弐 幽世~ここは妖怪達の世界~
「誰っ!!?」
まるで足音が聞こえなかったから、近くに誰かが居たなんて思いもしなかった。
緩んでいた警戒を強め、慌てて声のした方を振り返る。
「――……」
すると目の前に立っていたのは……。
「あ、ごめんごめん。驚かせちゃったかな? でもその先は人間の女の子にはとても耐えられない場所だから、つい声が出ちゃった」
「え……」
てっきりまた先ほど見たような異形の姿をした化け物が立っているのかと身構えていたのに……。
襲ってきたら殴ってでも逃げようと振り上げていた拳を思わず下ろす。
何故なら視線の先に立つのは、パッと見た感じ中学生くらいの背格好をした、ごく普通の男の子だったからだ。
「あ、あなた、もしかして人間……?」
鉄蓋から離れ、恐る恐る男の子に近づく。
「――っ!?」
しかしその足は、暗がりでぼんやりとしていた少年の面差しがハッキリと見えたところで止まる。
簡素な麻の着物を着た黒髪の少年。
その容貌は普段テレビで華やかな芸能人を見慣れていているわたしでも驚くほどに美しく、浮世離れしていた。
まるで精巧な人形のように端正な顔立ち。今でも十分に綺麗であるが、きっとこの子が成長すれば、誰もが振り返る様な美青年となるのだろう。思わずその美しさにポーっと見惚れてしまう。
しかし少年の頭上にちょこんと生えている小さな二本の角が、この子もあの化け物達と同様人外の生き物なのだと、わたしにまざまさと突きつけてくる。
「ん、どうしたの? ……ああ、これ?」
すっかり固まってしまったわたしを少年は不思議そうに見やり、やがて合点がいったように自身の角を指差した。
「そうかごめんね。僕が人間じゃないから、きみはそんなに怯えていたんだね。可哀想に、きっとこの場所に行き着くまでに随分と怖い思いをしたんだろう? 幽世の妖怪達は滋養に良いと言って、人間を食べてしまうから」
「か、かくりよ……?」
滋養に良いから人間を食べる……?
聞きたくもなかった言葉にゾッと身を震わせながら、始めて聞く単語に思わず聞き返すと、少年は神妙に頷いた。
「――そう、ここは〝幽世〟。妖怪達の棲む世界。きみ達人間が暮らす〝現世〟とはちょうど隣り合った世界なんだ。だから時々人間が現世から幽世へと迷い込んでくる。……まさに今のきみのようにね」
「妖怪の世界……? うそ……、じゃあさっき見た化け物達は妖怪だっていうの!? あっ、でも時々ってことは、わたし以外にもここには人間がいるのよね!? そのわたしが居た世界……現世に帰るにはどうすればいいの!?」
少年は先ほどの化け物達もとい妖怪達と違って、何故かわたしが人間だと分かっていても襲ってくる様子はない。まだ子どもだから滋養には興味がないのだろうか?
よく分からないが、まともに話しが出来るならこれはチャンスだ。この子から帰り方を聞き出して、一刻も早くこんな恐ろしい世界とはおさらばしたい。
「ねぇ、教えて!!」
そう考えて少年に問いかけたのだが――。
「――……」
何故か少年は気まずそうにわたしから目を逸らし、やがてゆっくりと口を開いた。
「……ごめん。こんなこと言いたくないけど、きみはもう現世へは帰れないんだ」
「――――――え?」
帰れない??
