第44話 愛ってなんだろうね
2/16分はこれまで。
遠い道のりを戻り、村への帰路につく。彼女はもう戦士団の様子を見ようともしなかった。
僕は彼女の行為の意味を考えていた。そして自分自身が、彼女を止めなかったという事実は、僕が村の巫女であるという事実に置いて、重大な失態なのかもしれない。
僕は謎のむかつきの感情から解放されたと思ったら、罪悪感に囚われていた。
なぜ彼女は敵に、アコンの民を積極的に攻めるように進言したのか。彼女は院長に「村が滅びる」ことを示した。だが、それは自然にそうなるという運命を彼女が知っているわけではなく、彼女が滅ぼすことを手助けする意志を示してた、だからこれから滅びるんだ、という彼女の意志をぶつけていただけだったのかもしれない。
そう思えば、アルファリオも、滅びることを望んでいる誰かを手助けする、としか言っていなかった。
このビレアの森には、蟻害に苦しめられてきた人間の他にも、聖樹の滅びを願うものがいることを、改めて僕は意識させられる。
では、そのうちの一人であると判明した彼女……名前がまだわからないこの、僕の身体を動かす彼女は、いったいどうして聖樹を滅ぼそうとしているのか。
院長に対しては、「自由になりたいから」と述べていた。
彼女はまた、幽霊、あるいはアコンの民が蕾のころに出会う『先生』という存在に似ているとも言っていた。
改めて『先生』について、僕の知っていることを振り返ってみる。
それは、若い聖樹の地下空間にいる存在。結実したアコンの民が、生まれてから長くて20歳になるまで入ってる養育施設。その管理人のような、文字通り、養育施設の先生のような存在であった。
彼らは、蕾たちに、心から望むことを意識させる。自信が何を求めているのか、会話を経て、気づかせようとする。それは、学校の先生のようであり、さりとて、何かを教えるわけでもない点が、決定的に異なっていた。その20年近くの期間は、ひどく退屈なのではないか、と僕は感じたものだ。しかし、その施設の外に出ることが無い蕾たちが、外の世界を想像することは出来るのだろうか、憧れるのだろうか、という疑問もあった。
『先生』という存在は、僕にとって、気分の悪いクレーマーの姿をして現れていた。でも、おそらくそれは、死んだ者が埋葬され、比喩としても実際にも聖樹と一体化した結果、その抜け殻が、先生の形をとって、結実して産み落とされた新芽たちに、彼らがすくすくと育って目指していくべき各々の太陽の方向を指し示すというのは、循環を示唆しているようで興味深いと思ったのは強く覚えている。
その点から、『先生』という存在は姿を変え、蕾たちの前に何度も現れるのだと理解できる。しかし、彼らは子供たちが話してくれた記憶、あるいは聖樹に蓄積された記録を共有しているのだった。『先生』とは、一人であり、群れである。ある意味聖樹の分身だったのかもしれない。
では、彼女も聖樹の分身体?
「気持ちの悪いことを言わないで」
そういって、彼女は僕の突飛な疑問を退けた。
「だったら、前世があるものが、聖樹の一部に生まれ変わるってどういうこと?って思わない?」
まあ、確かに? いや、でも生まれ変わるということすら意味が分からないのだから、生まれ変わる先が動物でなくとも構わないではないか……。
「まあ、そこは否定しないわよ。いや、まあ、考えなおしたら、……もしかしたら、ある意味聖樹の分身体ともいえるかもしれないわね。でもそれはアコンの民全員に言えることよ」
っていうのは?
「結実。それは、片方の親を聖樹、だとしているということでしょう。聖樹の一部を受け継いでいるじゃない」
ああ、確かに。
でも、生まれ変わって、『生えてきた』僕もそれに当てはまるんだろうか?
「私だって、『生えてきた』んだけどね」
……え? 生えてきた? それって、生まれ変わったってこと……?
