Side 航
「それで、記憶喪失って?」
百合が納得したような区切りでお義母さんが改めて聞いてくる。
「はい。貧血で倒れた時にこけたみたいですが外傷はなく、脳や身体に異常はないみたいです。まだ少ししか彼女と話ができていないのですが、おそらく二十四歳になる一月から記憶がないようで」
「二十四って・・七年も前じゃないの。どうして?」
「わからないです。彼女が目覚めた時、僕は単なる上司として「課長」と呼ばれました。「独身なのに」とも話していたので僕と付き合う前で、一緒に働いていた頃の口ぶりでした。医師はそこから、今日までの記憶がないといっていました」
「七年間の記憶がないってこと?」
お義母さんはオロオロしながらも冷静に俺に問いかける。
「はい。医師によるとその抜けた記憶のことを忘れたいのではないかと」
「忘れたいって・・・」
「それか、よほどこの抜けた記憶の期間が彼女にとってストレスだったのか」
「ストレス・・・」
「僕はどうしたらいいんでしょうか・・・」
俺は涙がこぼれないように、お義母さんに笑顔で話したのにお義母さんは俺の頬をゆっくり撫でて頭を撫でた。
「航さん。無理に笑わなくていいわよ。今は」
「あれ、おかしいですね。泣かないように笑ったのに」
俺はそういって、お義母さんに少し甘えながらも茶化した。そうでないと百合の前なのに泣いて叫びたかったから。
どうして。彼女はどうして七年の記憶を忘れたかったのだろうか。
娘の百合がいて、今、彼女のお腹には三カ月に入った新しい命を宿しているのに。
「家庭をつくる」という「結婚生活」そのものが絵に描いたように幸せで順調だったはずなのに、その七年間を花純は忘れたかったということなのだろうか。
彼女の病室がある廊下に着いた。そういえば、七年間を忘れているということは娘である百合のことももちろん忘れているはずだ。百合を連れて病室を訪れたら誰だろうと思うだろうし、百合もまた、母親に忘れられたということで傷つくだろう。大人の俺でさえ傷ついたのだ。子供、とくに絶対的存在の母親に忘れられるなんて百合の心情を考えただけでも泣けてくる。百合にはまだ会わせられない。
どうにか引き留めようとすると
「ママー」
よほど恋しかったのか、彼女の病室まで百合は一人で駆け出してしまった。
「あ、百合!」
百合はもう漢字が読めるので、病室の入口に記入されているネームプレートも読めることだろう。案の定、彼女の病室を瞬に読み取ってノックもせずにガラリとドアを開け放った。
俺とお義母さんも百合の後を追って走り出した。病院で走ってはいけないが、緊急事態だ。
時すでに遅しで、百合は病室に入ってしまっていた。百合は立ち尽くしていた。幸か不幸か花純はベッドに俯せになって倒れ込んでいた。
「花純!!」
花純の腕からは血がポタリ、ポタリと滴り落ち白いシーツを赤く染めていた。
染まり具合からあまり時間は経ってないと思われるが、急いでナースコールを押す。すぐに看護師がドタバタ走って駆け付けて対処してくれたので大事には至らなかった。でも花純が起きていないことは俺としては幸だった。百合を見て「誰?」と言われたらたまらない。
「百合。ママは当分起きないと思うから一旦おばあちゃん家に帰ろう」
俺はお義母さんに目配せしながら、百合の肩に手を置き、優しく誘導した。
「嫌!今日は私、ママと一緒に寝るの」
「ダメだよ。病室で一緒に寝ることはできない」
「嫌!」
「病院の方針なんだ。ごめんな。パパが送っていくから」
渋々だが、百合はふてくされながらも俺のいうことを聞いてくれた。俺はお義母さんと百合を車で送り届けた。
「じゃあパパは、ママに着替えやら病院へもっていくから戻るな。おばあちゃん家でいい子にしてるんだよ」
「いってらっしゃい、パパ。ママによろしくね」
百合は笑顔で俺を見送ってくれた。五歳になる娘が大人びて見えた。きっと百合も不安で花純と一緒に寝たいだろうに。
「航さん、申し訳ないけど花純をよろしくね」
「はい。花純さんのことはまかせてください。こちらこそ申し訳ないのですが百合をよろしくお願いします」
お辞儀をして、俺は車に戻って運転席に座る。エンジンをかけようと思ったが、シーンと静まり返った真っ暗な車内で一息はいた。
「はぁ・・・今日はハードな一日だった」
そう独り言をはくと、カーシートを少し後ろに倒して目を瞑る。
「どうしたらいいのだろう」
そう呟いた声は、車内の薄暗く籠った空気に消えていった。
早く病院に戻って花純の様子を見たいが、彼女に会いたいが会いたくない自分がいた。