「ど、どうして……?」
訊ねる唇が震える。
「理由は分からない。けれど現世から幽世への道は一方通行で、今までにこの世界へ来た人間で現世に帰り着いた者は……、僕の知る限り――誰もいない」
「――――……」
そんな…………。
「……っどうして!? だってわたし、ここに来たくて来た訳じゃない!! 普通に学校から帰ってたら、いきなりこんなことに巻き込まれて……! なのに帰れないって、そんな……! そんなのって無いよ……!!!」
昂った気持ちの行き場がなくて、少年を怒鳴りつけてしまう。
少年は理不尽な怒りをぶつけられて不本意だろうに、すまなそうに眉を下げて謝ってくれた。
「……うん、そうだよね。ごめん、ごめんね」
「…………」
これではどう見てもわたしの方がこの子より年上なのに、まるで幼子のように駄々をこねる情けない大人みたいだ。昂っていた気持ちも一気に萎み、慌ててわたしは少年に頭を下げた。
「ううん! わたしこそ八つ当たりしてごめんなさい! 別にこうなったのは、あなたが悪い訳じゃないのに……」
「いいんだよ。それできみの気持ちが落ち着くなら、いくらでも僕にぶつけてくれていい」
本当に何も気にしていないと言うように、にっこりと綺麗に微笑まれ、わたしは逆に居たたまれずに少年から目を逸らす。
「……あなたは優しいんだね。けど、あなたも妖怪なんでしょ? なのにどうして人間のわたしに優しくしてくれるの?」
妖怪でなくとも、初対面の人間相手にここまで付き合ってくれる者は稀だ。まさかこの優しさは演技で、油断したところを食べる気なんじゃ……なんて嫌な想像も頭を過ぎる。
しかしチラリと少年に視線を戻せば、その整った容貌に柔和な笑みを浮かべ、なんの邪気も感じない。それに少年の瞳はまるで星空を閉じ込めたような群青色で、今にも吸い込まれそうなほどに綺麗だ。
「―――― 釈咫」
「え?」
思わず見惚れていると、少年が不意に呟いた。
それに首を傾げると、少年はまた重ねるように呟く。
「僕の名前は〝シャタ〟っていうんだ。僕がきみに優しくする理由は……そうだなぁ、きみが僕の大事な人に似ているから……かな」
「大事な人……?」
まだほんの子どもにしか見えないこの子の大事な人……。ご両親、とかだろうか?
なんとなく気になるが、大事な人と言った時の表情がおおよそ子供とは思えないくらいに切なげで、言葉を躊躇ってしまう。
わたしに似ているというのも気になるが、なんだか聞けない雰囲気。
「きみはなんて言うの?」
「え。……あ、わたしは……」
一瞬名乗ってもいいものかと躊躇うが、少年――シャタの柔らかな声と表情に絆されて、気がついたら勝手に口が動いていた。
「――――香織」
「そっか、〝カオリ〟。うん、きみにピッタリの綺麗な名前だね」
「? ありがとう……?」
シャタは何故かとても嬉しそうに何度も頷いていて、そんなに喜ぶ理由が分からず、わたしは疑問符を浮かべる。
するとそんなわたしに、シャタがスッと手を伸ばした。
「――ねぇ、カオリの右頬には〝痣〟があるんだね」
「……っ!」
シャタの指先がつっと右頬をなぞり、わたしは息を呑む。
指摘されるまですっかり忘れていたが、いつも肌身離さず身に着けていたマスクを今は着けていなかったのだ。
そういえば三つ目の男に詰められ逃げ出した際に、緑色の肌の男に引き千切られてしまったのだった。
「ご、ごめん!」
とっさにシャタの視線から隠すように手で右頬を覆う。
「ビックリしたよね、あんまり見ないで……」
「それは生まれつきなの?」
「う、うん。よく分かったね……」
――そう。わたしには生まれつき、右頬にまるで焼き爛れたかのような痣がある。
両親や古くからの友人の前では今更気にしないが、初めてこの痣を見た人には必ずぎょっとした視線を向けた。シャタにも嫌な思いをさせてしまったかも知れない。
そう考えると申し訳なくなって顔を背けようとするが、しかしシャタの伸びた手はそのままわたしの頬に触れたままで、それは叶わない。
困ってシャタに視線を向ければ、綺麗な星空に囚われる。