「おっと、口が滑り過ぎたわね……。今のはまだばらすには早かったかな」
ねえ、どういうこと? ねえったら。
「うるさい。そのうち話すわよ」
そういって、彼女は不機嫌そうに、顔をそむけてしまった。いや、顔が実際に見えるわけではなかったんだけど、会話を拒否したのが、あたかも視覚的にわかるかのようなふるまいが、声音から想像できるものだったということだ。
と、そのとき、僕は横殴りに衝撃を受けた。足は地面を離れ、気づいたときには、地面に頭を打ち付けていた。
「いったぁ……」
すこし、前世の死因を思い出していた。彼女はうちつけた部分をさすりながら立ち上がる。その手には白い靄が覆われ、『治療』がされていることがサンの感覚知覚によってわかった。村の医者たちはハチミツや生肉を補助具として使っていたが、彼女は驚くべきことに、それらをサンを結集したものを代用し、止血、飛び散った肉片の修復にすら補っていた。
「敵だ!」
その一声と共に、僕らは、複数の人影に囲まれた。転んだ衝撃か、視点のピントが少しぼやけていたのだが、時間が経って、人影が、誰なのか識別できるようになってきた。
「メルセス」
彼女は少しだけ、警戒するようにその名を呟いた。
「おい、人間! 装備を脱いで投降しろ!」
メルセスさんは凛々しく僕らに命令した。
そうか、僕は今、全身を人間から奪い取った装備で覆っている。だから誤解されたんだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 脱ぎますから! 僕です!ぼく! 祐樹です!」
そういって、僕は頭から、ヘルメットを脱ぎ去り、彼女に対して降伏の意を示し、攻撃を止めるように懇願する。
「はあ? なんでユキがここにいるんだよ? こんな危ないとこくんなよ」
「あ、すみません、ちょっと取り込んでて……」
「つか、なんで人間の装備を着てんだよ。人間に捕まったのか? それにしては服を着せられて手厚い待遇だな」
捕虜ではない。
「いえ、ちょっと、敵の野営地に忍び込んで来ただけですよ」
そう言ったら、彼女が、目を細めて、無言で僕の頭をはたいた。
「いてっ」
「無茶すんな。相手がこちらに何を思っているかは知れないが、少なからず、侵略者だぞ。下手したら捕まって、ひどい目にあわされているんだぞ」
「はい……」
そう返事しながら、僕は、主導権が彼女から取り戻してあることを気づいた。僕は僕になった。
その女の相手は面倒そうだから、任せるわ。
ふとそんな声が頭の片隅に響いた気がした。
「……落ち込んだって、私は引かないぞ。今回ばかしは、お前が悪いんだからな」
メルセスさんの声が少し震えて聞こえた。彼女は僕が敵地に忍び込んだ無茶に関して、怒ってくれようとしている。僕と彼女は少し喧嘩のような行き違いをしていたが、彼女はそれを差し置いてまで、僕のことを心配して怒りまで発露して見せてくれる。
ああ、なんて義理堅い人なんだろうか。
「ごめんなさい」
「そんな殊勝な態度をして見せても、ダメだ」
そういって、彼女は後ろに控えていた戦士団の者たちに目くばせする。
彼らは村の方向に去っていった。二人で話させてくれるというのだろう。
そうして二人になった。周囲は、夕暮れ時を過ぎて薄暗い。虫の音が耳朶を打つ。距離感がわからない。どこからも音が聞こえた。
「私が、テスェドを頼むといったからか?」
「え?」
「あいつを頼む、って言ったから、お前は無理して、行動している。お前は臆病者だ。こんなところまで来る奴じゃない。でも、テスェドに借りがあることを気に病めば、行動するかもしれない。そう思ったんだ」
「あー……」
僕は確かに臆病者だ。でも、他人のために行動を起こせる奴よりももっと臆病者だ。だから、僕は彼女の言うような行為をした覚えはない。
