第4話 ☆
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真実を知る、のが怖い。真実というか、他人の本意を知ること。
みんな、愛想笑いしている気がする。
なぜかって。僕が愛想笑いをして生きてきたからだ。
自分が気にしている事は、他人に気にされているような気がするものだ。
いつもそう考えてしまう自分がいた。
だから僕は他者に対して遠慮するし、距離を詰めたいと思わない。
そして僕は別に他人なんて必要としていないタイプの人間なのかもしれないと、いつしか擦れて斜に構えて考えるようになった。
意気地なしだと人は言う。他者がいない方がいいなんて、弱者が吠えているに過ぎないという。
まあ、概ねその通りなのだと思う。僕は少し前まで、もっと他人を盛り上げるように会話できて、腹を割って話し、相手の信頼を得て、声援を受けるような活躍をできる人間になりたいと思っていた。
でも、それができないと知った。
他人を盛り上げる会話は出来ないし、腹を割って話そうにも誰も僕に興味を持たないし、相手の信頼も得ることは出来ない、だからこそ、活躍など夢のまた夢だった。
いま改めて論ってみれば、原因は簡単である。
他人に興味がないからだ。
僕は他人に興味を持たないからこそ、盛り上がる会話をする気力がないし、人間は興味を持たれなければ、その人への興味は薄れるものだ。そうして興味が薄れれば、信頼さえすることもない。僕は誰も信頼しないし、それ故に信頼されないのだろう。
ここまで書いてきて、何と悲しい、寂しくみじめだな、と思うかもしれない。
そうかもしれない。
でも、不思議と辛い思いはなかった。
他人との接点が消えたことは、僕にとってそれほど重大なことに思えなかった。
むしろ一人でいることが気楽で、他者に気を使わない分生きやすいとすら思った。
これも強がりなのかもしれない。僕は通常の人間が寂しさやみじめさを計るために供えたメーターを、狂わせてしまっているのかもしれなかった。鈍感になっているだけだから感じないのかもしれない。でも、感じないものを、「あるはずだ」と思って、それが欠けていることを、不幸がることがノーマルなのだろうか。
感じないものは、「無いもの」として処理した方がいいんだろうな、と僕は思う。車の運転は「かもしれない運転」を推奨されるけれど、僕が生きる上であらゆる事象を「かもしれない」の疑惑にかけていては、考えている僕以外のすべてを疑うことになってしまい何も捗らない。
はっきり言うと、「かもしれない」という場面には適切さが求められる。それを適切に「かもしれない」できるためには、経験が必要だ。どこで車が事故を起こしやすいか、起こりうる可能性があるか。それがあり得ないことまで「かもしれない」と考えることは、普通の生活においては不毛だ。飛行機じゃあるまいし、車にバードストライクはしないのだから、上空を頻繁に確認することは現実的には無駄だろう。むしろ、景色に気を取られて、よそ見運転になってしまう。
であるから僕は、寂しさを始めとして、普通の人にはあるはずだというネガティブな感情は、僕の前に立ち上がってこないならば、僕には無縁であると判断する。
僕は他人との関係性を広げたいとは思わない。他人が要らないといっているわけじゃあない。もちろん僕にとって有益な関係というのはあるだろう……。でも、たいてい面倒くさくなってしまうのだ。人と会う予定を立てれば、最初は乗り気だとしても、その前日になってみれば、ああ、本が読みてえな、見たい映画があった、課題が終わらない、なんて人と会う時間がもったいないと思ってしまう性根の貧しさを自覚する。
人と遊ぶ時間を楽しいものにできるかどうかは僕の振る舞い次第なのに、僕はそれを面倒だと脊髄反射で思ってしまう。もちろん、半分くらいは、面倒だなあという想いは、実際にあって遊ぶうちに霧散する。でも、それは相手の努力によるものだとうすうす気づいている。相手が、僕に気を使って興味を持ってくれているから、僕が相手に興味を持たなくとも、楽しさを成立させているんだと。
僕はそれを申し訳なく思う。特に、却って相手に気を使って僕の方から話題を提供した時、それが相手の興味の範囲から外れてしまい、相手が沈黙してしまったならば、自分の独りよがりを自覚し、気遣いのへたくそさに自身の劣等感を覚え、僕は再び気を遣うことを遠慮したくなってくる。僕が気を使って気まずい空間を作るなら、そもそも相手と会わない方が、相手のためだろう、という言い訳をもって、自分が気まずくて、劣等感を感じるシチュエーションから身を守ろうとするのである。
そうして、僕は他者に気を遣うことを極めて、気を遣い遣われる状況を無くすことにした。つまり多くの場合で他人と会わないことにした。
そう決めてから僕の生活は、他者の介入を拒むように薄っぺらいものになっていくのだろうと思うのだった。僕の中にある古い常識において、人とのかかわりが少ない人は薄っぺらいのだろうという偏見が固着していた。実際はどうなるのか、自分自身で観察してみようとさえ思っていた。
とはいえ、友人と呼べる人はいる。でも、基本的に、僕の生活圏に他人は入れなかった。友人と遊ぶときは大学か、友人の家だ。強いて来るものを拒んだわけではない。僕の生活圏に入るのが不評なのか、一度家に来た人間は二度と寄り付かなくなった。適度に掃除はしているし、臭いというわけでもなかったはずだが、僕の何気ない行動が、相手には歓迎されていないと映り、他人は僕の家に快適さを覚えなかったのだろう。
その程度の友人しかいないのか、というかもしれない。でも、そんなものだ。僕の大学生活で培った友人らとは、その程度の距離感を保ってきた。
それに不満はない。それが楽だったから。それでいいと思っていた。
だから、例えば恋愛がどうかと言われても、親友がどういうものかと言われても、もうわからない。距離感の詰め方とパーソナルスペースの線引きの方法の変え方は僕の中において風化して見る影もなく消えた。いま人と深くかかわらないでいる気楽さに、勝るふれあいの喜びを想像することができないのである。