Section3.登校
新藤は電車に揺られながら、笹浦との出来事を思い返していた。
学校恐怖症か……
最近まで笹浦が学校に来なかった理由は、体調不良が原因だと思っていた。だが、自己紹介の時のことをあそこまで気にしているとは思っていなかった。
俺も小学生のときに学校に行きたくない時期はあった。だが、笹浦のように学校に行けなくなるほど重症ではなかった。そもそも学校に行けないというのは、ある種のトラウマみたいなものなのだろうか。会話している分には普通に話していたようだが。どうせ、些細なことだろう。一度一緒に学校に行けば、一人でも行けるようになるはずだ。プリントを配り続けて五百円をもらい続けようと思っていたが、こうなっては仕方ない。五千円で我慢しよう。
乗車していた電車が終点に着いた。新藤は電車を降り改札を抜け外に出た。西の空は群青色から朱色のグラデーションになっていた。帰路の途中にある公園の排水溝には、褐色になった桜の花びらが詰まっている。
新藤は下を向いて歩く。
新藤がそうこう考えていると、こぢんまりとした二階建ての一軒家に着いた。
やはり笹浦の家に比べると見劣りする家だ。
新藤は玄関の扉を開けて無言で家の中に入った。リビングでは義父がテレビを見て笑って、キッチンでは母親が料理をしていた。
母親は息子が帰ってきたのに気づいた。
「おかえり、遅かったね。なんか疲れてそうだけど大丈夫」と母親が尋ねる。
「うん、ちょっと寝てから食べる」と生返事で返えした。
そのままリビングを通って二階に上がり自分の部屋に入る。
いつもなら十五時五十分の電車に乗り、十七時二十分に自分の住んでいる最寄り駅に着く。そこから十分かからないぐらいで家に到着するはずが、いつもより一時間遅れて家に帰ってきた。笹浦への訪問時間が三十分だとしても電車の兼ね合いで一時間も遅れてしまう。なぜ部活動もしていない帰宅部の学生がこんな時間に帰宅しているのだろうか……
新藤は第一ボタンの取れかかっている制服をハンガーにかけ、部屋着に着替えた。そしてそのまま、ベッドにうつ伏せになった。
今日は色々なことが起きたせいで、いつも以上に疲労した。まあ、主な原因は笹浦だろうが。しかし、電車で一時間三十分ずっと座っているのもなかなかの苦痛だ。それにちょうど社会人や学生などの帰宅時間と被っていたから、普段乗っている電車より人が多かった。通勤でもそうだったが、未だに人が密集している所に長くいると息苦しくなってしまう……
新藤は重たい瞼を閉じた。
明日は笹浦の家まで行って、笹浦を迎えに行かなければならない。面倒だが金のためだ仕方ない。笹浦を学校に通えるようにすれば、五千円が手に入る。小島先生は本当にお金をくれるのだろうか。口頭での契約だったから何の証拠もない。だが、小島先生は義理堅そうな先生だから、きっと約束したことは守ってくれるだろう。もし貰えなかったら、そのときはそのときで……
そのまま新藤は静かに眠りに着いた。
*
四月二十三日金曜日。
スマートフォンのアラームが鳴り響いた。
新藤はスマートフォンのアラームを止めて、ベッドから起き上がって準備を始めた。
俺の最近の朝食はパンにマヨネーズを塗ってコショウをかけてオーブントースターで焼いたものだ。それに加えて身長を伸ばすために牛乳を一杯飲んでいる。
世の中には身長の高さでマウントを取ってくる野郎がいる。だから、まずは日本人男性の平均身長である百七十センチメートルを超えなければならない。四月に測定した時点での身長は百六十八センチメートルだが、一昨年と去年は一センチずつ伸びているから、順調にいけば三年生には百七十センチメートルを上回っているはずだ。
新藤はコップに牛乳をなみなみに注いで一気に飲み干した。
*
新藤は電車に乗って、入り口付近の座席に座った。
朝が早いためいつも電車に乗ってすぐは放心状態だ。何か忘れているような気がする……
今日の授業の教科書やノートは揃っているはずだ。今日は体育の授業がないから体操着もいらない。
電車が次の駅で止まり、ふと新藤は顔を上げると同じ学校の女子生徒が乗車してきた。
思い出した。この後、笹浦を迎えに行って一緒に学校へ行かなければならない。もしかしたら、忘れていた方がましだったかもしれない。あの我儘な女と一緒に登校しなければならないのだから。
いつもより少し登校時間が遅れてしまうが、今回一度限りだ。寛容な気持ちで迎えに行ってあげよう。
——————駅に着いた。
新藤は電車を降りて改札口を抜けた。
いつもならここで左の東口から学校に向かうが、今日は笹浦を一旦迎えに行くため右の西口に出る。
笹浦の家はたしかこの道を真っすぐだったはずだ。
