第41話 朱に交われば赤くなる
残酷描写有り。
2/15分はあと一話投稿します。
僕は正直よくわからないまま、この場にいる。
彼女の意志で来たが、僕は付いて来ただけだ。もし僕がこの場で身体の主導権を返されても、僕は聖樹まで帰ることは難しい。単純に道を覚えてなかったからだ。
彼女は低木の茂みをかき分けて進んでいく。不思議なことに蚊や虻があまり指してこなかったのだが、それはこの全身を覆うワンピース状の麻布が、よい防護服になっているからだった。顔は、彼女がサンを使って守っているようだ。
ここは、村の外。視界の端に川が見える。そういえば、この世界に来た当初、川沿いを訪れた記憶がある。同じ川の一部なのかもしれなかった。
あの……。そろそろ君が誰か教えてくれない。
僕は前を向く彼女にそう語りかけるも、相手にされないまま、彼女は進んでいく。
川を飛び越えて(僕は自分の身体能力の向上に驚いた)、向こう岸に着地し、木陰に身を潜めたとき、視線の先に、アコンの民ではないものが、潜んでいるのを確認した。
それは、二つの丸いガラスが目を覆うゴーグルと円柱状の濾過器がついたマスクが一体になった装備を纏い、背中に大型の掃除機のようなものを背負った4人組だった。彼らの内二名が腕を負傷し、一人は足を引きづっている。包帯に血が滲んでいる。無傷の一人は周囲を確認し、追っ手がいないか警戒している様子だった。彼らは川から水を汲み、態勢を整えている最中らしい。
戦闘のさなか、分断され逃げてきたのだろう。敵襲は100名前後と聞いていた。彼ら以外にも散り散りになった者はいると思うけど……。
「は……聞いてはいたけど、人と変わんねえ見た目してるな」
「上層部も適当なこと言いやがって。何が悪魔だよ。ビビッて損した。そりゃあ能力は恐ろしいけどよ。やり口の話ならアルカディアの奴らの方がねちっこくて不気味だよ」
「昔の言い伝えだってさ。西方の森には、得体のしれない村があって、一度は言ったものは出てこられないか、出て来ても記憶を失っているそうだってな」
「じゃあその言い伝えの真実を暴く第一人者におれたちがなるってんだな」
「そういうこった」
彼らは愚痴を言い合う。現実逃避をするというより、ここに派遣させられたことへの文句を垂れている。
「くっそ、俺らの傷は敵にやられたっていうか、味方の銃撃にやられてるしよ……」
「それは笑ったな。つかこんなジャングルの中、隊列を組んでの侵攻だからよ、馬も禄に使えねえ。荷物背負わされて歩かされて、しんどいことしんどいこと」
それに何だこの暑さと湿気!と叫んでいる。
「それな。これで本隊が敗走して、取り残されたら、どうすっか、村の奴らに土下座して手当てしてもらうかねえ」
おい、つぎ暑いとか、湿気が、とか言ったらぶん殴るからな、とも叫び返している。
「おいおい、不安なこと言ってくれるなよ。つか、負けること前提なのか」
「いやだってよ、見ただろ。全然こちらの銃撃が通用してないような奴らが、しかも飛び回ってくるんだぞ、三次元的に。なぜか俺たちのとこだけ攻撃されなかったけどさ」
「なんでだろうな。背の高い細身の女が采配していたみたいだったが……」
「俺が美男だったから殺すのが忍びなかったんだろう」
「随分審美眼のおもしれー女がリーダー張ってんのな」
「戦況を見る目は合っても、男を見る目はなかったと見える」
「それな」
「言ってろ。今度襲ってきたら、俺だけ助けてもらってお前ら見捨てるからな覚悟しておけよ」
ずいぶんと愉快な奴らだと思った。
敵地で負傷していて、これだけ冗談が飛ばし合えるというのは、ビビりの僕も見習いたいところである。
「まあ、覚悟する必要もないんだけどね」
そう彼らの声が聞こえた瞬間、8つの瞳が僕を捉えた。
これは……罠ね。彼女は胸中で呟いた。
僕らは、川を飛び越えた後、木陰に隠れて、首だけ出して彼らをのぞいていた。擬態も、新しい操縦者が僕以上の精度で行っていた。なのに彼らは気づいた。
彼女の、罠という言葉は真実らしく、彼らは、怪我など嘘だというようで、銃を突き付けてくる。剣の付いた長筒の銃である。
くそ、はめられた、卑怯な奴らめ……。少しだけイガイガとした感情が芽生える。
