第7話 幼馴染と赤ワイン
生地のフチがぷっくり膨らんで、いい具合に焦げ目がついたマルゲリータとクアトロフォルマッジが運ばれてきた。裕人は嬉しそうに鼻をひくひくさせている。
店員が去ったところで、裕人が佳樹のグラスにピノ・ノワールを注ぐ。先ほどまで飲んでいたシャルドネもいいが、この赤ワインはクアトロフォルマッジとの相性が抜群なのだと勧められた一本だ。
「……へえ、もっと赤だと思ったらピンクなんだな。っていうよりむしろ桜色だ」
「乾杯するか?」
「……ゲイのカップルだと思われないか?」
「いや、それオタクの思考だから」
裕人は笑うが、そう言われても佳樹は周りが気になって左右に視線を走らせる。誰も自分たちのことなど見ていないと確認し、裕人のグラスに自分のそれを近づけた。
「だいたい、何に乾杯するんだ」
「そうだなぁ……」
「再会に、か?」
早くしないと、せっかくのピザが冷めてしまう。
佳樹は小谷眞一そっくりのイケボで無理矢理テーブルの雰囲気を変え、裕人との再会を祝ってグラスをかち合わせた。
幼馴染の裕人とは、幼稚園から大学までの二十年近くを共に過ごした仲だ。
大学卒業後はそれぞれ別の仕事に就いたが、社会人になっても三ヶ月に一回は飲みに行ったりと、関係は続いていたのだが、去年裕人が結婚してからというもの、佳樹は裕人への連絡をしづらいと思うようになっていた。
というのも、裕人が生涯をかけて守りたいと思う女性が現れ、結婚したことは素直に嬉しいと思う。
結婚式にも出席し、豪華な披露宴での幸せそうな二人の様子も鮮明に覚えている。だが。
問題は裕人の妻・麻衣子だ。
麻衣子が嫉妬深く独占欲の強い女性だとは、交際中から裕人がこぼしていたこともあるので知っていた。
それは何も麻衣子以外の女性に限ったことではなく、佳樹が裕人と一緒に過ごした時間があまりに長く、少年時代という特別な輝きに満ちた年齢の裕人を知る佳樹には、特に憎悪にも似た感情を抱いているらしいのだ。
二次会で裕人に紹介された時、取り繕った笑顔を向けられはしたが、佳樹を単なる友人の一人としてではなく明らかに嫌悪しており、裕人から遠ざけたいと思われているのを、佳樹はひしひしと感じた。
二人の新居に遊びに行くことはおろか、こうして外食をする機会すら、裕人の結婚式以来だ。
裕人も妻の束縛にはほとほと困っているようだが、これでも恋人同士だった頃より、新婚当初よりはマシになったと肩をすくめる。
なぜそんな女と結婚してしまったのか、それは本人同士でなければ知り得ない何かがあるのだ。
普段の佳樹は、翌日の仕事に響かない程度にビールやチューハイなどで済ませているので、数年ぶりにじっくりと味わうワインの味は格別だった。
フルーティーでさっぱりした白も美味しかったが、ピノ・ノワールは赤とは思えないほど軽やかで、柔らかな甘さがある。ピザには白と思いこんでいたが、新鮮な驚きだった。
それぞれ六つにカットしてくれと頼んだのに、切れ込みが浅すぎたためか、手で千切るようにしなければ取り分けられない。
とろりと溶けたモッツァレラチーズがバジルを巻き込むようにしながら中央に流れていくが、佳樹はそれくらいのことで苛立ったりしない。
「あ、ったく、バジルの数を誤魔化しやがったな」
「ちょうど境目にあるな……。まぁ、二枚半てことでいいじゃねえか」
「今日は機嫌がいいから黙っとくけどな、俺はピザには妥協しねえんだ」
「そういえば奥さん、安定期に入ったんだって? ピザのトッピング程度なら問題ないと思うが、念のため気をつけてやれよ」
「そうなんだってな。安定期つっても油断ならねえらしい。医者に言われたよ。『妊娠中に安定期というものはないと思ってください』ってな。いつでも気をつけてろってさ。サンキュー」
佳樹が取り分けたマルゲリータをもぐもぐと頬張りながら、裕人はバジルリーフをつまんで皿の端に避けた。裕人は昔から、好きなものは最後にまとめて食べるタイプだ。
「チーズと一緒に食った方が美味いんじゃねえのか? ま、いいや。しかし、お前が父親ねぇ……」
空になった裕人のグラスにワインを注ぎ、佳樹が感慨深そうに言う。
あと数年で出会ってから三十年が経つ。裕人も自分も、大人になることすら想像できなかった少年時代の思い出が、佳樹の中でめくるめく。
「なっ、笑っちまうよな!」
「笑えるか。子どもが生まれるのはおめでたいことだよ。こんな世の中だけどさ、その子がなにを見て、何に興味を持って、どんな出会いがあって、どんな人間になっていくのか……。それを近くで見守って、時に導いてやるのが父親だ。お前にその覚悟はあるのか?」
最後は『片翼の悪魔』のブリクサになりきって言った。
ここにちくわがいたら、興奮して絶叫するか、あるいは呼吸も出来ないほど沈黙して、死の危険にさらしてまうかもしれないと、佳樹は思う。
裕人の顔から笑みは消えたが、変わらずピザは口に運んでいる。
佳樹もそれにならい、やっとクアトロフォルマッジにも手を伸ばした。サービスでついてきたはちみつは、もちろんつける派だ。