しばらく歩いていると笹浦の家の前で、蒲月高校の制服を着た女子生徒が周りをキョロキョロしながら、立っているのが遠目で見えた。こちらに気がつくと、笹浦の敷地内に入って顔だけチラチラ覗かせている。
不審者かストーカーだと思って、恐る恐る近づいてみると、ただだの笹浦だった。
笹浦は家に向かってくる人が新藤だと分かると、物陰から出てきた。
こいつは野良ネコか何かなのだろうか。
「そんなところで隠れて、周りキョロキョロしながら何しているんだ?」
「別に何でもないわよ。それより来るのが遅い! どこで道草食っていたのよ。私はここで三十分も待っていたんだから」
「家の中で待っていれば、インターホンを鳴らして迎えに来たのに」
「親には一人で行くって言ってあるから、知られたくないのよ」
この女は二十日間以上も不登校になっておいて、プライドだけは一人前だ。
「早く行くわよ」
笹浦は肩で風を切りながら新藤の前を歩いた。それに続いて新藤は歩いた。
こうやって後ろから見ていると、ごく普通の女の子に見えるんだけどなあ。どうしてあの優しそうな母親からこんな凶暴な子供が生まれたのだろうか。きっと母親が甘やかしすぎて、我儘に育ってしまったパターンだな。
駅から学校へと向かう蒲月高校の生徒が見えてくると、笹浦の歩くペースが遅くなっていった。
「大丈夫か。具合悪そうだけど」
「だ、だ、ダイジョウブ……」
そんなグッジョブみたいなノリで言われても、全然大丈夫じゃなさそうなんだが。さっきまでの威勢はどこにいったのか。
とうとう、笹浦は新藤の後ろに隠れるように歩くようになった。
登校する生徒の集団の流れに入ろうとしたときに、後ろから制服の裾を引っ張られた。振り返って見ると、もじもじして何か言いたげな笹浦だった。
「急にどうした? トイレか?」
「違う…… ここ以外に学校に入れる道は無いの?」と笹浦は覇気のない声で言う。
「探したことないから分からないけど。もうあと五分しかないから、遠回りしているとホームルーム始まっちゃうぞ」
新藤が通りに同じ生徒が少なくなったのを見計らって流れに入った。笹浦は新藤を盾にするように真後ろに張り付いた。
「あの笹浦さん、何で俺の真後ろを歩くのですか?」
「いいから、そのまま歩いて」と笹浦は震えた声で言う。
まるで小学生の集団登校のようだ。
「もうすぐで学校に着くぞ」
「ちょっと待って、今日はここまでにしない? たぶん家に教科書を忘れた気がするから」
「たぶんって、それぐらい隣のクラスから借りればいいだろ」
「それはちょっと私には難易度が高すぎる」
「俺が代わりに借りてやるから大丈夫だよ」
「あとお腹の調子も悪い気がする」
こいつはただ学校に行かない理由を探しているだけだな。
「そんなこと言っていたら、いつまで経っても学校に行けないぞ」
そうこうしている内に学校の門の前まで来た。
「行くぞ」
笹浦は沈黙して、息を呑んで門をくぐった。
時折、生徒が通り過ぎる度に笹浦は顔を背けるようにして歩いていた。
誰も笹浦のことなんか気にしていないのに、何故そこまでして他人を注意しているのだろうか。
笹浦は下駄箱で靴を素早く取り換えるとすぐに、新藤を盾にして人目を防いだ。
「なんかすごく見られてる気がする」
「それはお前が俺の後ろに立っているからだろ。お前みたいな不審者がいたら誰でも見るわ」
一年A組の教室に着くと同時にホームルームの開始のチャイムが鳴った。廊下にいた生徒は教室に入っていく。教室にはクラスメイトが各々の座席に座っていた。
「やっとここまで来れたな。それじゃあ入るぞ」
笹浦は教室の扉の窓を覗いた。
「ちょっと待って! やっぱりムリ!」
「あと教室に入るだけだぞ」
「やばい心臓がドキドキして、今にもはち切れそう」
まるでこれからピアノの発表会かスピーチをするのか、というぐらい笹浦は赤面して緊張している。
「何でそんなに緊張しているんだ。教室に入るだけだぞ」
「新藤さん、お願いします。今日だけは許して下さい」
笹浦は新藤の制服の裾を強く掴んで、涙目になりながら上目遣いで懇願する。
まるでこれからお漏らしをしてしまいそうな表情だ。
「わかった。教室の前まで来られただけでも十分だ。それじゃあ、また明日な」
昇降口へと向かう笹浦の背中は、どこか悲壮感が漂っていた。
担任の小島がやって来るのを見て、急いで新藤は教室に入った。
恒崎に軽く挨拶をして、自分の席に座った。
自分から学校に行かせろと豪語していたくせに、あそこまで人見知りだとは思はなかった。というか人見知りの度を越している。入学式の日は普通に学校に来て教室に入れていたのに、そんなに自己紹介での出来事がショックだったというのか。この調子だと笹浦が一人で学校に通えるようになるのは、相当時間が掛かりそうだ。