彼らはもったいぶりながら発砲しつつ、じりじりとまわいを計ってくる。
弾数はそれほど多くないようである。
僕の身体は木陰からか木陰へ、銃撃の合間を縫って移動する。身のこなしはまねできないと思うのだが、それをしているのが自分の身体であることに驚きを隠せない。
「罠と言っても…おままごとね」
銃撃を回避して彼女は、無造作に掌底を一番近かった男にくらわす。その動作に、素人の僕は意識がついていかず、気づけば掌に衝撃と、一人が仰向けに転がっているのを確認した。他の三人は見方が倒れることなど折り込み済みの用で動揺もなく、銃剣で突き刺そうとしてくる。彼女は続けてもう二人に掌底を打ち込む。右、左と両手で衝撃を与えて、倒れた敵を視認、落ち着いて最後の一人に打ち込もうとした時、両腕に違和感があった。手首から先に力が入らなくなった。彼女はそのことに気を取られた一瞬、敵に脇腹を刺された。熱いものが腹を中心に広がり、呼吸ができなくなるのを感じる。
「手こずらせやがって……、一人は、あいつが自分でも言ってた通り覚悟してたけどよ、三人倒すなんて。見た目は化け物じゃないと思ってたんだがな……」
男は長い筒をこちらに向ける。
装填に手間取るのが嫌なのか、とどめは剣で突き刺すらしい。
細長い切っ先が僕ののどに触れ、少しずつ重さが増え、異質な金属が体内に侵入せんとする。
僕は気絶した。
皮膚が切り裂かれ、肉を突き破る幻覚に不快感を得たところまでは覚えている。
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気が付くと、彼女が大人四人の手足を縛っているところだった。縄は自然のツタで代用されているのだけれど、サンの形跡を感じる。人間がちぎるのは容易ではなさそうだ、と直感した。
僕が気絶している間にいったい何が……。
「とどめを刺そうとして、剣を突き立ててきた男に、サンの弾丸をぶち当てて、倒したの。ひどい目にあったわ。サンが急に阻害されたかと思うと、腕の結集が霧散して。そのせいで、男を殴ったら両腕が捻挫した……。昔治療術を教えてもらっていなかったら、身体が怪我だらけだったもの」
独り言に、気づかされる。腹の刺し傷も、腕の違和感も消えているということを。
彼女は、男たちを殺すことはしないようだった。
手足を縛り終えたときに、最初に気絶した男が目を覚ます。
男はうめき声をあげながら、腹に食らった掌底の感想と、テンプレートな文句を垂れ流す機械であった。
「なぜ、サンが阻害されたのかしら」
「サン? なんのこと? ただ、俺たちの小細工のことってんなら、まだ気づいてなかったのかよ。どんくさい嬢ちゃんだなあ。これだよこれ」
といって、背負っている掃除機のようなものを顎で指す。
「こいつを、あらかじめ、俺らの周りに散布しておいたのさ」
「ああ、だから、最初からそのマスクをかぶっていたのね」
「そうさ。あんたらに効くっていう枯葉剤が入っている」
「枯葉剤?」
「なんでも、他の重火器ではびくともしなかった化け物どもが、こいつを掛けられて数日すると枯れ葉みたいに朽ち果てて、粉々に砕けて風に飛ばされていくんだとよ。偉い奴らが言ってたぜ」
「はあ。それだけ時代が100年進んでるわね」
「え? なんのことだ?」
「いいや、イカした兵器だって褒めてるのよ」
「これからお前たちが食らうものを褒めるってんなアいかれた嬢ちゃんだ」
「そうね。私もそう思うわ」
男は、彼女のとぼけた態度に、調子を崩されたようで、次第に表情がふてくされてしまった。
「おい、早く殺さねえのか」
「もっと情報をもらってからね」
「いうねえ。で、あんたのほうは枯葉剤くらって、しんどくねえの? ほかのアンリコラブルはすぐに体調不良めいて倒れてたのによお」
「別に、構造を知っていれば、容易い話よ」
「なんでおめえがこいつの構造を知ってんのかはさておき、お嬢ちゃん、俺の命を助けてくんねえか」
「なに? 命乞い? 別にいいけど、私はあなたの上司に、『部隊を売る代わりに助けてほしい、情報を売る』って言ったことチクってもいいのよ」
「おいおい、ちょっと待ってくれ、情報も部隊も何もまだいっちゃあいねえぜ」
「まだ?」
「おそろしい嬢ちゃんだ……」
