第10話 誠実なのっぽ
2/2分はこれまで。
日が大分上に上がって熱気が増し始めたころ。熱と湿気に汗がにじんできたころ。僕は欠乏感に襲われていた。
朝のメルセスさんの授業から一時間以上はたっただろうか。右腕と左腕に交互にサンを集めていただけなのだが、ルートビアを五本出した程度と同じ疲労が蓄積した。
「これって、腕に集めるだけなら効率的なんだろうな。アルミ缶を出した時は一瞬で体力が尽きたけど、一時間は練習ができたし」
腕に発現させていただけで、放出はしていないからだろう。もやもやが出ても、サンの集中を解いたら、腕を覆っていたほとんどのサンが体内に戻ったのか。そういうわけでおそらく、サンの体力が急激に消耗することはないとわかった。
「それでも、調子のったわ……」
体を引きずるように土手を上がり、日照りを避けるように、木陰を歩いて、聖樹に戻る。
倒れるように聖樹に手をついて、中に入り込む。
いつも不思議に思うけど、どういうサンの使い方がなされているんだろう。まだ僕はサンに精通していないのに、この聖樹は僕を認識して受容している。そうして内部に入れる。
空間を作るほどサンを能力に変換して現実に作用させる能力は、いったいどれほどのサンを使用するのだろうか。現在僕自身、サンを集めて能力を具現化させるのに、355mlのアルミ缶ジュース五本で限界だ。水で換算するならml=gだから、重さにして総計1,775g。一方聖樹がもつ空間を作り出す能力の質量を想定するのに、比較として大きな住宅の重さを100tだと仮定したら、1,775gで100,000,000gを割ればよい。結果、聖樹の扱う空間を具現化するのに、僕が5万6千人ほど必要になる。
途方もない規模だということはわかった。
村の平均を考えるとしたら、僕の扱えるサンの総量というのが、いったい村の中でどれくらい低いレベルにあたるのかわからない。総量ではなく技量のレベルではあったが、メルセスさんの評価ではこの村で50歳程度。これが100歳になり、成人レベルでどのくらい成長するのだろうか。そして、テスェドさんが1000年生きているという話だった。100歳から1000歳になるまでにはまたどれくらい成長するのだろうか。
うーん。概算しようにもまだわからないことが多すぎる。
「よお、お疲れだな」
考え事をしていたら、腐ったような目の男に話しかけられた。
「……どうも」
疲れているのとは関係なくどうしても警戒するような声音になってしまう。
「メルセスからお前が死に体で帰ってくるだろうと言われててな、寝どこまで担いで行けってお使いが出てるんだ」
「そうなんですか。ありがたいですけど、遠慮しておきます。自分で帰れますから……っ」
僕はおもわずよろけて、壁に手を突こうとする。
それを見越した彼は、屈んで僕の肩を支えた。
「……すみません」
「いい。あんまり気分がよくない杖だろうが、使ってくれないか」
「……お言葉に甘えます」
僕は恐る恐る彼に体重を預ける。彼は僕に気を使ってか、一歩一歩ゆったりとしたペースでエレベーターのところまで歩んでいった。僕は彼の歩みに従い、その揺れを味わっていた。
「お前、あまりサンの修行をしない方がいい」
唐突に男は僕に忠告を飛ばした。
「今日ははじめてだったんで、ペースがわからなくて根詰めちゃいましたよ。明日からは緩めます」
僕は苦笑いしながら言った。けれど彼は緩んだ空気を断ち切るように、僕の目を射抜くように、断言した。
「そうじゃない。もうサンを扱うな」
「……それは、どういう?」
「お前はサンの扱いを何のために練習する?」
質問に質問で返される。この男はいったい何を言いたいのか。
「僕は……テスェドさんたちに頼まれたので。せっかく滞在させてもらってますし、頼み事であれば答えるべきかなと」
本当はところてんが残した置き土産を解除する手掛かりのためだ。女体化の秘密を解くため。でもこれは話が込み入り過ぎていて、この人にうまく説明できない。だから、今日のテスェドさんとの会話の流れを思い返しながら告げた。
「テスェドを信じるな」
「はあ?」
「あいつは人を平気で裏切る男だ」
「あの、テスェドさんのこと嫌いなんですか」
