第1話 君の声は
今夜の『片翼の悪魔』は、予想を遥かに上回る神回だった。
手のひらを胸に当て、大きく深呼吸……するつもりだったが、どうしても肺いっぱいに空気を吸い込むことができない。短く浅い呼吸を繰り返しながら、聡子は緊張のあまり冷たくなった指先をなんとか動かし、SNSのタイムラインを辿る。やはり今週も『片翼の悪魔』はトレンド入りしていた。
そこにはバトルシーンの作画の美しさ、音楽や声優についての感嘆の声が多く寄せられていたが、聡子自身はたった一言「よかった」と書き込むことさえできないほど、心はまだ『片翼の悪魔』の世界から抜け出せずにいる。
『ちくわさん、こっち準備OKです』
スマホの画面が瞬時に明るくなり、ダイレクトメッセージを受信した通知が表示される。現実に引き戻されはしたが、聡子の楽しみは、アニメ放送後が本番なのだ。
聡子は慌てて本棚の中段にあるヘッドセットを装着し、マイクの位置と音量を調節した。パソコンのデスクトップ左端に置いた通話アプリを開き、彼のハンドルネームである「ディアス」をクリックする。
『私もOKでーす!』
その数秒後に、アプリが着信画面に切り替わった。毎週のことながら、それを取って第一声を発する、この瞬間のくすぐったさにはいつまで経っても慣れない。
『ちくわさん、こんばんは』
『こんばんはー! いやいやもう、もうもう』
ヘッドホン越しに聴こえてきた彼の声に、聡子は胸をきゅっと縮めて、小さく息をついた。この一週間も、今夜のためにがんばってきたのだ。
『いやー、今日の作画は気合入ってましたよねぇ』
『ね! すごかったですね! 特にデビルが横一列に並んで総攻撃を仕掛けるところ。緊迫感のあるBGMが見事にマッチしてて、みんなすっごいかっこよくて……。私、まだ鳥肌立ってます』
『いや、実は俺もです。まったく、毎週いいところで終わりすぎですよね。本編のラストに息を呑んで、予告を見て情緒不安定になる、の繰り返し』
『ですよねぇ。……モイラは、助かるんでしょうかね。タロットで悪いカードが出てたけど、その伏線をそのまま回収するのは、片翼っぽくない気がします』
『俺は、モイラは生きると思いますよ。片翼って、キャラが死ぬときは勿体ぶらないのが常識になってるじゃないですか』
ですよね! と手を叩き、聡子は笑う。自分のひと言で、聡子が元気になったと感じたのだろうか。ディアスも照れたように笑う。二人の間にやさしいながらも気まずい空気が流れ始める。
『あの』
『ちくわさん』
ディアスに名前を呼ばれ、聡子の心臓が跳ね上がった。音声のみのチャットなのをいいことに、聡子はヘッドホンを両手で押さえ、駄々をこねるように動きながら悶絶している。聡子はディアスの声が好きなのだ。
『次回予告、見ましょうか』
『……はい』
ディアスにエスコートされているような気になった聡子は、パソコンの画面に映った自分の姿をぼうっと見ながら、『片翼の悪魔』の公式サイトにアクセスした。
ディアスと同時に視聴し、その感想や考察だけで優に一時間以上は語り合う。いい大人が、ここまでアニメに夢中になるなんて、と後ろめたさを感じる時もあるが、いまや日本の「オタク文化」は世界中で親しまれているし、ディアスという仲間がいると思うと、聡子は妙な安心感を覚えるのだ。
『ディアスさん、そろそろいつものアレ、お願いしてもいいですか?』
ようやくそれぞれの『片翼熱』が治まってきた頃、聡子はディアスに切り出した。汗でべっとりと湿った手と手を合わせ、そっと目を閉じた聡子は、ふたたび深呼吸をして心の準備をする。
『いいですよ。ちょっと今回は選べなくて、二つあるんですけど、大丈夫ですか?』
『えっ、二つもですか? わっ……かりました。死なないように気をつけます』
やや大げさとも思える言葉で心構えを伝える聡子に、ディアスはふふっ、とマイクを顔から離して息を吐き、自分も呼吸を整えるように言った。
『ちくわさん、いつもオーバーですって。じゃ、いきますね』
ん、ん、とディアスが喉を鳴らし、数秒の沈黙が訪れた。すると、聡子の緊張の糸は最大限に張りつめ、期待がどんどん高まって胸が張り裂けそうだ。
すぅ、とディアスが息を吸う微かな音のあと、それは降ってきた。
『仲間のために命懸けか。お前も一人前になったな』
『……はい』
本当は、「ひいぃぃっ」と悲鳴をあげてしまいそうだったが、聡子はなんとか理性で踏みとどまった。ディアスの台詞はあまりに決まりすぎていて、言われたキャラの気持ちになって、返事をするのがやっとだった。
ディアスは、聡子のその反応にツッコミを入れるべきか迷ったが、準備と練習をしていたもう一つの台詞を聴かせる方が先だと、大きく息を吐いては吸い込む。
『まったく、お前は先走りすぎだ。少しは状況を見ろ。そばに仲間がいるだろう』
『あぁぁ、うぅぅ……っ、ぁ、ありがとうございますぅ……っ! 神回を見たその日のうちに、またその声が聴けるなんて、ああ、ああ、あぁ……ぱたり』
『ちくわさん、生きてますか? ……いやいや、こちらこそありがとうございます。でも、そこまでリアクションくれなくても、俺、ちゃんと毎週やりますよ』
ディアスの耳に届く聡子の声は、吐息交じりの途切れ途切れで、本当に息苦しそうだ。悪ノリだけだとも思えなかった。