彼は冷汗を拭うふりをして、目を伏せた。
「こちらの要求はただ一つよ」
「要求?」
「ええ、それさえ満たせばあなたを解放してあげるわ。もちろん、他のお仲間にも黙っててあげる」
「へえ……で、要求は何だ?」
彼女は、腕を曲げ、掌を開いたり閉じたりする。そこにもやもやとしたものが集まる。サンを結集しては散らして、結集しては散らす。彼女は、本当に流行り病の影響を受けてはいないようだ。ガスマスクははったりだったのだろうか。
「ええ。液体も内臓もまき散らさないで死んでくれること……ねっ」
彼女は手に集めた結集を、手刀に沿わせて細く長く形成させ、ガスマスクの付け根、顎の下あたりから、首を狙って、一突きしたのだった。僕はその一瞬を、うっすら気持ち悪い焦燥感を募らせながらも、何でもない映画の一場面として目に焼き付けた。思いのほか冷静であったことを覚えている。
男は、喉をつぶされたせいか、うめき声もろくに出せずに、絶命した。
サンを体外に漂わせ、相手の心拍を探っている。彼女は紐のように伸ばしたサンを漂わせ、クラゲが触手で物に絡みつくようにして脈を確認したのだった。サンの知らない使い方だった。彼女は、数秒経って男の心拍が停止したのを確認して、喉から腕を引き抜いた。手袋を脱ぐように、まとっていたサンを明後日の方向に放出することで、彼女は鮮血に濡れることなく、付着した痕跡を抹消する。
っち……、やはりガスマスクの首元が血でぬれたか……。仕方ない……。
彼女は男たちの服装をいただくつもりだったようだ。
彼女はたった今殺した者の剥ぎ取りをあきらめ、残る三人に狙いを絞る。
一人は窒息させようとガスマスクをはぎ取ったところで、目を覚まして抵抗を受け、手刀で喉を一閃。頸動脈を傷つけたのか、最初の男よりも血に汚れてしまった。全身が濡れている。彼女に飛んでくる血はサンを空中で結集させて、叩き落とした。
気絶させたものも、服を脱がそうとしたときに目覚めると厄介ね……。
手足を縛って或る者たちの衣類を脱がそうとして手足を解いて身を危険にさらすのも馬鹿らしかった。
そこで彼女は、一人の男から上下の衣類を無事に回収するのは不可能だと悟ったようで、上半身の衣類、下半身の衣類を別々にはぎ取ろうとした。すでに、下半身の装備が血で汚れていない男は確保しているため、次は、残る二人を、どうにか上半身を汚さずに衣類をはぎ取ればよかった。
彼女は考える。下半身にどう切りつけたところで、男は起き抵抗するだろう。すれば、内容物がぶちまけられるような殺傷をせざるを得ない。
自分には、毒のような、相手を内側から攻撃する手段はない。
また、このまま気絶させたままはぎ取る、というのもあまり確実性に薄い。だがわざわざ殺すのもコスパが悪い。
気絶を解かせないままはぎ取る方法か。
今私の手札は、サンを弾丸にして飛ばす、サンを手刀にまとわせて突く、傷を癒す。とこれくらいだ。
ふむ……。ならば。
「首の骨を折るか」
ただ、泡を吹くというのはいただけない。というか、本当に泡を吹くのかどうか、頚椎をへし折って殺したことが無いからわからないけれど……。
と彼女は考えつつ、朝、散歩に行くような気軽さと、少々の面倒くささを思いながら、気絶した一人の男の首に手をかける。
サンについてもう一度言えば、サンを身体に結集したところで、力が増すことはないというのはすでに言っていることだ。増えるのは関節の耐久度や筋組織の強靭具合。サンによる鎧というわけだ。
逆に言えば、身体の頑強さが上がるというのは、脳が掛けている身体にかかる負荷の制限を、緩めることが可能になることだ。実質の筋力が上がることはないけれど、無理な扱い方を、無理せず、普通の力としてふるまえるということ。
そうなれば、
「意外と脆いわね」
彼女は、覚悟していたほどの苦労はしなかった、という驚きの表情と共に、少し硬めのせんべいを二つに割るような手軽さで、うつぶせの男の首を、斜め右後方に勢いよくひねり負った。
男は泡を吹くことはなかった。けれど、下半身から湯気立つ液が流れ出るのを見て、彼女は顔をしかめる。そうして、その液体が衣類に飛び散らないように、上半身を起こして、液体が完全に流れ出るのを待ってから、服装をはぎ取った。