「ビックリなんてしないよ、寧ろ――」
「シャタ?」
先ほどまでの柔らかな表情とは違う、どこか仄暗い影のある表情を浮かべるシャタにぶるりと身を震わせれば、ハッとしたようにシャタがわたしの頬から手を離した。
「ごめんっ! カオリを怖がらせるつもりはないんだ! ただ……、ほら! ここに来るまでに嫌と言うほど見ただろうけど、幽世にはとんでもない見た目の妖怪がいっぱいいるだろう? だから痣くらい誰も気にしないし、そんな風に隠す必要はない! そう言いたかったんだ!!」
「え、ええと……」
仮にも女の子と妖怪を同列にするのはどうかと思うけど……。
「ありがとう、慰めてくれて。……なんか元気出たかも」
例えは微妙だが、確かにあんなとんでもない化け物達を見た後だと、自分の頬の痣くらいどうってことのないことのように思えてくる。
それに痣があろうがあるまいが、ここでは人間というだけで妖怪達の餌食になってしまうのだ。
帰れないというのが本当なのか、まだ受け止め切れてはいないが、ともかく当初の目的である落ち着ける場所を確保してからゆっくり考えたい。
「――ねぇシャタ、お願いなんだけど、どこか妖怪達から身を隠せる場所は知らない? 出来れば当面の生活が送れる場所ならより助かるんだけれど……」
いかにシャタが親切だからって、甘えてばかりはよくないと思うが、しかし他に頼れる当てはないので仕方ない。
必死に頼み込めば、シャタは「う~ん」と唸った後、ゆっくりと口を開いた。
「それなら僕が働いている遊廓に来るといいよ。今ちょうど住み込みの下働きが足りてないんだ。楼主……つまり遊廓の主人は人間にある程度理解あるし、人間の遊女だって働いているよ」
「ゆっ……!!?」
幼い見た目には似つかわしくない単語がぽんぽんとシャタの口から飛び出し、わたしはギョッと目を見開く。
「あ、僕もただの下働きだよ。もちろんカオリにも遊女の仕事なんてさせないから、誤解ないように先に言っとくね」
「う、うん……」
顔色の悪いわたしを見て察したのか、慌ててシャタがフォローしてくれるが、わたしの心は晴れない。
遊廓とは、女性が男性相手に色を売る場所。
遊女とは、その色を売る女性を指す。
そんな場所でどうして人間の女性が働いているのか? 遊廓の主人が人間に好意的だったとして、他の妖怪もいるだろうに危険は無いのか?
嫌な想像がいくつも頭を駆け巡る。
しかしここで尻込みしていても、結局わたしには他にどこにも行く当てがないのだ。
「――決めた。わたしその遊廓で働く」
「カオリ」
「シャタ、わたしをそこへ連れて行って。人間の女の人もいるのなら、出来れば会って話してみたいし」
「……分かった」
シャタは頷くと、おもむろに懐から薄いベールのような布を取り出してわたしの頭に被せた。
「? これは……?」
「ただの薄布。だけど僕の妖力をたっぷり纏わせてある。だから少しの時間の移動なら妖怪達にきみが人間だと気づかれない。さ、そうと決めたら善は急げだ。早く扇子屋に行こう」
「扇子屋……?」
どこかで聞いた気がするが、思い出せない……。
しかし今は悠長に思案している時間はない。
「カオリ、手を。絶対にはぐれないようにね」
「うん!」
差し出されたシャタの手をわたしはぎゅっと握る。
人間を喰らう妖怪達が闊歩する世界で、これからどうなるのか分からない。そしてそんな極限の状況だからこそ、シャタの手の温もりが有り難かった。
「――――あ」
ふとそこで鉄蓋の存在を思い出し、視線をそちらに向ける。
「カオリ? どうしたの?」
じっと蓋を見つめるわたしを見て、シャタが不思議そうに首を傾げた。
「ねぇ、そういえばこの蓋の先には何があるの? 人間の女の子にはとても耐えられない場所って、さっき言ってたけど……」
「……ああ」
わたしの問いかけに合点がいったようにシャタは頷いて、同じく視線を鉄蓋に向ける。
「その先にあるのは、永遠に続く業火と混沌の世界。――〝地獄〟だよ」
そう言ってシャタは、先ほども見た仄暗い表情を浮かべてうっそりと笑った。