「違う。事実を言っているだけだ」
「事実って何ですか?」
「お前が知らなくていいことだ」
「はあ? 何もわからないんですけど」
「わからないままでいい、お前はこの村から出ていけ」
なんなんだ、なぜ村から追い出そうとする。テスェドさんやメルセスさんが優しいから、忘れていた。けれど、そういえばこの村の多くの人は僕から距離を取り続けている。この男もいやいや僕に話しかけているのだろうか。初対面の時メルセスさんを呼んだのも、本当は僕と話したくないからか。そうであれば、もしかするとメルセスさんも、ひいてはテスェドさんも嫌々……。
「……てください」
「なに?」
「放してくださいって言いました!」
僕は彼を突き飛ばすように、エレベーターから突き落とした。別にこのおっさんを殺そうというわけではない。ちょうどいつも彼と出会う階層を超えて上昇しそうだった所だ。彼をいつもいる場所に返してやっただけ。
「テスェドさんは身寄りのない僕をここに滞在させてくれているんです! 恩人を裏切者扱いするな!」
僕の叫びは虚空に消えた。僕は胸が締め付けられる思いがしていた。もしかすると、テスェドさんもメルセスさんも僕のことを敵視しているのではないかと。孫宣言をしたテスェドさんがそんなことをしないのはわかっている。感覚派で、回りくどいことをしないメルセスさんもそんなことをしないし、嫌ならいやとはっきり告げるだろうともわかっているのだ。でも、こうも面と向かって邪魔者扱いされると、少し……堪える。
僕はツタの陰になっている下の方を見やった。悲しみに目が霞んでよく見えなかった。男はもしかしたら上昇する僕を見上げているかもしれないし、すでに突き落とされたことに腹を立てて、部屋に帰っているかもしない。
僕は、この名も知らない腐った目の男を、初めから気に食わなかった。なぜだろうか。いらいらした。彼は別に僕に悪いことをしたわけではない。メルセスさんを紹介してくれたのはありがたいことだったかもしれない。でも、そのメルセスさんも悪く言わないテスェドさんのことをなぜそんな悪しざまに言えるのか。何を警告しようとしているのかわからない。
意味が、分からなかった。
麻の布団に包まる。少しだけ眠りに落ちていた。木台にはナンと緑のスープと芋がペーストされたものが置いてあった。そばに木の枝が転がっている。おそらくテスェドさんからだろう。いつの間にか来ていたらしい。
テスェドさんは相変わらず気配りが細かい。
僕は食べようかと思ったけれど、気だるさと鬱屈な心情から、横になるのを優先した。天井は、木の筋がよく見える板張りになっており、木の匂いが鼻をくすぐる。
ああ、なんだかやることが多くて、気にしないといけないことも多くて、やる気が失せる。
僕はなぜこれほど落ち込んでいるんだろう。
嫌なことを言われたから。
あの目の腐った男のことは、最初から嫌っていた。
嫌いな奴から嫌なことを言われてそれほど落ち込むか。
僕はこの世界に来て、初めて対立したからか。人のやさしさに慣れ過ぎていた。どこかで僕は甘えていたのかもしれない。甘えていたというか、日本では僕は嫌いな相手を避けていた。嫌な奴は関わらなければよかった。それが大学の生活だった。
しかし、ここに来て、あの男とは少なからず顔を合わせる。あいつは何をしているかわからないが、聖樹のとある階層で門番のように入り口付近で何らかの仕事をしている。僕は彼の前を通らないと外に行けない。彼の言う通りここを出ていけば、彼とも顔をあわせず済むだろうけど、僕はここを出たところで行く当てもなく、テスェドさんの好意を振り払ってまで出ていきたいとも思わない
いや、言い訳は良そう。居心地がいいのだ。テスェドさんとメルセスさんとの心の触れ合いが、なんだかすごく居心地がいい。
その居心地の良い、理想的な生活に、目の腐った男というケチが付くのが嫌なのだ。僕の都合のいい理想に、欠点が付くことが、どうにも気に入らない。
なんてわがままな理由だろう。
たとえ嫌っている相手だろうと、自分の都合だけで相手をいなくなればいいと願うのは、気が引ける。ここで気が引けてしまうのは、甘いのだろうか。自分のために相手を蹴落とすという行為に、たとえ心の中で思うだけでも、抵抗感があるというのは、我ながらいい子ちゃんすぎる。