そう思い返答の言葉を選んでいると……、
「ああ、違うのか。それは私の早とちりだな……」
「メルセスさんと話すと、いつもこうですね。あなたは僕の感情を推し量ろうとして、先回りしようとする。まるでそれが僕のためであるかのように」
「おまえ……私のことが嫌いなのか?」
「……ふふ」
なんか、変なセリフだなあと思った。
「なにがおかしい!」
「僕はメルセスさんと恋人になったつもりはありませんよ」
――『嫌いなの?』
そんな元カノの声を思い出していた。
「キモ」
「うわ、確かに今の僕のセリフもなかなかにキモイ」
「まるで私のセリフも同じだと言わんばかりだな」
「僕の育った場所だったら、『嫌いなのか』なんてセリフは地雷以外の何物でもないですからね」
そこまで思って、僕は、メルセスさんに対する嫌悪感が薄れていることに気づいた。
僕は何において彼女を嫌っていたのだろうか。あの時、彼女が、テスェドさんに対して叶わない恋心を抱き続けているように見えたこと、彼のために何でも使い、僕の行動すらテスェドさんの有利になる様に支配しようとした強かさを持つ一方彼に対して気持ちを明かそうとしない不器用さに、自己の中に似たものを感じ嫌っていたんだった。
でも、記憶を取り戻して、すこしだけ彼女と話してそれが違うことに気づく。
「メルセスさんは、テスェドさんのことを愛していたんですか?」
「は……? はぁ?」
彼女は目を丸くする。そんなに驚く事かな? このアコンの村では、恋愛なんて無いのだろうに。『愛する』という言葉は、ユージェが弟を愛するように、メルセスさんもテスェドさんを愛そうとしたのでは?という文脈で受け止められれば、そう驚かれないのではないか? と僕は僕が意図するところを棚に上げて問うていた。
「おまえ、それっていうのは、どういう意味でいってんのか。私は、確かにテスェドのためになればいいなと思っている。あいつの願いが叶えばいいとおもっているが……」
「彼のために献身している?」
「なんか、堅苦しい言い方だな。でも、そうだな、私があいつを考える時は、それくらいかもな」
「なんか、歯に物が挟まった言い方ですね。はっきり言わない」
「うるせえな。お前がはっきり言い過ぎなんだよ。なんか人が変わったみたいに、遠慮がなくなったな?」
「僕は興味を持ったことに対してはもともとこんな風に素直でしたよ」
「じゃあ、なんで、ちょっと前まで、私に遠慮していたんだよ」
「ええ……と」
遠慮していた。確かに。でも、それは、彼女が僕に対して決まずさを持っていたからだとも思っていた。彼女が僕に対して何かを言おうとすれば、彼女は僕のこころの色を読む。そして僕はそれを知っているから、強いて彼女を不快にさせないように不快な色合いをにじませないように意識するけれど、意識すればする程、感情の水面は濁り、彼女に対する苦手な感情は、えぐみのように色合いにアクセントをつけてしまった。だから、僕は彼女を避けるように愛想笑いして……。
あれ、たしかにこれは僕が彼女に遠慮しているとも取れるなあ。
「な、遠慮しているだろう」と彼女は僕の自己完結を察したようにコメントする。
「あはは……」
「逆に聞くけど、お前の言う『愛する』ってなんだ?」
ふと、彼女が真剣な表情で問いかけてきた。
「私はテスェドに感じているものが何なのか、自覚できないでいる。マヌケだろう? 感情を色として見える能力がある癖に、感情を切り分ける能力が生まれたてのお前よりも劣っているんだ。私は、感情の機微を見分けるのに疎い。感情の大まかな変化を他の誰よりも知ることができるから、そこに胡坐をかいてきた。戦いや心理戦に使う色以外を強いてみないようにしてきた。そうしないと、日常生活で気を病んでしまうから。私は色を常に見させられている。だから、私は感情を知覚しない訓練を自己にかけ、色が出ようが出まいが、気にしない方法を身に着けた」
