SIDE ジーナ
「ジーナ、今日は指輪してないんだね」
常連のマルクスさんにそう言われて、エールを注ぐ手がピクリと揺れる。
王国で一番大きなロックウェル商会の次男坊であるマルクスさんは、私より3つ年上の美丈夫だ。
こんな下町の大衆居酒屋よりも、大通りにあるお洒落なお店が似合いそうな上品な容姿をしている。
「…よく気が付きましたね」
「ジーナがあの指輪を外してくれるのを、この3年ずっと待ってたんだから。すぐに気が付くよ」
キリルが出征する少し前にお店を初めて訪れたマルクスさんは、その時私に一目惚れしたらしい。
それからは頻繁にヤドリギ屋へやって来ては、こうして私に口説き文句を投げてくるのだ。
「あの英雄の幼馴染くんはもういいの?」
「………もう知りません、そんな人」
今日の昼、キリルと再会した時のことを思い出しそうになって、思考をシャットアウトする。
ふいっと顔を逸らした私に、マルクスさんは笑顔を深めた。
そっと私の指を掴むと、そのままチュッとリップ音をたてて唇を落とす。まるで王子様のような指先へのキスに、頬の熱が上がった。
「ねぇジーナ、今度デートに行こうよ。歌劇座のオペラをー…」
バタン!!!
店のドアがものすごい勢いで開き、マルクスさんも私も、店にいた全員がドアの方に視線を向けた。
ドアに肘をついて俯き、肩で息をしていた男が顔を上げる。
その青い瞳が私をまっすぐに捉えて、思わず体がびくりと固まった。
「ジーナ!」
「……っ…」
ずんずんと大股で向かってくるキリルに、私は慌てて目の前にいたマルクスさんの背中に隠れた。
何も言わずそのまま庇ってくれるマルクスさんの背中越しに、キリルが話しかけてくる。
「っジーナ、」
「ーーー英雄キリル殿、彼女に何か御用ですか?」
「……誰だ、お前」
そこで初めてマルクスの存在に気が付いたように、キリルが目の前の男を睨みつけた。
「これは失礼しました。初めまして、マルクス・ロックウェルと申します」
「……ロックウェル?もしかしてロックウェル商会のー…」
「はい、次男です」
丁寧で穏やかなマルクスさんの声と対照的に、キリルの声は苛立っていた。
「……あんたがあの”ロックウェル商会のお坊ちゃん”か。悪いがどいてくれ。俺はジーナに話がある」
「彼女はあなたと話したいように見えませんが」
「あんたには関係ないだろう」
「関係あります。ジーナは私の大切な女性ですから」
ピシリと、明らかに空気が凍ったのがわかった。
マルクスさんの背中に隠れている私にも、その向こうにいるキリルが殺気を放っているのが伝わる。
さすがは魔王を倒した英雄か、その迫力は凄まじく店の客全員が固唾をのんでこちらを伺っていた。
「……マルクスさん」
私を背に庇うマルクスさんに申し訳なくなり、意を決してその背中から顔を出す。
「……ジーナ」
「もう大丈夫です、ありがとうございます」
心配そうな表情のマルクスさんに笑顔を返し、小さく深呼吸するとキリルに視線を向けた。
真剣な青い瞳が私を見つめていて、思わず胸の奥が甘く疼いてしまう。
あんな酷いことを言われたんだから嫌いになりたいのに、長い間思い続けたこの気持ちはそう簡単に消えてくれないらしい。
「ジーナ、俺ー…」
「二度と私の前に現れないでって言ったでしょ。早く出て行って」
キリルの言葉を遮り、出来るだけ冷たく聞こえる声で言った。…これ以上、一体何の話があると言うのだろう。
私の言葉にさっと顔を青くしたキリルは、追い縋るように口を開いた。
「ジーナ!頼む、聞いてくれ。一度だけでいいからー…」
「私はあんたと話したいことなんてないわ!早く出てってよ!」