ああ、でも、自分の癖はいかんともしがたい。
「このまま考えてても、なにも解決しないや」
なんとなく、うんざりした気分に穴をあける方法は、寝室に眠ってはいないと思った。
僕は気持ちと空気の入れ替えに、エレベーターに向かう。
下に行くと、男と顔を合わせる可能性があるから、僕は上へ向かった。
上へ、上へ。ひたすらに上る。このツタのエレベーターは、安全綱はない。通ってきた吹き抜けを見通して、下を見るとはるか高みにいることがわかり、足がすくみ上る。
と。エレベーターの頂点にたどり着いた。
頂点は手狭で、背の低い屋根裏小屋のような空間だった。
木箱が詰まれている。木箱の存在が小さい部屋をさらに小さくしていた。何の木箱だろう。中身を見ると魚の干物や調味料、そのほか細々としたものがたくさん入っていた。ただの倉庫だ、ここ。
その木箱の陰に回ると何やら潜れそうな穴があった。
穴があったら入りたい心情で、そこに引かれてすっぽり入った。すっぽりといってもはまることなく通り抜けることは出来たけれど。
「お~」
穴の向こうは、聖樹の外側だった。天辺付近だ。
村が一望でき、そしてビレアの森を上から見通すことができた風景は絶景だった。
風にあおられる。聖樹が揺らめいている。
聖樹の頂点は、緑は茂っておらず、無数の細い木々が編まれた髪の毛のように縦横無尽に伸び、互いに支え合って、禿げた大木を構成している。この禿げた木はまだ見ぬ天井に向けて指を伸ばしている。
聖樹の葉は、全長の8割ほどの高さで一番茂っている。周囲に枝を伸ばし、その細い枝たちを覆うように緑があふれていた。
僕がいる場所は8割の場所よりも高い。眼下にその青々とした広がりを見ているのだ。
真下を緑に埋め尽くされ、視界が遮られているため、今立っている場所の高さに実感がわかず、それほど恐怖は感じなかった。
ただただ風が気持ちいい。
「あの、村の外から来た方ですよね」
僕が青空の下でボーっとしていると、声がかけられた。
「え、っとどなたですか?」
あ、すみません、と声がする。
「この小さな穴から外に出られないので、声だけで失礼します。ジャコポと申します」
ジャコポと名乗った男は声がのぶとく、穴に入れないのがさも当然のような、巨体を想像させる声の性質をしていた。
「この屋根裏部屋に来たら、あなたが穴の外に出ていくのが見えたので、ちょっと声を掛けさせてもらいました。お話しませんか」
「ああ、そうなんですね。ちょっと待っててください。僕も室内に戻りますから」
僕は出てきた穴に向かって、立ち戻る。
穴を潜ろうと腰をかがめたとき、ふと疑問に思った。
この聖樹の中身っていうのは、聖樹の能力で作り出された異空間であり、外側とは物理的にはつながっていないんじゃないのでは? そして、一階よりも上の階層から出入りするものは、侵入者として認定されてしまうのではなかったか。
僕は不安になりながら、足早に穴を潜った。
結果として、穴を潜った僕は侵入者としてなにか排除されそうな動きもなかった。外界とつながっていないのではと思ったけれど、何事もなく中に入ってこられた。聖樹の外から中に入る時、一階で通る際にある擦り抜ける感覚が、今回は全くなかった。
疑問に思いながら、とりあえず、ジャコポさんと顔を合わせることにする。
木箱の裏から部屋の内側に回ると、そこには大きな男が立っていた。
大きな巨体にゆるりと着流した衣類が、まるで垂れ幕のように僕の眼前を遮っていた。ちらりと見える腕には角材をひし形に成形したようなリングが見える。
「どうも、初めまして」
「こちらこそ初めまして」
どうだろう、僕と並ぶと、僕の二倍くらいの背丈があるような気がする。僕って身長が縮んだんだろうか……。
「大きいですね」
純粋に見上げるだけで首が痛い。
「あはは、よく言われますよ。あなたはちっちゃいですね」
「ちっちゃくないよ!」
あれ、なんかすごい聞いたことのあるフレーズを言った気がするぞ。
「あはは、気にしてたらごめんなさい」
「気にしてないよ!」
なんだこいつ嫌味か!
