Section2.学校恐怖症
五限目の古典の授業中、俺は昼休みの時間に先生に頼まれたことについて、板書を写しながらずっと考えていた。小島はなぜあそこまでして、笹浦を学校に通わせようとしているのだろうか……
小島は人情深い教師ではあるが、不登校者にまで気に掛けて何のメリットがあるのだろうか。給料が上がる訳でもないのに。むしろ俺にお金を渡してまでして。全く理解できない。
「じゃあ新藤さん、もう一度ここの現代語訳お願いします」
上の空だった新藤は急に質問を振られた。
「あ、えっと……」
「もう少し注意して聴いてくださいね」
授業中に初めて注意されてしまった。こんな社会で役に立たない事で、怒られてしまうなんて納得がいかない。たとえ俺がこの授業に集中せずに聞いていたとして、先生に何のデメリットがあるのだろうか。先生という生き物は他人に干渉し過ぎだと思う。
新藤が心の中で不貞腐れている内に五時限目の終了のチャイムが鳴った。
考え事をしていると時間が経つのが早い。おかげで授業の内容は全く頭に入らなかった。まあ教科書を読んでいれば分かるような内容ばかりだった。
今日は掃除当番でもないから、早速、笹浦の家を訪ねてみるとするか。
*
笹浦の家は蒲月高校から見て駅の反対側の西口のほうに位置している。そして、駅から真っすぐ進んで徒歩十分のところに笹浦の家がある。
ここが笹浦一夏の家か……。建築については詳しくはないが、三階建てで全体的に四角い現代風な家だ。おまけに庭も広い。なかなかお高そうな家に住んでいる。
プリントを届けるだけにしておこうと思っていたが、家の中の間取りが気になるから中に入ってみようか。それにこんな金持ちの家に生まれたということは、どうせ引きこもって優雅に暮らしているに違いない。なんて羨ましい。
とりあえずインターホンを鳴らしてみるか。
新藤はインターホンを鳴らした。
「どちら様でしょうか」
インターホンから笹浦の母親らしき声が聞こえた。
「こんにちは。僕は蒲月高校の一年A組学級委員長の新藤慈喜です。担任の先生に頼まれてプリントを届けに来ました。学校行事のお知らせを伝えたいので、一夏さんと直接話すことはできないでしょうか。」
如何にも学級委員長な台詞を吐いた。
「あ~、わざわざ娘のために来てくれてありがとう。どうぞ中に入ってください」
あなたの娘さんのためじゃないが、家の中に入らせてもらおう。
扉が開いた先には、まだ三十代ぐらいの若そうな品のある母親が出てきた。
「さあ、入ってください」
「お邪魔します」
笹浦の母親は笑顔で出迎えてくれたが、心配そうな気持ちを隠しきれていない表情だった。
家は木造建築でリビングに行くと、二階まで吹き抜けとなっていた。
外から見た通り内装もオシャレな間取りだ。俺も公務員になったら、いつかこんな家に住めるだろうか。
母親の後ろをついていく。笹浦一夏の部屋は二階に上がった先の突き当りの部屋だった。
「ここが一夏の部屋です。一夏、クラスメイトの人が来てくれたわよ」
「……」
「私がいたら話しづらいわよね。ちょうど私今から買い物に行くところだったの、話が終わったら勝手に帰ってね」
そういって、母親は階下に降りて、外出した。
案外、母親は娘が不登校であることにある程度、慣れている様子だった。もしかしたら、中学校でも不登校だったのだろうか。
しかし、いざ目の前まで来て話をしようと思うとなかなか言葉がでない。とりあえず自己紹介をして、プリントを渡しておくか。
「笹浦さん、僕は同じクラスの学級委員長をしている新藤慈喜です。プリントを届けに来ました」
新藤は見えない相手に対して、ぎこちない自己紹介をして、ドアの下からプリントを入れた。
すると、中から物音が少し聞こえた。
「……」
だが物音だけで何の反応もなかった。
このまま、黙ってやり過ごすつもりだろうか。少し揺さぶりを入れてみるか。
「なんで学校を休んでいるの? このままだと退学になっちゃうよ」と新藤は優しい口調で脅した。
「……」
今度は何の反応もなかった。
ドアノブに手をかけようとしたが、流石に女子高生の部屋に勝ってに入ってしまったら、学級委員長という立場でも、この家から出禁をくらってしまうと思ってやめた。