『いえもう! もう! お世辞なんかじゃないですから! 本当に死にそうで、語彙力喪失ハンパないんですが、あぁ、ブリクサぁ……。ディアスさんの声、マジ小谷……』
ぷしゅ~、と効果音を発しながら、聡子は机に突っ伏して泣きの芝居まで始める。その様子が自分から見えてはいないのだが、嬉しさと恥ずかしさを噛みしめたディアスは、聡子をどうからかってやろうかと考える。
ブリクサというのは、『片翼の悪魔』の主人公で、聡子が好きな声優・小谷眞一が声を担当しているキャラクターだ。
ディアスは、小谷眞一と声がよく似ており、毎週日曜日の夜には、その日に放送された『片翼の悪魔』の中から、印象に残った台詞を聡子に聴かせる約束になっていた。
『そこまで喜ばれると、もっとやりたくなりますねぇ』
『やっ! ふたつも頂いたばかりですので! このちくわ、供給過多で本当に命を落とすかもしれませんので、ひとまず今回は、どうも、本当に、ありがとうございました。ふるふるふる……』
そう言いながら、聡子の指先はまだ震えている。パソコンの画面を見ながらも、視線はそのずっと奥の「ブリクサ」に合わせたままなのかもしれない。
『いえいえ。いやー、ちくわさんはおもしろいな』
『ただの声ヲタですよ。ネットと、ディアスさんと話してる時以外は、地味なアラサーです』
ようやく落ち着いてきたのか、画面に映る自分の姿にふと目を遣り、聡子は微笑む。
『俺も声ヲタで、普通の人です。本当に好きなことを一緒に楽しめる人がいる、その人の前では素になれるって、いいことですよね。まぁ、顔の見えないやりとりだし、飾ってる部分も多少はあると思います。それでも、楽しくおしゃべりしてくれるちくわさんが、俺にとっておもしろい人であることに変わりはありません。あっ、女性には失礼でしたか?』
毎日、都内のあちこちを車で移動し、たくさんの人と関わるが、それはすべてビジネスであり、自分の内面を出せる相手などいない。お互い「親友」と呼べるような関係ではないが、きっとそれに近い絆を感じ、聡子は、ディアスに見えないことをわかっていながら、笑顔で手を振る。
『いえ、そんなことないです。嬉しいですよ。やっぱりディアスさんは、イメージ通りの人だったな』
『え、どんなイメージを持たれてたんですか、俺って』
ディアスの問いに、聡子はほんの数秒のあいだ、考えているふうに沈黙した。
『ディアスさんはね、やさしくて、心が広くて、でも、何かを我慢しながら生きてきた人。人の痛みに寄り添うことができる人。だからこそ、趣味には全力投球でこれからも突っ走ってほしいです』
『えぇ、ちょっと高評価すぎかな、とは思いますが、素直に嬉しいです。でも、ちくわさんはそんなに純粋で危なっかしいですよ。ネットで知り合った男に騙されそうで』
自分も「ネットで知り合った男」なのに、と内心で苦笑しながら言うディアスに、ちくわはきっぱりという。
『大丈夫です。二次元と声優にしか興味はありませんから。キリッ』
ふとドレッサーの鏡に映った自分に目を遣ると、大層なドヤ顔をしていた。聡子は、小さな嘘をついてしまったと気にしながらも、ディアスと声を重ねるようにして笑った。
もっと話したい、ずっと日曜の夜が続けばいいのにと、限られた時間を惜しみながら、二人はアニメや声優の話に花を咲かす。だが、楽しい時間というものは、すぐに終わりが来てしまう。儚いものなのだ。
『今日もそろそろですね。ちくわさん、明日はお仕事、何時からですか?』
『えーと、明日は十一時着なので、あと一時間は! と言いたいところですが、ディアスさんは九時出勤ですもんね』
語尾を寂しそうにしぼませながら、聡子は溜め息交じりに言った。
『まったくコンチクショーですよね。すみません、そうなんです。もしちくわさんのご都合が良ければ、今度は休みの前日にでも』
『ディアスさんの公休日って、水曜日でしたよね! わーぜひぜひ。またDMします』
職業柄、聡子の休みは不定期だが、接客業だというディアスは水曜が公休で、週のもう一日の休みは、他の従業員とのバランスを見て、直前に決まるらしい。聡子にとっても、水曜日は比較的午後からの出勤のことが多いので、うまくいけば、また三日後に話せるかもしれない。
『今日もありがとうございました。滾りました!』
『ははは、よかったです。こちらこそ、ありがとうございました。あんまり昂ぶると眠れなくなりますよ』
『はい、落ち着きます。じゃあ、おやすみなさい、ディアスさん』
聡子の「おやすみ」を聴いたあと、ディアスはもう一度ブリクサの声を出して言う。
『あぁ、いいからさっさとやすめ』
その声がヘッドホンから耳の奥に届いた瞬間、聡子の頭は、実際に音を立てているのではないかと思うほど、「ボン! プシュ―」と破裂してしぼんだ。
爆弾を落としたまま、先にログアウトするディアスの気配を追うように耳を覆い、悲鳴をあげる力もなく、聡子はその場によろよろと崩れ落ちた。デスクに額をつけ、ふふ……と声にだして笑う。その幸福感と同時にまた怒涛の一週間が始まるのだという疲労感が、いまから肩や腰に重くのしかかってくるようだ。だが、明日は今後に繋がる大事な仕事だ。それなりに気合も入っている。
「あぁ~、ブリクサのおやすみボイスの破壊力ったら!」
グラスに残っていた氷を奥歯で噛み砕くと、その音は夜の闇をまっすぐに、ディアスのいるところへと飛んで行くような気がした。