壱 逢魔が時~始まり~
「さぁ、カオリ。きみの答えは?」
「――……」
ゴウゴウと真っ赤に燃え盛る炎の渦。「熱い熱い」と逃げ惑う人々。
その中で涼しげに笑うのは、もうすっかり見慣れたはずの幼い少年。
だけどいつも彼が着ていた簡素な麻の着物は、仕立ての良い上等な着物に変わっており、頭にちょこんと二本生えていた小さな角は、今は鋭く立派なものになっている。
『きっ……、鬼神っ!!?』
少年を見て、そう叫んだのは誰だったか。
「ねぇ、カオリ」
「シャタ、わたしは――」
こちらを真っ直ぐに見つめ、蠱惑的な表情を浮かべる少年シャタ。
それにごくりと喉を鳴らし、わたしはゆっくりと震える唇を動かした――。
◇
事の始まりは〝高校からの帰宅途中〟なんて極々平凡な、なんてことのない日常の一コマからだった。
「バイバイ、香織」
「うんバイバイ、また明日ね」
夕日が沈む頃、いつものように友人とおしゃべりしながら帰り、いつものように途中で家が反対方向になるので別れた。
そして自宅までの一本道をさぁ歩こうとした瞬間、視界いっぱいに飛び込んできたのは……。
「――――え」
夜空に煌々と揺らめく幾重にも重なる赤提灯。
都会のビル群とは違う、いくつも立ち並ぶ五重塔のような建物だったのだ。そこを縫うように幾人もの人々が道を行き交っている。
「ここ……どこ……?」
あまりの事態に呆気にとられて突っ立っていると、鼻をツンとつくお酒の匂いと共に、陽気な声が前方から耳に入ってきた。
「うぃ~くっ! 旦那ぁ! 今晩は扇子屋に行きやせんかい?」
「おお、いいねぇ! あそこは仕事で時々顔を出すが、他の店とは比較にならんくらい、格別にべっぴん揃いだ。特に例の〝人間の娘〟はそりゃもう美しい」
「ええっ!? 旦那見たことあるんですかい!? いいなぁ、人間の娘! どんな味がするんだろ? 是非お相手願いてぇなぁ!」
「ふ、諦めろ。すっかり店の花形で、上客しか相手にしないと聞く。お前みたいな興味本位の客は後を経たないと聞くしな」
「?? 〝人間の娘〟……?」
聞こえてきた不思議な言い回しに、思わず声が出てしまう。
あっと思い口を手で覆ったが、時すでに遅し。ほろ酔いで前を歩いていた男二人がぐるりとこちらを振り返った。
「――――っ!!?」
その瞬間、先ほどの疑問など吹っ飛び、わたしの頭が真っ白に染まる。
何故なら彼らはおおよそ人間とは思えない容姿をしていたからだ。
「ん? なんだお前? 女……?」
先ほど〝旦那〟と呼ばれていた方の男が訝しそうに呟く。するとそれに合わせて三つある眼球が、まるでわたしを見分するようにギョロギョロと動き出した。
「へー、ここらで着物を着てないたぁ珍しい。それ、セーラー服ってヤツだろ? 現世の人間の娘が着てるやつ。まさか人間の真似事かぁ?」
そう言ってケラケラと笑い出したのは、もう一人の男。
この男は顔も着物から見える肌もすっかり緑色で、口には黄色く鋭い嘴がついている。
「え……ええまぁ、そんなところです」
……〝現世〟って、何?
人間の真似事って……、じゃあこの人達は一体何者なの??
