第2話 一生オタクでいる決意
ディアスとの通話は『片翼の悪魔』放送後から始めて、大体いつも一時間半ほどで「おやすみ」と言い合って終える。
翌日の出勤時刻が早いときはそのままベッドに倒れ込むが、今夜は温かい飲み物がほしかった。
自室のドアをそっと開いて廊下に出ると、深夜二時だというのにリビングに明かりがついている。先に寝ると言っていた母を起こしてしまうほど、大きな声で喋っていただろうか。
聡子は早足で廊下を進んでキッチンを横切り、ソファに沈んで何やら物思いに耽っているような母に声をかけた。
「お母さん、寝たんじゃなかったの。それとも、うるさかった?」
「聡子、ちょっと話があるの。そこに座ってくれる」
思いつめたような顔で自分を見上げる母に、ディアスの声が頭を占めたまま眠りにつきたかった聡子は、ためらいながら訊く。
「え、お母さん、明日は友だちとランチだって言ってたじゃない。今からじゃなきゃダメなの?」
「うん。あなたいつも帰りが遅いでしょ。なかなか話すチャンスがないのよ」
聡子の母・希未子は、どこかすがるような眼差しを向けている。組んだ手をテーブルの縁に置き、聡子にソファの向かいに座るよう促した。
母と娘の二人暮らしだが、小さな無垢材のテーブルをはさんで置かれたソファは、ゆったりと寛げるだけの大きさがある。
「ココアでも飲まない? 牛乳沸かしてくるよ」
「ううん、いらない」
「そ、っか……」
希未子は、聡子が小学生の頃に夫と離婚している。それから誰にも頼らずに、女手一つで聡子を育てあげたが、娘の職業にはあまり好意的ではないようだ。過去にもこうして真面目に向き合ったことがあるが、その時にやんわりと転職を勧めている。
聡子は、また希未子に仕事のことを言われるのかと、面倒臭そうに向かいに腰を下ろした。
「もう遅いから、単刀直入に言うわね。聡子、結婚についてはどう考えてるの」
「え、結婚? どうしていきなり……。考えるも何も、彼氏すらいないけど」
「知ってるわよ。仕事が忙しくて、そんなヒマないでしょう。それなら、ちゃんと有休を使ってお見合いするとか、最近だと結婚相談所もネットで見つけられるらしいじゃない。そういうところを利用してもいいのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよお母さん。なんで急にそんな話をするの? 私は仕事にやり甲斐を感じてるし、やっと築いた人間関係だってあるのよ。趣味だって充実してる。自分で選んだ仕事よ。そりゃストレスがないとは言わないけど、だから趣味にも時間を掛けられるように気をつけてる。結婚なんてまだしたくないわよ」
聡子は、大学三年生の夏から就職活動を始めた。特別な資格を持っているわけでもなく、希望する企業があるわけでもなく、少しでも家計の助けになるなら、職種はなんでもよかった。
週末にはいくつもの会社を訪問し、面接を受けた。毎週届く不採用通知のメールが三十件以上に及ぶと、一旦は大学の講義に専念しようかと思ったが、そんな折に高校時代の友人・美咲から、こんな業界もあるよと、ある求人広告を見せられたのだ。
「そうね……。いままで聡子の将来については、あまり口出ししないようにしてたと思うわ。でもね、私だって母親なのよ。娘の幸せを願わないわけはないでしょう。今日は、嫌われる覚悟で言うって決めてるの。聡子……、あなた来年で三十じゃない。せめて三十までには結婚して子どもを産んでほしかったわ」
「べつに、そんなことでお母さんを嫌ったりしないけど、二十代で結婚出産て、今じゃ早い方だよ。特にうちみたいな母子家庭だとなおさら、私はまだお母さんを置いて、それまで他人だった人と一緒に暮らすなんて無理。お母さんだって、誰でもいいから結婚しろ、子孫を残せなんて言うつもりじゃないでしょう? 仕事にやり甲斐を感じるのを『娘の幸せ』と思ってはくれないの?」
希未子が仕事に対して肯定的ではないことは理解していたが、あまりにも突然の話に、聡子は混乱した。「三十までに結婚して子どもを産め」なんて、だったらもっと何年か前に言ってくれなきゃ出来るわけがない。希未子の言葉に従うつもりはないとしても。