「そのための準備期間て、短けぇよなぁ……。一年ももらえねえんだぜ?」
「いや、そもそも避妊しない時点で準備しとけって話だろ。まあ、親の自覚なんて子どもの顔を見てから芽生えるのかもしれないけどな。いまだ独身の俺が言えた口でもない」
「そうよ、それそれ! 今日はその話をしようと思ってたのよ!」
すぐに酔っ払ってオネエ口調になる裕人が、二杯目のワインを飲み干して身を乗り出してきた。
十月はまだ始まったばかりなのに、週明けから帰宅が遅くなりそうな事案が発生してしまい、佳樹は苦笑しながらも裕人と過ごす時間がただ嬉しかった。
「お前、彼女は」
「知ってるだろ。俺はアニメと声優にしか興味がない」
何度この手の話を切り出されただろうか。いつもと同じ答えだが、喉を絞ってイケボで言うと、裕人は呆れた顔で首を振った。
高校時代に女子から告白されて付き合ったことは何度かあったが、価値観の違いから長続きしなかった。
いや、そもそもたった十数年しか生きていない子どもに、価値観の何たるかを理解し、相手のそれを尊重することなど無理に等しいのかもしれない。
彼女たちがわがままだったからではなく、佳樹も彼女たちの気持ちを思い遣ることができなかったのだから、お互いさまと言えるだろう。
自分なりに付き合う相手のことは大切にしていたつもりだつたが、同じような理由を告げられて二度も振られた佳樹は、途端に恋愛が億劫になってしまった。
一度きりの人生、趣味に没頭するのも悪くない。少なくとも佳樹は、後悔しない毎日を送っているという自信があった。
「お前って本当、残念なイケメンだよなー」
二番目に付き合った女子と別れてから、裕人はたびたび彼女は出来たかと訊ねてくる。
佳樹はそのたびに同じ返答をして、そこで会話は途切れるのだが、今日の裕人は、それだけで終わるつもりはないようだ。
「酔った勢いで言うけどな、俺はお前に幸せになってほしいんだよ。アニメや声優を追いかけるのも否定しないよ。何も『声優とじゃなきゃ結婚したくない』なんて思ってるわけでもないだろうし。でも、だったら共通の趣味を持つ恋人を作るべだと思う。まぁ、いくつからでも恋愛は出来るけどさ、やっぱりいいもんよ。大切な人が家族になる、子どもが生まれるって」
兄弟のように一緒に育ってきた佳樹だから、佳樹にも自分と同じだけの喜びを感じ、感情豊かな人生を送ってほしい。そして願わくば、子ども同士も親友になれたら、と裕人は思っているらしい。
「ま、運命の人とは、探さなくても出会っちまうわけだけど、オタ活はほどほどにな」
「オタ活ってお前、俺は別にコスプレもしないし、声優のイベントに行ったりなんかもしてねえぞ。ただアニメと声優に詳しいってだけで」
裕人は自分が言い終わると、佳樹の言葉には適当に相槌を打ってピザに噛みついた。長く伸びるチーズをフォークで掬っては、器用にピザ生地に巻き付けるようにして食べている。
それをぼんやりと眺めていた佳樹は、ふとちくわのことを思い出し、裕人に告げるべきか悩む。
「裕人、あの、実はさ……」
一度は言おうとしたが、呆れられるだろうと思うと踏みとどまってしまう。
気になる人がいる、その人の声が好きだと説明したところで、声ヲタじゃない裕人には、この気持ちをわかってはもらえないのだ。
「あれ、合コンかなぁ? いいねぇ、楽しそうだねぇ」
佳樹がためらうそぶりを見せたのにも気づかず、裕人が佳樹の背後を指して言う。大きな笑い声が聞こえて振り向くと、男女六人で盛り上がっているテーブルが目に入る。
「お前もアニメ好きの合コンとか参加してみたらどうだ? 彼女とはいかないまでも、いい出会いが人生を変えるのは間違いないからな」
「いい出会いなら、裕人としてるだろ」
佳樹が目を伏せながらイケボで言うと、裕人は一度目を丸くし、それから嬉しそうに笑ってみせた。
やっと彼女を作れだの、恋をしろだのという話題が終わったと、胸を撫で下ろした佳樹だったが、そのおかげでちくわを意識し始めてしまったのだ。
ちくわとは好きなアニメが同じだったというきっかけで出会い、昨日までで六回の通話をしている。毎回二時間があっという間に過ぎ、佳樹は、ちくわと実際に会ってみたいと思っている。
だが、アニメを口実にした出会い厨だと誤解されたり、警戒されて断られたりするのが怖くて、なかなか言い出せない。
勇気を出して誘ったとしても、断られればもう通話することもできなくなるのだ。
今度、裕人がシラフの時になんとなく相談してみよう。
少し冷めてしまったクアトロフォルマッジにたっぷりのはちみつを垂らし、大きく口を開けてかじりつく。その風味が残っているうちにワインを含むと、まろやかなハーモニーが生まれた。
佳樹の数メートル後ろのテーブル席では、まだまだ合コンが盛り上がっているようだ。
その中でひとりだけ、目の前の男のアプローチに困っている女がいる。
それが「ちくわ」というハンドルネームを使い、アニメの話で盛り上がる聡子その人だとは、佳樹は知る由もなかった。