第5話 恋するアイドル
まだ十月初旬だというのに、陽が落ちた頃から急に気温が下がり、帰りは十二月並みの寒さに見舞われた。
二時間半も遅れてスタジオ入りしたが、なんとか予定より少し押しただけで撮影を終えることができ、みんなを早く帰してあげられるとほっとしていたのだが、聡子はずっと頭を悩ませていた。
ゆかりが話していた「好きな人」について、本人にこっそり訊こうと思っていたところ、なかなかタイミングが合わずに結局は帰りの車内になってしまった。
もうじき九時になろうという時刻だ。三人ともお腹を空かせているだろう。
以前は、帰りにファミレスに寄ったり、人気のラーメン屋に並んだりもしていたのだが、周囲にCherishだと気づかれるだけならまだしも、無断で写真や動画を撮影されることがあり、それをSNSに投稿する者まで出るようになってからは、メンバー揃っての行動は控えることにした。
四人で食事をするのが楽しいと喜んでいたゆかりの顔を思い出し、そしていま、助手席で鼻歌を歌っているゆかりを横目で見る。話しかけるか、それとも全員を送り届けてから、ゆかりにだけラインで訊ねるか。聡子はその判断に迫られていた。
次に信号で止まったら訊いてみよう。そう思いながらすでに三度目の赤信号だ。モタモタしている時間はない。ここからはゆかりのマンションが一番近いのだ。
「サトコさぁん」
「ねぇ、ユリちゃん」
サイドブレーキを引きながら、思い切って声を出したが、ゆかりの方がわずかに早く、甘えた声で聡子を呼んだ。
聡子が助手席に顔を向けると、胸の前で手を組んだ、天使のように可愛らしいゆかりが微笑んでいる。
うっ、かわいい!
思わずそう言ってしまうのを、聡子は息を呑んで耐えた。こんな子に何か言われたら、どんなお願いでも二つ返事で許しちゃうじゃないですか!
と思いつつも、自分はこの子たちを育てるマネージャーなんだと奮い立たせ、自分のこめかみに指を添えて顔を正面に戻す。
バックシートでは、綾と麻里亜がスマホを片手に、ツイッターを介して会話しているらしい。そろそろ信号が変わりそうだ。
「ん? なぁに、ユリちゃん」
「サトコさんから先に、どうぞどうぞ」
「いえいえ、年長者は後手に回るものです」
「えぇ~? じゃあ、言っちゃいますよ。サトコさん、いま好きな人いますか?」
「ごほっ!」
ゆかりに訊こうとしていたことを、まさか自分が訊ねられるとは思っておらず、聡子は激しく咳き込んだ。飲み込んだ唾液が気管に入りかけたようで、とても苦しい。
焦って介抱するゆかりの小さな手を握り返し、聡子はゼエゼエしながらも片手でハンドルを握り、青信号に変わった交差点でアクセルを踏んだ。
「サトコさん! だいじょうぶ?」
「うん。だい……、げほっ、がふっ……、も、だい、じょぶです……はあはあ」
背中をさすってくれるのはありがたいが、運転中はシートから背中を放したくはない。
そうゆかりに言いたいのだが、言葉を発しようとすると、また激しい咳がぶり返しそうで怖い。
ところがゆかりは、聡子の想いなど想像することもなく無邪気に言う。
「よかったぁ。そんなに動揺しちゃうくらい、サトコさんにも好きな人がいるんですねっ。彼氏さんですか?」
「えっ……?」
心配そうに眉を寄せていた顔から一変、ゆかりはニコニコと嬉しそうだ。誤解されては困ると訂正しかけて、聡子は「好きな人」についてをもう一度振り返ってみる。うまい具合に、また赤信号につかまった。
昨夜、希未子に訊かれた時も、ディアスを想って胸が苦しくなった。「人の痛みに寄り添うことが出来る」と本人に伝えたのはお世辞ではないし、ディアスとはなにもアニメの話だけをしてきたわけでもない。
ディアスと話せる日は、その時間が来るのが待ち遠しくて仕方ないし、あの声で「おやすみ」を言われると、もっと声を聞いていたくて、その声を追いかけたくて、どうしようもなく切なくなる。
これまでのやりとりや、その時のやさしい声を耳元によみがえらせると、とても幸せな気持ちになれるが、同時に泣きたくもなるのだ。
いくら小谷眞一とそっくりな声を出せるといっても、他の人とだったら、こんなに胸が苦しくなることはないのかもしれない。
好きなイケボの声優が、みんな外見も理想的なはずはないとわかっているし、だから会ったこともないディアスだが、きっと、会えば本当に好きになってしまうかもしれないと、そんな予感に聡子は少女のように戸惑っているのだ。
「え~っとね、ユリちゃん。私もそのことをユリちゃんに聞きたかったんだけど」
信号が変わらないうちに、ゆかりに「好きな人」がいるというのは本当なのか、それだけは確認しておきたいと思った。
こういう時に限って道路は空いていて、車はスムーズに流れてしまう。朝はあんなに渋滞していたというのに。
「今はサトコさんの話をしてるんです。で、どうなんですか?」
なぜ問い質されているのだ、と思いつつも、ゆかりに目を覗きこまれるとたまらない。
「えっと、その……、気になる人ならいる……かも」
ゆかりはかわいい外見に似合わずとことん頑固で、こうと決めたら納得するまで動かないところがある。
ここは先にゆかりの質問に答えるしかない。そう思った聡子は、上体をハンドルに預けながらぼそぼそと言った。
