!」
「ヒヒヒ」
そしてその敷地を跨いでシャタと一緒に玄関に入った瞬間、仕立ての良い着物を来た老婆が、わたし達の前に現れたのだ。
「シャタがまさか人間の娘を拾って来るとはねぇ……。どぉれどぉれ」
老婆……遊廓の主人である楼主は、不気味な笑い声を上げ、わたしを上から下までジロジロと全身舐め回すように見回す。
それにザワザワと肌が粟立つのを感じながらもジッとしていると、楼主がおもむろにぬっと首を突き出してわたしは息を呑んだ。
「……っ!!」
楼主の首ふそのままスルスルと伸びていき、ぐるりとわたしの顔の周りを一周する。
「ひっ!?」
「ヒヒ、そう怯えなさんな」
ガクガクと震えるわたしをおかしそうに笑い、楼主は「ふむ……」と長い首を揺らした。
「香織、か。その長く美しい濡れ羽色の髪に、日本人形のような端正な顔立ち。ほっそりとして庇護欲を唆る体躯。本来なら実に遊女向きの見た目をしているんだが、その右頬の痣だけが難点だね。ううむ、なんとか化粧で誤魔化せないものか……」
「!!」
〝下働き〟と言ったにも関わらず、遊女として働くことになりそうな話向きに、わたしの心臓は激しく音を立てる。
だってわたしは本当についさっきまで、ごくごく普通の日本の高校生だったのだ。そんな覚悟……全然無い。
「待ってください、楼主様。カオリには遊女の仕事ではなく、下働きの仕事を与えてください」
わたしの動揺を察したのか、すぐさまシャタが楼主に口を挟んだ。
それにわたしはホッと安堵するが、楼主は渋面を作った。
「しかしねぇ、シャタ。折角の〝生きた人間の娘〟なんだよ? 大抵は幽世に迷い込んだ直後に喰われるのに、それを生き延びた稀有な娘。遊廓経営は慈善事業じゃない。より儲かる方を選択するのは当然だろ? この娘の器量ならば、〝月乃〟と二枚看板になる」
「…………」
……月乃……?
誰か、女性の名前だろうか?
「ねぇ、シャ……」
「――――楼主様」
月乃が誰なのかシャタに訊ねようとわたしが口を開いたのと同じタイミングで、シャタが楼主を呼ぶ。
その声はまるで地を這うように低く、わたしが呼ばれた訳でもないのに、恐怖で背筋が凍った。
「シ、シャタ……?」
「ヒヒヒ、では香織を下働きとして採用しよう。とりあえず今日のところは疲れただろ? 仕事は明日からでいい。風呂と飯と寝床を用意してやるから、さっさと休みな」
「えっ!?」
「ありがとうございます、楼主様」
「えっ、えっ!?」
楼主の雰囲気が突如一変し、戸惑う。
あわや一触即発のような不穏な空気を感じたのは、わたしだけだったのだろうか?
しかしそれにしては、わたしを遊女にというやり取り全てが最初から無かったかのような楼主の様子に違和感を感じる。
一体どうなっているの……?
「ね、ねぇ、もしかしてシャタが何かしたの?」
深々と楼主に頭を下げるシャタにこっそりと問いかければ、彼はわたしにちらりと視線を向けて、綺麗な笑みを浮かべた。
「さぁ? 楼主はこう見えて理解ある方だからね。――じゃあ楼主様、僕はカオリに部屋を案内しますね」
「ああ、頼むよ。改めて香織、ようこそ扇子屋へ。せいぜい明日から身を粉にして働いて、あたしを儲けさせてくれ」
「は、はいっ! お世話になります!」
シャタに倣って、わたしも深々と楼主にお辞儀をする。
なんとなく釈然としないが、しかしだからと言って遊女をやるとも言えない以上、下働きとして働くことでまとまってくれて助かった。これで当面の衣食住は確保出来そうだ。
「カオリ、部屋はこっちだよ」
「あ、うん!」
去り際にまた老婆にお辞儀をして、わたしは右手を引くシャタに頷いた。
◇
「すごい……。これが遊廓の中……」
木造の長い廊下をシャタに先導されて歩けば、色とりどりの着物に華やかな化粧と髪飾りを身につけた、幾人もの綺麗な女性達とすれ違う。女性の隣には恐らく男性と思しき妖怪がいて、彼女達が遊女なのだろうと察する。
遊女達の容姿は一見すると普通の人間に見えるが、しかし頭に狸の耳や尻に狐の尻尾があるところを見ると、やはり彼女達も妖怪なのだろう。
「あれー? シャター。その人だぁれ? 現世の服着てるし、人間だよねぇ?」
「また楼主様が拾ってきたのー?」
――と、その時、見た目の感じは小学校低学年くらいの幼い少女達がこちらに駆けて、わたしとシャタを取り囲んだ。
「ううん、違うよ。彼女は僕が連れて来たんだ。名前はカオリ。明日から僕と同じ下働きをするからよろしくね」
「シャタが……?」
朗らかな表情で告げるシャタとは裏腹に、少女達はあからさまに顔を顰めた。
……実はこの場所に来て、既に理解したことがひとつある。
それはシャタがとても人気であるということだ。
先ほどすれ違った遊女達も客がいる手前口にこそ出さなかったが、その目はわたしを真っ直ぐに睨んでいた。
シャタは初対面の人間であるわたしにも優しく接してくれるし、見た目もとても目を引く華やかな美少年だ。こんな女性ばかりの場所にいれば、モテまくっていてもなんら不思議じゃない。
とはいえ明らかに嫌悪丸出しの棘のある視線を向けられるのは、ちょっと傷つくが……。
――べちんっ!