「それが一生ものの仕事ならね。聡子が楽しく働いてくれるのは、嬉しいし助かるよ。でも、職種そのものが不安定なのは事実でしょ? だったら辞め時を考えて、自分の未来に目を向けるのも大切だとは思わない? ねぇ聡子、好きな人はいないの?」
友だちとの話に出たか、それともテレビで親世代をターゲットにした話題を見聞きしたか何かで、影響を受けたのだろうか。
まさか母親が自分の結婚について口を出すとは思わなかった。希未子は、元々そういうタイプではなかったはずだ。
だが聡子は、きっと幼いころに「悪い父親」を見てきたせいで、『かっこいい男』への憧れが人一倍強かった。
高校、大学では周囲の女子と同じに振る舞いたい想いで、なんとなく男子と付き合ってみたが、相手の友人たちの雰囲気がよくなかったり、恋人と女友だちの境界を曖昧にする相手だったりで、いずれも一年ももたずに別れてしまった。
別れてみると「彼氏」「恋人」を持たない生活は、限られた時間を自分だけのために使うことができるため、聡子にはその方がずっと心地よかった。
その後は就職活動をし、社会人になってからでも恋愛はできると思っていたのだが、仕事を始めたことを機に、中学の頃に眠らせたはずのオタク気質が甦ってしまったのだ。
聡子の仕事は、早朝から深夜まで続くこともあれば、午後から短時間で済んでしまう日もある。ついでに不定休だ。
そんな聡子は帰宅後に深夜アニメを見ることが多くなり、「中の人」、つまり声優にハマるのもすぐだった。好きになった声優の過去の出演作をネット配信で浴びるように見漁り、三ヶ月に一度やってくる新作アニメもチェックする。
仕事はそこそこ忙しいので、ワンクールに五作品見られればいい方だが、聡子はそれでは飽き足らなかった。
いや、オタクの思考とは、誰もほぼ同じだろう。同じ作品が好きな人とネットで語り合いたいと思うようになる。
聡子が『片翼の悪魔』を知ったのは、今から半年ほど前のことだ。
深夜枠には珍しい、原作漫画や小説をもたない「オリジナルアニメ」で、制作会社の有名さも相まって、開始前からネットで話題になった。
ほんの一分程度のPVを観た聡子は、主役のブリクサに夢中になった。運命的に一目惚れしたブリクサの台詞を、偶然一番好きな声優の声で聴けることとなり、聡子はその時、一生オタクでいることを決意した。
放送開始前からSNSのトレンドにあがるほど、『片翼の悪魔』は多くのアニメファンの心を掴んでいた。そして聡子は、関連にあった「#片翼の悪魔が好きな人と繋がりたい」というタグをつけ、自己紹介の投稿をした。それが、小谷眞一の声真似が得意だというディアスとの出会いだった。
聡子は、縋るような顔をする希未子を前に、答えを見つけられずに目を泳がせた。
「好きな人」と訊かれ、真っ先にディアスのイメージが浮かんだが、現時点でのディアスは、「最高の趣味友」に過ぎない。お互いに素性がわからないからこそ、アニメや声優、その他の日常に関するちょっとした愚痴を言いあったりも出来るのだろうし、「声」が好きな人ならいると、希未子に話すわけにもいかない。
「今は仕事が楽しいし、婚活をする気もない。お母さんの気持ちはわかるけど、私は責任ある立場にいるの。もう子供じゃないの。それもわかってほしい」
「聡子……」
「明日も仕事だから、もう寝るね。お母さんも出かけるんでしょ。風邪引かないようにあったかくしておやすみなさい」
「……そうね、ありがとう。聡子もね」
「もっと早い時間に、今度は私からその話をするから。そんなに深刻な顔しないでよ。運命の出逢いなんて、案外身近に転がってるのかもよ」
希未子の返事を待たずに立ち上がり、聡子はそのまま部屋に戻った。枕元のぬいぐるみに「おやすみ」を言ってベッドに潜り込んだとき、リビングの電気も消えたので、ほっとする。
好きな人……。
目を閉じて考えても、頭に浮かんでくるのはディアスの声だ。過去の彼氏たちの姿ではない。なんだかディアスに申し訳ないような気がして、頭まで布団にくるまって身体を左右に揺らした。
いつもなら気にならない秒針の音が、いちいち胸を刺してくるように感じ、聡子はわずかな痛みと苛立ちに、眠れない夜を過ごした。