まだ会ったことは一度もなく、もしかしたら、一方的に声が好きなだけかもしれない彼が、自分にとって友だち以上の存在なんだと気づく。
「サトコさんが私たちのマネージャーになってくれて、丸二年。全く浮ついた話のなかったサトコさんに、ついに恋人の気配……。ああっ、私すごく嬉しいです。質問責めにしたいところですが、サトコさんのことだ。まだお互い探り合ってる段階なんですよね?」
聡子がコクンと頷いたとき、ちょうど信号が青に変わった。
慎重にアクセルを踏みながら、聡子は思う。
なぜだ。ひと回り以上年下の少女にからかわれ、それでも無下に出来ないのは、ユリがアイドルだからではない。異性に好意を寄せられることに慣れている彼女から、何か学べることはないかと、恋愛初心者の聡子は一生懸命なのだ。
いや、確かにそれもある。でも、この胸のざわざわする感じはなんだ。
聡子は車線変更しながら、ウインカーを出していないことに気づいて慌てて窓を開ける。運転席の窓から手を出し、後続車に謝罪の意を表してから右車線に入った。
「ユリ、彼氏ができたからってサトコさんにマウント取らないで」
「え」
突然背後から降ってきた声に、ゆかりの表情が固まる。
やっと話に区切りがつき、かつゆかりの好きな人のことを聞ける絶好の機会を与えられた聡子は、一拍置いてから驚き、繰り返す。
「彼氏ができた!?」
「はい~、実はそうなんです。えへへ……」
「だろうと思った。ユリはいつもそう。恋愛がうまくいってるかそうでないかで、仕事への取り組み方が違うもん。最近特にがんばってるみたいだから、ユリが自分から言い出すまではと黙ってたけど、サトコさん、これって問題ですよね?」
バックシートから身を乗り出し、シートベルトをいっぱいに伸ばして運転席に食い込むように言う綾は、ついでにゆかりの頭をぽこんと叩いた。
彼氏ができた。ユリちゃんに彼氏ができた。どうしよう。
聡子は、いままでにもゆかりには「彼氏がいた」ことがあったと、綾の言葉で初めて知った。
いつも間近で見ていたのに、こんなにみんなのことが好きなのに、私は何も気づかなかった。そんなことってあるだろうか。
そんなの、マネージャー失格なんじゃない? 頭の中で声が響く。
それよりも、ある程度の覚悟は出来ていたはずなのに、いざその単語を聞かされたら、聡子はまるでゆかりのファンの一人であるかのようにショックを受けてしまった。
「あうあう……」
また停止信号だ。聡子は呼吸が苦しくなるのを感じ、口をパクパク開けて喘いだ。
「サトコさん、しっかり!」
麻里亜が後ろから必死に手を伸ばし、聡子の手を握ってくれた。そうだ、今はそれよりも優先すべきことがある。
綾がゆかりの恋愛について「問題だ」と危機感を持っているとしたら、そこはきちんと四人で認識を共通させなけなければならない。
「ノルンの規定では、活動に支障をきたさないという前提で、アイドルの恋愛は許容されています。それに照らし合わせたとき、ユリちゃんの今の就業態度は、グレーゾーンかもしれない。アイドルにとって重要なのは、ある意味事務所の規定よりもファンの気持ちだからね。もう着いちゃうから、詳しくは明日事務所で話そう」
かすれた声でなんとかそこまで言うと、綾が後ろで「OK」と返事をした。
「そして、マネージャーの立場から言わせてもらうと、心から賛成は出来ない……かな」
「あちゃ~、やっぱり順序って大事ですよね」
綾の心配をよそに、ゆかりの反応は軽い。
これをきっかけにグループ内での空気が悪くなりでもしたら、それこそ大変なことになる。四人で立てた目標が夢のまま終わることになってしまうかもしれないのだ。
そろそろゆかりのマンションが近くなってきた。話の続きは明日でいいのか? それとも車内ででも、いま話した方がいいのか?
「到着~。行きはあんなに混んでたのに、帰りは空いてましたね! お疲れさまでした。アヤちゃん、マリルちゃん、明日ね。サトコさん、ありがとうございました」
聡子の考えがまとまらないうちに、ゆかりのマンション前に着いてしまった。助手席のドアを開け、ゆかりが車を降りる。
「おつかれさま、ユリちゃん」
麻里亜が手を振る。
「明日ちゃんと聞くからね!」
綾は少し棘を含んだ声で言った。
「ユリちゃん、早く寝るのよ」
彼氏と長電話なんかしてないで、早寝するのよ、あなたはアイドルなんだから、と聡子はゆかりを見送る。
ゆかりが降りたあとの車内には、どっと疲労の色が押し寄せた。
聡子だけでなく、綾も麻里亜もメンバーの恋愛事情には敏感にならざるを得ない。良いも悪いも、メンバーは運命共同体なのだ。
綾と麻里亜を安全に送り届けたあと、一人になった車内で、聡子は大きな溜め息をついた。
明日話すと言うには言ったが、なにをどう話したらいいのか、聡子にはわからなくなっていた。
ゆかりは、今までも恋愛がうまくいっている時とそうでない時には仕事に違いがあると、綾は言っていた。
二年間もあの子たちを見ていて、誰よりも一番のファンだと自認していたのに、気づかなかった自分は一体なにをしてきたのだと、聡子は自分を責めざるを得なかった。
もう一度大きな溜め息をつき、コンビニで缶ビールでも買って帰ろうとハンドルに手を掛けたとき、バッグの中でスマホが鳴った。