「むむー。すみません思ったことをすぐ口に出してしまう質でして」
「まあ、いいですよ。僕は糸田祐樹といいます。交通事故で死んだと思ったら、急にこのジャングルにいて、動物に襲われたところを、たぶんサンに強化された大きな植物に助けてもらたんです。そうしてこの村まで送ってもらった者です」
僕にできる最大の自己紹介をする。
「はあ、交通事故。サンに強化された大きな植物」
ジャコポさんは何やらうなりながら頭をさする。
「聞いたことあるんですか?」
「いえ、交通事故という単語は、村を抜け出して町で遊んできた友人から聞いた言葉だなあ、と思いまして。サンに強化された大きな植物というのが、どんな植物化はわかりませんが、聖樹を信仰するアコンの宗教では、サンによって動けるようになった植物は、聖草として聖樹の御使いだと信じられているんですよ」
「えと、聖樹って信仰の対象だったんですか?」
「え? 知らなかったんですか? いや、まあこちらにいらっしゃって数日ですもんね」
「そうですね。この村の宗教については全然聞いたことが無いです」
そういえば、テスェドさんが、似たようなことをいっていたような気もする。でも聖樹が信仰の対象とまでは明言してなかったからなあ。
宗教とは無縁の身だったけれど、実際に世の中には信じる神がいて、それを頼りに生きる人も大勢いるのだ。僕が知らないだけで、宗教があることは、異世界だろうが不思議なことではないだろう。
「では、すこしだけ説明しましょうか?」
「ぜひ!」
といったら彼は、人に説明するのがうれしいのか眉がぴくぴく動いていた。
「このアコンの村は、聖樹を中心に広がっています。それはさきほど聖樹の頂点から見渡した景色でもわかると思います」
「そうですね。ジャコポさんは大きくて通り抜けられないのに外の景色わかるんですか?」
「はい、五十年くらい前はまだ通れるくらいの大きさでしたから」
「へえ。五十年でどのくらい伸びたんですか?」
「どのくらいって言われると説明しづらいですが、たぶん今の私とあなたの中間くらいの大きさですかね」
五十年間で僕0.5人分の身長が伸びている。彼はあと100年もしたら僕三人分の大きさになるのかな。
「話を戻しますね」
彼の眉の動きはキレが悪くなっていた。不満だったのかもしれない。
すみません!
「地形の他にも、アコンの民が聖樹を生活の中心に見ている点があります。それはサンです。ここにすまうアコンの民は、サンを日常の一部として使います。私もその一人ですから」
「ジャコポさんの、サンの能力はどのようなものなんですか」
「教えてもいいですけど、あなたのも見せていただければ嬉しいですね」
「じゃあ一斉に見せ合いましょうか」
「え? 一斉に見せられるものなんですか?」
「僕のは見せられる類のものですけれど」
「ああ、すみません、わたしのはちょっとややこしくて、見せにくいんですよ。ちょっと待ってもらえれば説明しながら実演できるんですけど」
と言って、彼はもじもじと指をこすり合わせる。
「えっと、なにか恥ずかしいことでもあるんですか? 能力に関して」
「いえ、しょぼい能力だと揶揄われたことがありましてね。あまり自信が無いのですよ」
「えーと、そうなら、僕の方が先にお見せしますよ。すごいしょぼいので」
努めて口角をあげて言った。彼の持つ能力がたとえ塩を砂糖に変える能力であろうと、
僕のルートビアを一日に五本程度しか出せない能力と比べたら、どっこいどっこいか、使い方によってはましだと思う。そんな卑屈な自信を持つ僕だった。
「ほい」
掌にアルミ缶が出た。朝の疲れは大分ましになっていた。あと二本ほど出せる余裕はある。
「お、おお! 何ですかこの茶色い円柱!」
「あはは、茶色い円柱ですか」
僕は彼にアルミ缶を持たせて、プルタブを開けさせる。カシュっと音がして、わずかに水しぶきがとんだ。ジャコポさんは目を細め、飲み口から立ち上る湿布のような薬品臭を嗅いだ。
「あー、人によっては嫌いだっていうにおいらしいんですけどね。これまで僕の知り合いの多くも飲めない、って言ってました。無理に飲もうとしなくとも……」
「おいしいですね!これ!」