彼らの素肌を見た時、やけに白いな、という感想が僕の意識に去来した。しかしふと考えてみれば前世の僕も似たような白さだった気もする。ずいぶんこの身体にも慣れてきたのだなと改めて思った。
そして彼女は周りを見渡してから、最初に殺した男の元に戻り、そいつの下半身を脱がした。こうして上下の装備を確保できたわけだ。
彼女は上下の兵装と、ガスマスク、掃除機のような枯葉剤の散布兵器をそれぞれ、最後に気絶して服をはぎ取られていない男を手本に着用する。
彼女(つまりは僕)の身の丈よりも、男らの丈は大きく、四肢がダボっとしてしまったが、袖口は内側に丸め込むことで対処した。全体的に服のサイズが大きく、子供が大人の服を着ているようなちぐはぐさがあったけれど、彼女は気にしない。
「村の服でなければ、森の暗がりにおいて、戦闘中など味方に紛れる敵を精査する余裕もないでょう」
まあ、もちろん近づきすぎれば、すぐにばれるだろう、とは彼女もわかっていることだ。
彼女は次のように思考した。
一先ず接近する前に見た目で気づかれることはないでしょう。先ほどは、あの4人、私が擬態していたのに感づいていた。となると、サンによる擬態を見破る術を持っているということになる。その術がどういうものかはわからないけれど、敵の服を着ることで、視覚、嗅覚、あるいは(ないとは思うけれど)着信機のようなもの(服に備え付けれられていれば)によって判断されていた場合を回避できる。
いまできる、ハッタリの最善ってことにしといて頂戴。
彼女はまだ生きている縛られた男をはたき起こし、敵の部隊がどこにいるのかを問いただした。嘘をついたら指の骨を折る。20回の労力を使う間もなくその男は求めているものを吐き出した。部隊の数も、罠の有無も。確実に嘘は言っていない、そして罠でない戦場の方向を聞いた。部隊の中の役職、官位なども男はぺらぺらとしゃべってくれたけど、隣国の階級制度など興味がないからよくわからなかった。
彼は尋問の合間合間に譫言のように、「俺たちは逃げてきた……俺たちは国の中で多数派になりつつある……なぜ俺はこの遠征に組み入れられたのか……あいつらとは宗派が違うんだ……誤解された……いや仕組まれた?……せっかくアンリコラブルの群れから逃れてきたのに……」と繰り返す。この男が譫妄質なのか、はたまた四人の総意となるような文句を垂れているのかは判然としない。
最後になぜこちらの擬態がばれたのか、彼女が聞きだしたところ、どうやらばらまいた枯葉剤の粒子を視覚化できる装置がゴーグルに付けられているらしい。それで煙が舞っていない地点を4人で手分けして監視していたら、僕の身体を動かす彼女がのこのこやってきたというわけだ。
彼女はふらふらと歩きだし、戦いの気配がする方へ、蛾が街灯を目指すように、誘われていく。彼女の去った地には、ただ4つの亡骸が横たわっていた。
僕は先ほど気絶した時から、意識浮上したあとも、少々現実感を失っていた。
彼女が運転する身体の助手席に座ったまま、まどろんでいた。
彼女が何気ない調子で人を殺したことに対して、ショックを受けるというより、グロテスクな映画を見て顔をしかめる程度の不快感しか催さなかった。
今は落ち着いている。彼女が殺人の動作を終え、意識を独占する手を緩めたせいだろう。現実感が増した。今の状態でようやく僕は殺人の衝撃を、遅ればせながら感じている。なぜあの時僕は彼女の行為に干渉できなかったのか、とその時現実感を失っていた自分を責めるのはたやすい。人は過去の失態をなじる時、『過去の失敗』というタグ付けをして、過ぎ去った未来にあたる『現在』の時点から、『過去』という一点を客観的に見て、『現在』の情報量と常識にあてはめて、あの時はこうすればよかったのに、と簡単に言ってのけてしまう。当時、自分の情報がどれほど制限されていて、『現在』の経験よりも少ない経験しかないことによる判断材料の不足を、考えることができない。もしくは見ないふりをしているのだ。
だから、というわけではないけれど、言い訳をさせてほしい。僕に人を殺すのを止めるのは無理だったのだ。
また別の観点でいえば、これは戦争のさなかである。敵は村を攻めてきている。僕は少なからず、村に存続してほしいと思う派だ。だから彼女の殺人を、僕は肯定せねばならない。