顔を見たくなくて俯きながら外に追いやるように胸を押すと、その勢いでキリルの手から何かが落ちた。
コトンと小さな音を立てて床に落ちたそれは、私がこの3年間毎日身に着けていた指輪だった。
「ーーっ…!」
昼間のキリルとのやり取りが頭に浮かんで、思わず涙が出そうになる。
指輪を見て顔を歪めた私の肩を、キリルが支えるように掴んだ。
「ジーナ、この指輪は俺が贈ったものか?」
「…………は?」
この男は何を言っているんだろう。自分が渡した指輪がどんなものだったかすら忘れたんだろうか。
……キリルにとってあのプロポーズは、その程度のものだったんだろうか。
腹の底から湧き上がってくる怒りで、涙が滲みそうになる。
「…馬鹿にしてるの?もういい加減にしてよ!早く出て行って!」
「いいから答えてくれ、お願いだ。これは俺が渡した指輪か?」
キリルの腕を振りほどこうとするものの、私の力ではびくともしない。
両肩を掴まれては逃げることも出来ず、やけくそで答えた。
「ーー…っそうよ!無事に帰って来れたら結婚してくれって、あんたがくれた指輪よ!」
怒りにまかせてバシンっとキリルの頬を打つと、やっと肩が解放された。
ボロボロと涙を零しながらキリルを睨みつける。
「戦地に向かう騎士の血迷い言を真に受けて…この3年間、馬鹿みたいに毎日身に着けてたわ!もうこれで満足でしょ!?好きだなだけ笑えばー…」
「結婚してくれ」
意味の分からない言葉がキリルの口から飛びだして、私はピタリと固まった。
「……は…?」
「愛してるんだ、ジーナ」
目を見開く私の前に跪くと、キリルは床に転がったままの指輪を拾った。
埃を払うように少し指で撫でると、青く輝くその指輪を私に向けて差し出す。
「ガキの頃からずっと…ずっとお前だけが好きだった。俺と結婚してくれ、ジーナ」
真剣な青い瞳が、3年前のあの日のようにまっすぐ私を見つめている。
驚きと困惑で一度は止まっていた涙が、またポロポロと零れだした。
「……っなによ……なんなのよ、もう…!」
私と本気で結婚したい奴なんかいるわけないって、そう言ってからまだ1日も経っていないくせに。
自分が渡した指輪がどんなものだったのかすら忘れていたくせに。
なのに今更結婚して欲しいなんて、一体どの口で言っているのか。
ふざけないでと言って突き放したいと思うのに、ジーナの胸にこみ上げてくるのは紛れもない喜びだった。
「……私だって…私だって、ずっと好きだったわ。キリルが無事に帰ってくるのを…ずっと待ってた」
「ジーナ…!!」
跪いていたキリルはすくっと立ち上がると、ジーナを勢いよく抱きしめた。
ぎゅうぎゅうと逞しい胸に押し付けられて、零れる涙がキリルのシャツに染み込んでいく。
「ああ、ジーナ…愛してる…!」
ジーナの頭に頬を摺り付けながら愛の言葉を繰り返していたキリルの手が、ジーナの頬を包むよう滑る。
その動きに促されるように顔を上げると、唇に優しいキスが落ちてきた。
「キ、キリル…!」
突然のキスに驚いて顔を離すと、キリルは恍惚とした表情でジーナを見つめていた。
初めて見るキリルの色っぽい表情に思わず息を呑む。
「ジーナ…いいだろ?もう一度ー…………っ!!」
再びキスをしようと顔を傾けたキリルが、突然はっとして目を見開いた。
ジーナに顔を近づけたまま、ピタリと体が固まる。
「キリル…?どうしたの…?」
ジーナを抱きしめていた腕を解き、こめかみに指をあてて俯いていたキリルは、しばらくすると顔を上げた。
「…………記憶が…戻った、みたいだ」
「え?」
「実は魔王を倒した時に怪我をして、ここ3年間の記憶がなかったんだ」
「は…!? 」
ここ3年間の記憶がなかった…?