ジャコポさんは、その巨体から見たらちっぽけな355ml缶を一口で飲み干してしまった。彼の目は輝いている。まるで水を得た魚だった。僕に気を使っている風には見えず、こころのそこからそれが好きだということがわかる。
「お? おおおおお! 友よ!」
「しょぼいなんて、大ウソじゃないですか! こんなにいい飲み物を毎日好きなだけ飲めるなら、大歓迎の能力ですよ! うらやましいなあ」
彼は上下に飛び跳ねながら、喜びを全体で表現する。
そんなに興奮するなんて思いもしなかった。今までルートビアをお勧めして苦い顔をされた人数分の反動が彼に現れているのかもとなんとなく思っていた。
「もう一本!」
「はいよ」
僕は二本出して、彼と乾杯する。乾杯という文化は無いのかもしれなかったけど、プルタブを開けた缶を彼の持っている缶に向けて差し出してみると、彼は特に迷うこともなく。アルミ缶をぶつけ返してくれた。そんな些細な意志疎通の一つ一つが、彼と何らかの運命を感じさせていて、僕はひどく感激した。
……。
二人で飲みながら、味と匂いの感想を言い合う。
「他の奴にはこれの良さがわからないんだよ! こっちも気に入ってもらえるかわからないのはさ、承知の上なんだけどよ、何度も『いや、無理』って言われる気をわかってくれよ」
「わかるさ! 私も私にしか通じない趣味というのはある。みんな私のことをでかいだけのでくの坊とか言いやがって、図体の癖になよなよした趣味だなんだって」
「今度はジャコポの趣味を教えてくれよ! 僕のソウルドリンクを受け入れてくれたんだ、僕だってお前の魂の趣味を体験したい」
「そうかそうか……!」
僕と彼は互いに愚痴を言い合って、意気投合していた。僕はもう彼のことを他人と思えなかった。それほど、僕は理解してくれる同好の士を求めて飢えていたのかもしれない。
彼は持っていた缶を床においた。僕もつられて缶をわきにどけておく。
「すこし、目を瞑ってくれないか。趣味の前に私の能力を説明する」
「おう、目を瞑ればいいんだな」
といって、僕は言われたとおりにする。その場で瞼を下ろし、僕の視界は真っ暗になった。
「今から僕のいる位置を当ててほしいんだ。僕が黙って君の周りをグルグル回る。君がストップと言ったら、僕はその場に止まるから気配とかで僕の位置を指さしてほしい」
「なんかゲームみたいだな」
僕はわかったといい、彼に始めてくれ、とも言った。
「じゃあ、歩くよ」
彼は一歩一歩あるきだした。ぎしぎしと、わずかに木の床がこすれる音がする。
彼は大きな巨体だから、重さもそれなりにあるのだろう。踏みしめた靴と床はこすれ合い、僕はその音から彼の行方を当てることなんて造作もないと思った。思っていた。
「え……」
僕の真っ暗な視界から、木のこすれる音が、一歩一歩の軋みが、消えた。
彼は僕がストップというまで止まらないはずだ。なのに、音が聞こえない。僕を試しているんだろうか。僕は最後に彼の足音が聞こえた方向を向き、問うた。
「おい、騙そうって言ったってそうはいかないぞ。そこにいるだろう」
「はあ、ストップって言うまで止まらないって言っただろ」
その声は僕の背後から聞こえた。
「うわ」
思わず目を開けて振り向いた。巨体が僕を見下ろしていた。
僕は自分が尻もちをついていることに気づいた。
「まあ、いいやそんなに驚いてくれたみたいだしね」
と彼は僕に手を差し伸べる。僕は彼の手を握って立ち上がった。
「ありがとよ。それにしてもすごいな! 気配を消す能力なんて! かっこいいな!」
「お、おう……」
彼はなぜか顔を赤くしていた。彼は咳払いをして、
「んん! まあ、そんなに大した能力じゃない。むしろしょぼいくらい。私の能力は、わたしから発せられる音を消す、という能力だ」
彼は、少し誇らしげに、それでいて、大したことないだろう?と言いたげに方眉を挙げておどけるように言った。
「いや、すごいよ。音が聞こえなくなるなんて、暗殺者みたいだな。それとも敵地に忍び込むかっこいいスパイになれそうだな」
「はは、私に際立った身体能力があればね。私は図体ばかりでかくなって動きも遅い。音が出なくなっても、いい的なんだよなあ」