驚きだ。彼女は亡くなったテスェドさんに対して、未だ整理のつかない状況にいるということ……。そして、彼女はサンの能力が絶え間なく発揮され続け、ある意味制御できないでいたということも。彼女はだから、認識の方を改めた。その代償が、感情の分節の甘さにあるらしい。
「私は、時に私が何を感じているか知らないんだ。知らないなら、その感情に振り回されることが少なくなるからな」
彼女はぽつりと言葉を落とす。
「でも、時に、強烈な、塊のような切り分けられない感情が、私を突き動かす。前にお前と口もきけなくなった時のような疎外感、または、テスェドに対して、じっとしていることをゆるされないような、罪を償わなければいけないような、強烈な衝動を思うんだ……」
視線の先の足元には、草花が風に揺れている。彼女は以前、ラミーとその収穫の苦労を思って、村に対する愛着を僕に示した。そこに伺えた感情は本当に彼女が胸に抱いたものだった。でも、彼女自身は、自身の感情が、感じ取れる色以上に、もっと複雑な様相を呈していることを薄々感じていた。でも、その複雑さに浸ることは、キャパシティが許さなかった。もしその複雑さを繊細に味わいたいと思うならば、彼女は彼女自身が望むことが、サンによって、阻害されているのかもしれない。
「だから、お前に改めて問う。お前が私に聞いた『愛する』とは、どんなことなんだ」
「わかりません」
「おい、わからないことを前提にして人に聞く奴があるか」
「ははは……。僕は一般的な意味で、『好きだ』とか『相手のことを考えずにはいられない』『相手を大切にしたい』と思う人が使いがちな意味合いで、『愛する』ということを自覚してるのか、メルセスさんに問いたかっただけです」
「じゃあ、知っているんじゃないか」
「でも、僕はそれらが『愛する』ということの本当の意味かどうか分かりません」
なぜなら、それを実際に経験したことが無いから。
「ふうん。なんだか、お前も、私と同じような悩みを抱えてるんだな……」
「あの、勝手に憐れんで生易しい顔するのやめてくれません?」
「ああ、もう一人じゃないんだぞ……」
「抱きしめようとするな」
僕は彼女から距離を取る。危ない危ない、メルセスさんはそのケがある人だった。僕のことを男だと知った後でもそうしようとする。あれ、知っているなら、正常なのか?
「まあ、でも、お前の悩みも同じだろうに。私は、意図的に目をそらして、日常における感情を無視していたから、識別の種となりうる分節された感情を経験することができなかった。おまえは、意図的ではないけれど、特定の感情が発生する状況に出会ったことはない。だからそれを区別するための材料が記憶できていないんだな」
「まあ……小難しい話ですね。でも確かに、そうかもしれないです。僕は経験したことが無いから、感情を区別できない。一生南極にいる白熊は、水がお湯になりえるなんて知らないでしょうから」
僕の感情に愛を育む余地があるかなんて知らないように。
「でも、アコンの民においては、恋愛というのがないから、結局僕の問いは、答えられなくなるんですかね」
「さてな。隣国に行って人間に恋した奴もいないわけじゃあないだろう」
「そういう人もいるんですか」
「皆無ではないだろ。まあいいよ。その話は」
そういって、彼女は肩についていた枯れ葉を払い落とした。
「話を戻す。おまえ、この森に入って何していた?」
そういった彼女の目は細く鋭く、僕の心をスライスするようだった。彼女は戦闘のイメージを持ち始める。感情を読むことを厭わないモードだ。僕は真っ裸になってしまうだろう。
――ちょっとだけ手伝ったげる。そういって僕の中の居候が感情を発露させた。その衝動に任せて嘘が口から飛び出た。