新藤はドアに背中を向けて寄り掛かった。そして、諭すように言った。
「きっと今なら間に合うよ。高校生活は三年間もあるのだから、そのうちの最初の一ヶ月休んでしまったとしても三年生の卒業式になったら、懐かしい思い出ぐらいにはなるよ。きっと」
すると、足音がドアの前まで近づいてきた。
俺の説得が笹浦の心に刺さったのだろうか。そうだ、まずその一歩を踏み出そう。まずはそれからだ。
そのとき、ドアノブがガチャガチャと動いた……
新藤はドアに寄り掛かっていた体を起こそうとした。その瞬間……
ドアが勢いよく開いた。ドアが開くと同時に、ドアに背を向けていた新藤は反対側の壁に頭をぶつけた。
新藤が頭を抱えていると、少女の甲高い声が聞こえた。
「ふざけないでよ! 誰のせいで不登校になったと思っているの!」
どうやら部屋の中からドアを少し開けて蹴破ったらしい。
ドアの前に仁王立ちしていたのは、平均より少し背の高いぐらいの細身の少女だった。そして、怒りをあらわにしている表情には、どこか可愛げがあった。
俺が入学式で見たときの笹浦一夏はもっと内向的で清楚だと思っていた。そうだ、この人はきっと姉か妹に違いない。
「あの……、笹浦一夏さんですか……?」
「ここ以外のどこに笹浦一夏がいるのよ! あなたのせいで私は……」
蓋を開けてみれば、いや、蓋を開けられてみれば、笹浦は情緒不安定な少女だった。もしかしたら、この短期間で笹浦はそういう風に素行の悪い少女になったのかもしれない。
俺のせいとは一体どういうことなんだ……
「不登校の原因が僕のせいとは……?」
新藤の素知らぬ顔に笹浦は怒気を強め、新藤の胸倉を掴んでガンを飛ばした。
憤慨しているが、やっぱりどこか女の子らしさと甘い香りを感じる。
「忘れたとは言わせないわよ! 入学式のときのあの日のことを……」
新藤は怒りの涙を流してこちら直視する笹浦から目を逸らして、入学式の日に起きたことを一生懸命に回想した。
だが思い出せない。
「自己紹介の時のことよ!」
新藤は自己紹介の時のことを思い出した——————
*
——————入学式が終わり、一年生全生徒は体育館から各クラスに戻った。そして一年A組の教室には春の風と共に、ぎこちない雰囲気が漂っていた。
中学校からの知り合いだろうか。もう既にグループらしき者は何人かいたが、クラスメイトの大半の人は未だに、どこのグループにも所属していなかった。
クラスメイトは教室に戻るなり、誰に指示される訳でもなく、自然と自分の座席に座っていった。
新藤も自分の座席である廊下側から五列目の前から四番目に流れるように座った。
そして、教室に大柄な男が入ってきたと思ったら、このクラスの担任の小島先生だった。
こそこそと話をしていたクラスメイトも静かになる。
小島はおもむろに教壇に立ち、クラスメイトを見渡した。
「お、みんな席に座っていて偉い! どうだ蒲月高校は? 結構広いだろう。この学校は食堂のメニューが豊富だということでも有名なんだ。あと、俺が教えている野球部は近年、全国大会にも出場しているほど強豪高校なんだぜ。もし野球に興味がある男子諸君は是非体験入部して欲しい。あーそうだ、改めまして、私が……、いや俺がこの一年A組のクラスの担任をする小島漣だ。コジレンと呼んでくれ。俺の趣味はスポーツ、登山、釣り、読書、ゲームなどなど色々やっている。好きな食べ物は肉だ。特に豚肉が好きだ。俺には看護師をしている妻がいて、子供は二人いて……」
小島が楽しそうに話している姿をクラスメイトは集中して聴いていた。
小島先生は三十代前半くらいの体格の良いフレンドリーな先生のようだ。一般的には生徒から慕われる先生だろうが、俺はこういったタイプの先生が苦手だ。
「すまない、ついプライベートのことになると話過ぎてしまうんだ……」
小島は一呼吸置いた。
「それじゃあ、入り口の近くの席に座っている人から順番に自己紹介してもらおうかな」
教室中の何人かが「えー」という露骨に嫌そうな声を漏らした。