「えーでも、音が他人に聞こえなくなるんだろう? それってジャコポ以外の人の音も消すことは出来る?」
「いや、無理だ。私だけだ」
「あー、それは残念だな。僕の声も周りから消せたら、僕とジャコポで内緒話し放題だったし、人前でアイコンタクトだけで通じ合う凄腕のコンビみたいなかっこいい振りができたのに」
「あはは、たのしそうだな。なあ、なんかこの能力のいい使い方思いつくか?」
「え、自分の能力だから、僕なんかが考えても、すでにジャコポは考え済みなんじゃないのか?」
「それがな、私はそれほどアイデアが豊かじゃなくてな。この能力も私の唯一の趣味にしか使っていないんだ」
「唯一の趣味ってのは?」
「音を消して、棒立ちすると、小鳥たちが木々だと思ってとまりに来るんだ。彼らのさえずりを聞くことだ。」
「すごいなぁ。ことりと戯れることか。それってジャコポにしかできないことなんじゃないか」
「……」
お、おい、どうしたんだ? 急に黙り込んだぞ。
「どうした? 大丈夫か」
「い、いや、素直に褒められるなんて思っていなくて。大体私みたいな大男で、それなのに戦うことを嫌うものは、ここでは役立たずあつかいだからなあ」
「そっか」
アコンの村では戦いがそれほどまでに重要なことなのだろうか。聖樹が信仰されているとか、戦いの価値観とか、ジャコポとの会話で多くのことを知ることになった。それは彼の主観に過ぎないのかもしれないが、一人の男が感じている現実として、厳然たる事実がここに存在した。アコンの村の一側面として。
「こんど小鳥が止まっているところを見せてくれよ。僕も一緒に観察してみたい。あ、できればジャコポが僕の音を消せるくらい能力を強化してくれると嬉しい」
「能力の強化なんてできるか知れないけど、やってみようか。いままでも僕が戦えないから、他人の音を消すことは挑戦させられたんだけど、ぜんぜん身につかなくて。みんなに呆れられて、私は戦うことをあきらめたんだ」
「そっか。あきらめてもジャコポはジャコポだ。僕は今の君に会えてよかったよ」
彼は彼なりに悩みがあったらしい。彼はいろいろな過去の話を聞かせてくれた。とぎれとぎれで、僕のなじみの薄い文化の話に、理解が追い付くところも多くなかったけれど、彼の苦悩が大いに伝わってくる話だった。
僕には想像のつかない話だ。会話の断片から推測すれば、彼は戦うことを期待して育った。これほどの巨体だ。力も強かったんだろう。でも、彼は戦うセンスや覚悟がなかった。訓練をいくらしても伸びない成績、身のこなしの柔軟さ。村に住む他の奴らが戦という名誉ある分野に秀でていく中で、自分だけ陰の雑務に身をやつしていた。
「あきらめてよかったと、今では思うよ。私は一時期、みんなと一緒でなくちゃと思って努力したこともあった。でもからきしだめだ」
彼は滔滔と語り、一点を見つめていた。
「ダメなことを私には不可能なことだ、と割り切ったら生きやすくなった。戦えずに雑務しかできない僕に、周囲はヤジを飛ばすこともあるけど、気にならなくなった。あいつらはあいつらができることをしている。私は私しかできないことをしているだけだってね」
「大人だなあ」
「ひねくれただけだよ」
彼は僕の人生より長いこと生きている。それだけに経験が多いように聞こえた。決していいことだらけではなかったその過去にも、今の彼を構成する糧は存在した。
彼は、床に置いておいたルートビアの缶をつかんで、最後の一滴まで飲み干そうと、缶の尻を叩いて、一滴残らず口の中に放り込んだ。
「はあ、いいものごちそうしてもらったよ」
「お粗末様です。僕の故郷で飲んでいた物なんだ」
「へえ、そりゃいいもんだ」
僕は彼の気の抜けた笑顔を見て、ふと思い立った。
「君の能力の使い方はまだ思いつかなかったんだけどさ、ごめん。でも、君と一緒にサンについて修行がしていたくなった。実は僕もサンの使い方に悩んでいるんだ」
どうだい、お互いに指摘し合えば、もしかしたら何か前進するかもしれないよ。
「それはいいね。ぜひともやろう。今すぐにでも」
「じゃあ決まりだ」
彼と一緒に、僕はエレベーターに乗って、聖樹の外に向かった。