「聖草を追っかけていたら、そこまで来ちゃって」
そういえば、村の外に出たのに聖草を見ることはなかった。ほかの動物たちと同様に煙を嫌って逃げていたのだろうか。
そんな妄想をうつらうつらしていたら、メルセスさんは僕の感情に嘘や動揺を窺うことは出来なかったようで、何か言いたげに、でも何も言わずに納得した。
「最近、サンの扱いがうまくなったんだ」
内部にいる彼女の影響か、確かにサンに対する技量は上がっている。
「その影響か、聖草の動きも少しずつ分かるようになった」
これは嘘でもあり、本当でもあった。でも、僕はいまメルセスさんに彼女の存在がバレるのを嫌だと思っている。そして、村を崩壊させる手引きをしたことを隠そうともしている。僕は村においては大罪を見過ごし、罪そのものに加担する悪人であろう。
村が滅びるのを望んでいるのだろうか。僕は村の中に友人がいて、その人たちを見殺しにしようとしているのか……。
僕は自分がしでかしたことを、見つめ直し、それを隠蔽しようとしていると気づいて
不意に震えた。それが引き起こす自分への不利益を思い返して、緊張する。
今まで僕は何も考えずに、村が滅ぶ、という文字面を受け入れ、その悪魔的な運命が遂行されつつある現状に流されていた。でも事実滅ぼされていく過程で、傷つく人々がいることにようやく気付く。
果たして、この嘘はつき続けていいものだろうか。
「ふうん、じゃあ、村に来たばかりのころにした、擬態の察知をして見せられるかな?」
メルセスさんは僕への疑念をすべて飲み込んだのかもしれない。僕は感情を見せないように小細工されているとはいえ、表情や呼吸からすべて見抜かれているような気がしてならない。緊張に肌が粟立つ。
僕たちは村に戻り、例の河原に移動する。
赤土の溜まった川辺に僕たちは到着した。
メルセスさんは以前のように両腕に結集をして、僕を試す。最初は純粋に結集のみで山を両腕、交互に切り替えている。
右左右右左左左右左右左……。
「前より早く切り替えても、察知が追いついているようだな」
そうして五分ほどで、擬態を使い始めた。
先ほどよりも格段に難しくなるけれど、以前よりもサンの気配をかぎ取れていた。
「ふうん、本当みたいだな。さすが巫女」
僕は、巫女の運命を背負っているからこそ、能力が成長しているのだろうか? 正直いって、サンの能力訓練はすぐに飽きたためよほど行っていない。
内部にいるもう一人の彼女が影響しているだけではなかろうか。
彼女が出て行ったら、僕はただの素人に逆戻りではないだろうか。僕は力を持たない、単なる一般人である。しかしながら今はこうやって嘘を塗り固めるために得意げに仮の成果を披露する。努力が偉いかと言われれば少しわかりにくい部分もあるけれど、それでも、ただもらった物、他人の物を我が物顔でいばるのはどうだろうか、という想いがうっすら頭をよぎる。
その気まずさ、申し訳なさは、それでも、僕が犯したことに比べれば、些末なことなのだろう。僕の心は、目の前の女性が『愛する』人がいた村を壊そうとしていることへの不誠実さに締め付けられる。
僕に与えられた選択肢は、二つだ。開き直って、村を滅ぼす悪を受け入れるか、このまま申し訳なく思い続けながら、無力感に打ちひしがれて村が滅びるのを見届けるか。
救え、だって? もしそうすべきであれば、僕は内にいる彼女が、敵のテントに入って進言する時に、主導権を奪い返し正体を現して、敵の一番偉い奴を殺す、それしかなかったと僕はいま思っている。
また一方僕がこの葛藤を回避するIFは、彼女に乗り移られることも、敵の陣地に行くこともなく、村の中で怯えて泣いているガキであり続けるべきだったということ。
そんなIFはあり得ない。なぜなら、あの時、僕はいてもたってもいられなかったし村を出て敵と邂逅し、何かアクションを起こさないとという、薄っぺらな正義感に浸っていたからだ。