「大丈夫! そんな緊張しなくていいから。名前をフルネームで言って、高校でやりたいことや、趣味、部活なんでもいいから、一言だけでも言って欲しい。俺はみんな一人一人と向き合っていきたいと思っている」
「やはり体育会系は能天気だ。人と関わりたくない人だっているのに、無理矢理関係を作ろうとするなんて配慮に欠ける」と中学生の頃の俺だったら思っていたかもしれないが、今の俺は一味も二味も違う。一人の力だけでは無力であるということに気づいたんだ。
この学校は俺の住んでいるところから遠く離れたところだ。誰も俺の過去を知る者はいない。だったら、自ら独りぼっちというカースト最下位に身を置く必要はどこにもない。
入学式の自己紹介というのは、ある意味クラスにおける陰キャか陽キャかを選別するための、最初の審判と言うには過言ではない。おそらく第一印象はここで決まるだろう。最低でも、向こう半年はこの場の印象によって左右される。
まあ、俺はその二極化されない高次の存在になるから関係ないが……
つまり俺は地位向上と大学推薦のために学級委員長という立場に就くつもりだ。だが、ここは進学校だ。もしかしたら、同じように学級委員長の座を狙ってくる輩が俺以外にもいるかもしれない。だからこの自己紹介という場で「学級委員長をやりたい」ということを先に宣言しておこうと、昨日の夜に考えた。
それぞれの学生は自分の名前を言ったあとに、抱負や趣味などを一言いった。ある者は「部活動を頑張りたい」、またある者は「友達をたくさん作りたい」などなるべく短くなるように、当たり障りのないことを言った。
クラスメイトが自己紹介をしている一方で、俺の前に座っている女子は、尋常でないほど震えていた。その震えは一人の自己紹介が終わる度に震えを増していった。
最初は貧乏ゆすり程度だったものが、後ろから見ても分かるほど肩まで震えだした。手を合わせて祈る姿は、まるでこれから戦地へと赴く兵士のようだ。
その女子は体を震わせながら、ポケットからハンカチを取り出して硬く握りしめていた。おそらく手汗を拭っているのだろう。
まあ、クラスに何人かはいる、あがり症という奴だろう。
そしてついに、その女子の自己紹介の番が回ってきたときに、急に震えがぴたりと止まった。
自己紹介は教壇に上がって名前を言った後に、一言話すだけのとても簡単なことである。
「それじゃあ……、次は笹浦一夏」
笹浦は立ち上がると同時持っていたハンカチをポケットにしまった。その時にしっかりとしまうことができず、ポケットからハンカチが床に落ちた。
俺は仕方なく落ちたハンカチを拾い上げて笹浦に渡そうとした。
「ハンカチ落ちましたよ」
笹浦は俺が拾ったハンカチを見て驚いた様子で赤面していた。
すかさず持っていたハンカチをよく見ると、それはハンカチではなく、リボンがついたピンク色のパンツだった。
「パンツやんけ……」と思わず俺は呟いた。
すると、クラスメイトが一気に俺の持っているモノに注目した。
笹浦は瞬時に俺の持っているモノを取り上げてポケットにしまい、一言も発さずに取り乱した様子で教壇へと向かった。
教室中は「あれパンツだったよね」、「ピンクだね」などとクスクスと笑っていた。
笹浦は教壇の直前で、大きく息を吐いてから登壇した。
笹浦は黒板を少し見つめた後に、クラスメイトと向き合って数秒程度沈黙した。するとまた、緊張からだんだんと顔が赤くなっていた。
ざわついた教室の生徒から注目を浴びる中、ついに笹浦は口を開いた。
「わ…わタしわ、ㇲ…ささうら……ィちかです……、よろしくお願いします!」
笹浦は声を震わせながら、自分の名前を噛みまくった後に拍手をする隙を与えず、即座に自分の席に戻って座った。そして頭を抱えて机に突っ伏した。
その一連の様子を見たクラスメイトはさらに失笑していた。
どうやら笹浦一夏は陰キャの烙印を押されたようだ。
「笹浦、そんなに緊張しなくても大丈夫だぞ」と小島は笑顔で慰めの言葉を言うが、反応はなかった。
「次は……ええと……、新藤慈喜」
そして、笹浦の後に自己紹介する俺は平静を装って壇上に向かった。
中学生活の殆どが孤独と友達だった俺が、こんな大勢の前で話すことに慣れているはずもなく、少し緊張していた。