とはいえ、過ぎ去った過去において(仮にも)僕の身体が人を殺したことは、僕の身体の記憶に蓄積されてしまった。業が残る、などというつもりはない。別に生まれ変わって畜生に堕ちるのが怖いというわけでもない。すでに僕は人に生まれ変わらせてもらっている。わがままは言うまい(ただところてんへの文句は言い切れないほど持っている)。
ただ、ただ、僕が言いたいのは、生きていた物の温かさと、空気の抜けたゴムボールを潰すような鈍い感触を、人を殺したという異常なる認識と結びつけてしまった経験への後悔だ。そしてそれに対しての苦しみの予感である。この認識を生理的嫌悪と結びつける自身の常識への落胆も含まれることを明示しておく。
夢に出る。あるいは、これから生暖かくて、弾力があり、鈍く重い触感を得たときに僕は何度も殺人をリフレインしてしまうのではないかという恐怖だ(いや、そんなことはない? すぐに慣れる? 人間の学習は麻痺とイコールか?)。
首を手刀で突き刺した感触。ああ……指の第一関節、第二関節、と順番に、ぬるぬるしたなにかに沈み込んでいった一瞬。
首の骨を折った感触。ああ……意識のない人間の重い頭部を、車の方向転換のため重いハンドルを切る様に曲げたあの瞬間、木材よりも乾いていて砂糖菓子よりも繊維質な骨が砕ける振動。手に残る、命を終わらせたという感触は、罪悪感という先入観が作り出した悪魔のささやきなのだろうか。
殺すことを、肯定しておきながら、殺しにおける罪を、脊髄反射で神あるいは良心(もしかしたら両親)に詫びる、この似非平和主義者。
僕は、やはりというか、割り切れていないのだ。何度目の確認だろう。でも何度でも確認し、それを認めずにはいられない。認めて、言い訳がましく口に出して許しを請わずにはいられない。無言でいては、まるで自分を責め立てる意図を含んだ沈黙なのだと錯覚してしまうから。
この世界に来て、数週間が経った。しかしながら、倫理観は前世のままだし、はいそうですか、とアコンの村における聖樹への義務のため、村以外の人々を軽んじるようなことは出来るつもりはなかったのだ。
不思議と思い返されるのは、元彼女のことだった。
あれほど、居酒屋の友人のことばかり、白昼夢のように繰り返していたのに、殺人をなし崩し的に犯したことへの後悔の念が、彼女をフったこと、そして彼女に対していい加減な態度をとっていた自分への呵責を連想するように思い起こさせたのだった。
ああ、僕は本当に、かつて恋人がいたのか。いまそれを認めることになる……。
彼女のことを思えば、やはりというか、今『未来』に立った僕自身は『過去』の僕に対して、居酒屋の彼と意見を同じにする。彼女を捨てた、というには、フラれている事実から少し正確性に欠ける表現なのだけれど、でも、彼女の歩み寄りによる二人の和気あいあいとした関係性のきっかけを捨てたのは確かなのである。
わからない。彼女の方も、僕に好意があるうちは僕に対して何か悩んでくれたのだろうか。
でも、僕が『捨てた』と表現するうちは、僕が僕自身に非があると認める意識の表れだ。いや、正確に言えば、「自分を責めていますよ」というポーズをとることで、露悪的になることで、僕はそれ以上の追及を逃れようとしているのかもしれないことは否定できない。
それでも、僕に残る罪悪感の現れは、彼女とうまくいくという『理想』、その理想における彼女を大切にするという聖人君子な振る舞いをする自分の仮定の姿を惜しんでいるからである。
僕は結局のところ、彼女と付き合うのは、『彼女と付き合っている自分の振る舞い』に対して満足しているから、付き合っている。
彼女が好きなのは、彼女と付き合ううえで僕が彼女に対して良い振る舞いをしているという『自分の振る舞いへのうぬぼれ』ができるから。
彼女を通して、自己肯定される『僕自身の振る舞い』を喜び、自分の価値を噛みしめる。
そして、彼女と別れたのは、僕が『自分の振る舞い』に至らなさを抱き、彼女と会えば会うほどに、僕自身に不満を持ったからだった。
それを今、思い出す。異世界にいる僕が、前世とのつながりを本当に思い出して、僕が僕であることを認めるために。