そしてさっき言った僕が村を救うルートである、『あの時偉い人を殺す』選択は、僕が捕まり殺されるか、情報のため尋問を受けることを意味する。自殺覚悟の荒業だろうということだ。敵に捕まっても、そんなひどいことはされないだろうって? いや、ここは異世界だし、相手は人間、こちらは人間じゃないと見なされている。人間は人間以外の敵には、情はわかないだろう。
しかも偉い奴を殺しても、敵が止まる確実性はない。ただ頭を取って敵が混乱することを信じ、その隙を戦士団が突くことを願うだけだ。
臆病者の僕は、自己犠牲の覚悟はない。薄っぺらな正義感はすぐに破り捨てられる覚悟しか生み出さない。だから僕に彼女を止めることは、精神的に不可能だった。そうして、僕は今わかる様に、村を滅ぼす悪事に加担した罪過を背負ったと自覚した。僕の内心は、荒唐無稽な『村を救って贖え』という声を荒げたて、あるいは、『悪事に加担したこと、嘘をついたことを白状して、皆を戦わせ、生き延びさせろ』と無責任に尻を叩く。
なあ、僕が流されるとこまで流されたのが悪かったのは重々承知だ。でも、無理なことが多すぎないか? 僕は逃げればよかったのか? アルファリオが最初にテスェドさんを否定して僕を脅した時に、僕は彼を見捨てて逃げれば、今の誰からも攻められることになりそうな構図にハマらずにすんだのかなあ。たられば、は何も生まないってのはわかっている。アルファリオの挑発に乗って、逃げることは出来ないのは、明白だよ。でも。じゃあ、なぜ僕が『村が滅びる』という声をアルファリオとあの彼女から聞いたときに、村のみんなに頼って、どうにかしようと思わなかったのか。それは、僕が村の人たちを信用していないからだろう。というか、村の聖樹に対して命を投げ出せる、という状況に狂気を見た。だから、あの彼女が院長に啖呵を切ったとき、魅せられたのだ。彼女の内面に宿る狂気に酔った。僕は、村の聖樹を崇める異常と、聖樹から解放されようとしている彼女の歪みを比べて、後者に共感した。勝手に巫女として縛り付けられた現状もあいまって。
確かに僕は彼女のことを嫌っている。何か不信感のような直観を抱いている。けれど、僕の周りを絡まる聖樹というしがらみの前では、彼女の怪しさは、却って僕のうじうじとした心をかき混ぜて、今と違う何かを見せてくれるような、魅力を思わせる。
僕は僕を愛するという心持において、彼女が彼女自身を自由にするために村を打ち滅ぼしてでもいい、という覚悟のありように、憧れを抱く。
ああ、そうか、僕が彼女を嫌っているのは、僕ができないことをやり遂げていることへの劣等感的嫉妬感情だ。
ところで、こういう、誰かを嫌うという感情を、僕は最近まで抱いていた。そう、目の前の女性、メルセスさんに対してだ。
メルセスさんの行為は僕にとってとても近しく、理解できるからこそ見ていられないと思わせるものであったはずだった。感情を読み、好きな男に対して、尽くし、自己を押し殺してまで行動する。果てには部外者の僕にまで彼のため、を強要するかのように、行動を制限し干渉しようとしてきたことが、たまらなく不快だったことを思い出す。あの頃は、同族嫌悪だと思っていた。記憶が途絶えていた僕自身、気遣い過ぎて身を亡ぼすことは身に覚えがあったから。
けれど、記憶を取り戻して自分の対人関係へのスタンスを受け入れたとき、メルセスさんへの嫌いは同族嫌悪ではなくなった。彼女への思いは憧憬に代わっていた。彼女と僕は全くもって遠い位置にいたのだ。僕から見れば、彼女の精神的位階は僕よりもはるかに遠く、高くそびえていた。