聞き慣れない言葉、化け物じみた見た目の男達。
内心の動揺を悟られないように適当に相槌を打ち、わたしは着けていたマスクを目の下ギリギリまで引き上げる。
普段はとある事情から外せずに鬱陶しくてしょうがなかったが、今この瞬間はマスクを身に着けていたことに感謝した。
だって恐らく今のわたしはこの異常事態に着いて行けずに、とても酷い顔をしているだろうから。
「じ……、じゃあわたしは急ぎますので! これでっ!」
本当は行く当てなどどこにもないが、とにかくこの場から立ち去りたい一心で、わたしは男達の横をすり抜けようと足を踏み出す。
しかし――、
「――待ちな」
「……っ!?」
三つ目の男が鋭くわたしを呼び止め、そのギョロリとした目のあまりの眼力に、恐怖で足がすくんで動かなくなる。
「んん~? この女がどうしたんで? 旦那」
「この女、妙に臭うな。おい、お前。その口元の布切れを取り、名を名乗れ」
「あ……」
ギョロギョロと忙しなく動く三つの眼球がわたしの上から下までじっとりと見つめ、ゾッと背筋が冷たくなる。
よくは分からないが、この男達に名を名乗ってはいけない。わたしが〝人間〟だと知られてはいけないと、本能的に予感する。
「……っ!!」
「あっ!! 待て!!!」
震えてもつれそうになる足をなんとか動かし、わたしは無我夢中で走り出す。
駆け出した瞬間、伸びてきた緑色の肌の男の鋭い爪がマスクを引き千切り、隠していた右頬が露わになってしまったが、そんなことを気にする余裕もない。
「ああっ!! こっ、こいつ人間だっ……!! おぉーい!! 人間の娘がいるぞぉーーっっ!!!」
緑色の肌の男の叫びに、これまでこちらのことなど視界にも入れずに忙しなく歩いていた人々の目が一斉にわたしへと向く。
「ひっ……!?」
思わず引き攣ったような悲鳴が出てしまう。
何故なら彼らの姿もまた、口が異様に裂けていたり、顔のパーツがゴッソリ無かったりと、おおよそ人間とは思えない姿をしていたからだ。
『人間?』
『人間の娘だって?』
『いい匂いがする』
『美味そう』
『食べたい食べたい』
「……っ!!?」
耳を塞ぎたくなるような悍ましい声があちこちから聞こえ、あまりの恐怖に叫び声すら上げられない。
――怖い!!
逃げなきゃ! ……でもどこへ?
ここはどこ? 家に帰りたい!
わたしはどこに来てしまったの……!?
色んな感情がごちゃ混ぜになって、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
それをゴシゴシと強く擦って足が痛みで悲鳴を上げるまで走り続ければ、夜にも関わらず煌々と真昼のように眩しかった幾重にも重なる赤提灯は見えなくなり、先ほどの化け物達の声がすっかり聞こえなくなっていることに気づいた。
「はぁ、はぁ……。……振り切れた……?」
真っ暗な暗闇の中、人気がないことを確認し、ようやくわたしは足を止める。
「はぁ……」
荒い息を整えていると少しずつ頭が冷えていき、今置かれたにわかには信じられない状況が薄っすらと吞み込めてきた。
恐らく今わたしは日本とは違うどこか別の世界にいる。そしてこの世界の化け物達は〝人間〟を食べるのだ。
まるで物語の中のような出来事が、まさか自分の身に降りかかるなんて……。
「……どこか、どこか身を隠せる場所を探さなきゃ……」
帰れるものならすぐに帰りたいが、迂闊にうろついていたら、あの化け物達の餌食になってしまうかも知れない。
本当についさっきまで日本でごく普通の高校生として生活していたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう……?
「……っ」
両親や帰り際に別れた友人の顔が頭に浮かび、また涙が溢れそうになるが、なんとか堪えた。
すすり泣いていたら、その声を化け物達に聞きつけられてしまうかも知れない。
とにかく今は落ち着ける場所が欲しい。
キョロキョロと周囲に視線を彷徨わせる。
「――――え?」
そしてふと足元に視線をやると、暗闇に慣れてきた目が何か円状の巨大な鉄蓋を捉え、ちょうど両足で踏んでいたことに気づく。
「ん……、何これ? なんか不気味……」
一見すると日本でもよく見かけるマンホールのようなのだが、ここに立っていると、何かざわざわと肌が粟立つような嫌な感覚がするのだ。
もしかしてこの場所にまるで人気がないのは、この鉄蓋のせいなのだろうか……?
「……――」
きっとこの蓋の奥には良くないものがある。
どうしてかは分からないが、そんな確信めいたものを感じる。
なのにわたしの手は導かれるようにスルスルとその鉄蓋へと伸びていき、そして――――。
「――それに触れちゃダメだよ」
「!?」
あとほんの少しで鉄蓋に触れるというところで、凛とした男の子の声が耳に響き、わたしはハッと手を引っ込めた。