じゃあもしかして、再会した時にキリルがあんな事を言ったのはー…!
「帰ってきたらジーナが婚約指輪をしてたから、他の男と結婚するのかと思ってー…」
「な、なんで記憶がないって最初に言ってくれなかったのよ!?」
「…ジーナが婚約してることで頭がいっぱいで、説明する余裕がなかった」
お互い勘違いで失恋したと思い込んでいたなんて、馬鹿みたいで恥ずかしい。
説明不足のキリルを責めたい気持ちに駆られたものの、再会した時に素直じゃない態度をとったのは自分も同じだ。
それ以上何も言えなくて口をつぐむと、左頬をキリルの大きな手が包み込んだ。
ジーナを見つめる青い瞳には、愛しさが溢れている。
「でも今、ジーナとキスをして全て思い出した。この指輪を渡してプロポーズしたことも、命懸けで戦って魔王を倒したことも」
「キリル…」
「俺が魔王を倒せたのは、ジーナがいたからだ。必ず生きて帰って、ジーナを抱きしめてキスしたいって、毎日そればかり考えてた」
少し照れくさそうに、でもまっすぐにそう言ってキリルは微笑んだ。
改めて彼をよく見れば、頬に触れる手にも精悍な顔にも、3年前にはなかった傷跡が溢れている。
キリルがこうして無事に帰って来てくれたことが、奇跡に思えた。
「キリル、無事に帰って来てくれてありがとう。……あなたを愛してるわ」
愛しい思いが溢れてジーナから口づけると、キリルの青い瞳が見開かれる。
固まったままのキリルからゆっくり唇を離そうとすると、がしりと後頭部を掴まれた。
「んむっ…!?」
逃がさないとでも言いたげに頭を掴まれて、先ほどまでとは比べ物にならない嚙みつくような激しいキスに襲われる。
驚いて思わずキリルの胸を押したものの、びくともしなかった。
そこで初めて周りに目をやると、店の客全員がこちらに注目している。
すっかり忘れてたけどー…私たちもしかして、ずっと見られてた…!?
ぶわりと羞恥がこみ上げてきて、慌ててキリルの胸をドンドンと叩く。
キスに夢中になっているキリルは全く動きを止める様子もなく、むしろ抵抗すればするほど深く舌を滑り込ませてくる。
恥ずかしさと息苦しさとで視界が涙で滲み始めた頃、ようやく唇が解放された。
「まったく熱いねえ!お二人さん!」
「おめでとう!信じて待っててよかったな、ジーナ!」
「がっつくのは程々にしとけよ、キリル!余裕がない男は嫌われるぞ?」
「…う、うるせえな!見てんじゃねえよ!」
店の常連さんたちが口笛を吹いて囃し立て、私は顔を真っ赤にして俯いた。
キリルもようやく皆に見られていたことに気が付いたのか、顔を真っ赤にして言い返している。
ふと顔を上げると、マルクスさんが眉を下げて微笑んでいた。
「よかったね、ジーナ」
「マルクスさん…」
「悔しいけど、今まで見てきた中で一番幸せそうだ」
優しい笑顔でそう言ってくれるマルクスさんに、私もつられて微笑んだ。
すると突然ぐいっと腕を引っ張られて、ぽすんと固い胸板に顔を押し付けられる。
「…もうジーナにちょっかい出すんじゃねえぞ」
「それはどうかな。まだ結婚したわけじゃないでしょう?」
「てめえ…」
にっこりと微笑むマルクスさんに、キリルが苛立たしそうに頬をピクリと震わせた。
その様子が可笑しくてふふっと笑うと、キリルは照れくさそうにガシガシと後頭部に手をやった。
その日の晩。
すったもんだの一部始終を皆に見られていた私たちは、たくさんの人から祝福の乾杯をもらって、キリルは潰れるまでエールを飲まされたのだった。
その後の2人の話も需要があれば番外編として書きたいなと思ってます〜