記憶を取り戻した僕にとって、かつて憧れて、けれどできなかった、誰かを死ぬほど好きでい続けること。誰かに想いを寄せ続けるなんて狂った純愛は、僕には到達不可能な領域だと知った。その領域は単純に僕のいる領域と異なる階層にいる。僕がどれだけ領域を広げようと努力しても、彼女は別の階層にいるのだから交わることはない。最初から無理だと設定されていた物を、できると誤解して何時間も追及した果てに無理だとわかった徒労感。僕はロマンチックな理想に憧れて、それを体現できるように追い求めていた。でも他人に興味がない性格なの自覚して以降あきらめを受けいれた。その徒労感といえば……。そうしてあきらめたときから、僕は純粋な恋愛に対して、近くにあるようで遠すぎるような何か隔絶とした絶望感を抱き、それが成立していると思う人を間近に見ると、まるで望遠鏡で太陽を覗き込むような、危険な苦痛を伴う。あれほど恋焦がれたものが、なぜ僕の前には存在しないのかという不条理が僕を焼き焦がしているようだった。かつての労力を思って、疲れ果たしてしまう。
そういう意味では、内に潜む彼女の在り方は、僕の歪を突き詰めていけば、いつか到達できそうな歪にいる。同族嫌悪の対象は、こちらの彼女の方だった。僕は僕の中のナルシスト的感情はまだどこか僕の信じる世間と照らし合わせて恥ずべきものだとしている。だから、彼女の歪みを、僕は恥ずべきものだと強く意識させられてしまい、それなのに、それを恥ずかしげもなく前面に押し出している彼女の振る舞いに嫉妬した。
おそらく、僕が僕の葛藤を克服するには、彼女の方向性の突き抜け方を参考にするしかない。
僕なりのやり方で開き直るしかない。
では、どうやって彼女と同じくらいの歪みに到達すればいいのだろうか……。
「っち。私の擬態まで見破り始めやがって……これで生後一か月ちょっとだと……?」
メルセスさんの声が聞こえた。僕は物思いにふけっていて、現実感がなかったけれど、どうやらサンの擬態を見破る修練は、僕の無意識が正しく行っていたらしかった。
「メルセスさんが能力を使う時、顔の一部にもやもやが見えますね」
僕は察知によって得た情報を、精査もせずに口に出す。
メルセスさんはギョッとしたような表情をして、顔を手で覆って隠れようとした。
「え……、なにかショックでしたか」
「いや……なんでもないなんでも……」
と言いづらそうにごまかそうとする。
「じゃあ、その、もうちょっと擬態について教えてもらってもいいですか」
僕は、擬態について、それほど知識がなかったことに気づいたので、彼女に教えを乞おうとした。かつてこの川辺で教わったときは、両腕のサンの結集が、擬態により隠されても判断できるまで、察知の訓練を続けようという意識でしかいなかったから、それをクリアできた先、次のステップとしては何があるか知らなかったのだった。
「はあ……」
彼女は鼻のあたりを手で隠したまま話を続ける。が、何かをあきらめたのか彼女は手をどかした。
「いや、はあ……。お前は私の顔を見て、どう思う?」
「え、と鼻からもやもやしたものが流れ出ているように見えますが」
冬の寒い日にお湯を口で含んで、鼻息をしたらそう見えるかもしれない。
「お前の察知の見え方は、靄だったな。実は、な……。テスェドの奴は、人のサンを植物の芽やツタが生えてきて、動き出す様子が映るんだそうだ」
「え……と、つまり?」
「私の顔……特に鼻から鼻毛が蠢いて見える、なんて真顔で言われた日には、あいつをぶちのめしてしまったよ……」
「そ、そうだったんですか……」
あ、危ない……僕の見え方が煙でよかった。赤い液体が見えるならば、鼻血出てますよ……なんて話しかけて、現戦士団長の拳を顔面で受け止めることになってしまう所だった……危ない。
「……だからあまり人の顔を察知してじろじろ見てくれるな……」
そういう彼女はきまりが悪そうだった。あまり思い出したくない記憶なのだろう。