「いたっ!?」
ぼぅっとしていたら、少女達の一人に思いっきり背中を叩かれた。じんじん痛い。
「こらっ!」
「べーっだ! バーカバーカ!」
シャタの咎める声に少女達はケラケラ笑って、一斉に駆け出す。
何これ嫌がらせ?? 子どもか!? ……いや、子どもだった。
まだ痛む背中をさすっていると、シャタがすまなそうな顔をした。
「ごめん、あの子達にはキツく注意しておくから」
「う、うん。ありがとう……。でもあんな小さな女の子達も遊廓で働いているんだね」
「禿って言って、太夫の身の回りの世話を任されているんだ。彼女達も年頃になれば、遊女として働くことになる」
「――〝太夫〟?」
聞き慣れない言葉に聞き返すと、シャタが「月乃」と呟く。
「え?」
「太夫って言うのは、遊女の中でも最も位の高い者につける敬称なんだ。現在扇子屋にいる太夫は一人。〝月乃太夫〟――そして彼女こそが、人間の遊女なんだ」
「最も位の高い遊女が……人間……?」
妖怪しかいない世界で、それはいいのだろうか?
先ほどまでに出会った少女達はキラキラと煌びやかで可愛らしかったけれど、皆一様に気が強そうだった。嫉妬で食べられたりしないんだろうか?
人間というハンデがありながら、太夫まで登り詰めた女性。月乃さん。
一体どんな女性なのだろう……?
「会ってみたいな……」
ぽそりと小さな声で呟いた時だった。
――シャラン
「噂をすれば……だね」
「え?」
――シャラン
微かな鈴の音が聞こえハッと顔を上げれば、先ほどすれ違った遊女達も、わたしを叩いた禿達も、皆一斉に廊下の端に並び頭を下げた。
――シャラン、シャラン
そして近づく鈴の音と共にゆっくりと姿を現したのは、先ほど煌びやかだと思った遊女達の何倍も美しく着飾ったとても綺麗な女性だったのだ。
――シャラン、シャラン
「――――……」
歳の頃は恐らく大学生くらい。
女性が歩く度に、その細っそりとした足首に着けた小さな鈴が鳴る。
後ろには幾人もの禿を引き連れており、あまりの存在感に圧倒されて、ただ見ていることしか出来ない。
「カオリ」
するとちょいちょいとシャタに小さく腕を引っ張られ、そこでようやくわたし以外の者がピッタリと廊下の端に背中をつけていることに気づいた。
慌ててわたしも廊下の端へと移動する。
「ご、ごめん……。ありがとう、シャタ」
「ううん、初めてだと驚くよね。彼女が月乃太夫だよ」
「ああ……やっぱりそうなんだ。話せたらなんて思ってたけど、なんだか雲の上の人って感じだね」
前を見据えて凛と歩く姿は、この世界ではとてもちっぽけな存在の人間とはとても思えない。
近寄りがたいまでの美しさに、またほぅっと見惚れる。
――シャラン、シャラン。
「!」
と、鈴の音がある場所で止める。
わたし……いや、シャタの前だ。
「――シャタ」
まるで彼女の足首の鈴の音と錯覚するような、とても綺麗に澄んだ声。
これが月乃太夫のものであると、シャタが返事をしなければ気がつかなかった。
「はい。なんでしょうか、月乃太夫?」
「聞いたわよ。貴方、人間を拾ってきたんですって? その隣の娘よね?」
「はい、彼女は……」
「あ、香織と申します。あの、月乃さんも人間なんですよね? わたし……」
わたしのことを挙げられて思わず声を上げるが、瞬間向けられた月乃さんの視線に思わず息を呑む。
「……っ!」
何故なら彼女のその目は、先ほどの遊女や禿達の嫉妬混じりの視線など可愛いと思えるくらい、激しい憎悪に塗れたものだったからだ。
衝撃のあまり二の句が継げずにいるわたしに口添えするように、シャタが口を開く。
「カオリには明日より下働きとして働いてもらいます。たまたま町を彷徨っているところを見つけ、放ってはおけませんでした」
「……そう」
シャタの言葉にそう一言だけ呟いて、そして「……貴女」とわたしを呼ぶ。
「は、はい」
「シャタは誰にだって優しいの。勘違いしないことね」
「…………」
言うや否やサッと身を翻し、月乃太夫は大勢の禿達を引き連れて去っていく。
――シャラン、シャラン
遠ざかっていく鈴の音に、バクバクと音を立てていた心臓がやがて落ち着いてくる。
折角わたし以外の人間に出会えたと思ったのに、まさかこんな目の敵にされるとは……。
「はぁ……」
重く溜息をつくと、シャタが申し訳なさそうにわたしを見た。
「ごめん、カオリ。月乃太夫は元々気性が荒い女性なんだけど……。特に何故か僕のことを気に入っているみたいで、きみに不快な思いをさせてしまった」
「う、ううん! 別にシャタのせいじゃないし、ちょっと驚いたけど、大丈夫……」
乾いた笑みを浮かべて力なく首を振るが、しかしあの憎悪に塗れた目を〝気に入っている〟なんて簡単な言葉で片付けるのは、いささか違和感だった。
間違いなく彼女のシャタに抱く感情は、そんな生優しいものじゃない。
けれどそれは口には出さず、わたしは「早く部屋に行こうか」と言うシャタに頷いて、廊下を後にする。
『シャタは誰にだって優しいの。勘違いしないことね』
別にそんなこと、まだ知り合って間もないわたしだって分かっている。
「…………」
まだ身体がチリチリと焼けついたように熱い。
月乃太夫の瞳の奥に感じたまるで底なし沼のような情念の深さに、わたしはゾッと身を震わせた。