黒板に背を向けて立つと、そこには四十人いた。自分の席から見る眺めと、教壇からの眺めは全く違う。陰キャが動揺するのも共感できる。義務教育の殆どにおいて、このような場に大勢の前に立つという状況を、何とかして避けてきた俺が平静を保つこともできずに、ただ単に面食らっていた。
そして、俺は咄嗟にこう言った。
「パンツを拾った新藤慈喜です」
すると、クラスメイトは不意の発言により、笑うのを我慢していた人も含めて爆笑した。
クラスメイトが自分の発言により笑ったことに対して、ある種の快感のようなものを感じた。そして、しめたと思った俺は続けてこう言った。
「あと、学級委員長をやりたいです」
本当はもう少し話す予定だったが、緊張していたため学級委員長になりたいという意思を伝えただけで、悠然と自分の席に戻った。
「そうか、新藤は学級委員長になりたいのか! 率先して学級委員長をやりたいなんてすごいな! みんな拍手」
教室中は大きな拍手が鳴り響いた。
教室が喝采の中でも、笹浦は机に突っ伏した状態で肩を震わせていた——————
その時は肩を震わせるほど、笑ってくれていたと思っていたが、現在の状況からすると、どうやら違うらしい。
そしてその後に行われた係決めで、無事に学級委員長というポジションを得ることができた。係決めの間も、笹浦はずっと机に突っ伏したままだった。流石に何かおかしいと薄々感じていたが、疲れたから眠っているのだと思うようにした。
その後、昼休みが始まり、俺は出会ったばかりの恒崎と食堂でほとんど会話もなく昼食を食べた。昼休みが終わり教室に戻り四限目の時間には、笹浦は早退していたようだった。
*
「あんなたがあのとき私を辱めたせいで、私は学校に行けなくなったのよ……」
「辱めるなんて大袈裟だよ。僕は君が作った気まずい雰囲気を和やかにするためにジョークを言ったまでさ」
笹浦に睨まれて怯む。
「係決めが終わった後に私はすぐに家に帰った。その日から、あの時の記憶が蘇って学校に行けなくなったのよ」
「そんなんで学校に行けなくなるとか、メンタル弱すぎだよ」
新藤が笹浦を煽ると、笹浦は新藤の胸倉を掴んで、腹に一撃入れた。
「ぐはッ!」
新藤はお腹を抱えてえずいた。
この法治国家において、平気で暴力を振るう女子高生がいるとは解せぬ。
笹浦は新藤の胸倉を掴んで前後に振り回した。
「あんた責任取りなさいよ」と笹浦は涙ぐんで言う。
「そもそもパンツを持ちあるいている笹浦さんにも原因があると思うけどなあ……」
新藤は胸倉を振り回されて、ヘロヘロになった状態で反論すると、さらにもう一撃。
「あれは、ハンカチと間違えて持って来てしまったのよ! 別に持ってきたくて持ってきた訳じゃないからっ!」
この馬鹿力はどこから湧いているのだろうか。男が女より強いという通説は、こいつの前では通用しない。きっと武道をやっていたに違いない。
「責任取りなさい! 責任取りなさい! 責任取りなさい!」
笹浦は新藤の胸倉を振り回しながら怒鳴り散らして、ほぼ新品の制服の第一ボタンが取れそうになる。
「わかった。わかった。責任を取るから、その手を放してくれ!」
ようやく笹浦は胸倉から手を離して、新藤は床に両手をついて跪いた。
「本当に責任取ってくれるの?」と先ほどの怒りの表情とは一変して、無邪気に新藤の顔を覗き込む。
「あぁ……、でもどうやって責任を取ればいいんだ」
笹浦は爛々とした嬉しそうな表情でこう言った。
「私を学校に通えるようにしなさい」
舎弟になれとか、小指を切り落とせとか言うとでも思ったが、意外と普通の頼みだった。というかこの頼みなら小島から五千円で注文を受けているのだが……
俺は何故にこのような暴行を受けたのだろうか。
「それぐらい一人でもできるだろう。なぜ僕を頼るんだ」
新藤はよれよれになった胸元を整える。
「私、学校に入れなくなったの」
そういえば、さっきも同じようなことを言っていたな。学校に入れないとは、どういうことなのだろうか。
「なるほど。凶暴すぎて学校から出禁になったから、入れるようにしたいということか」
新藤は腹をエルボーされた。
どうやらこいつは冗談を本気でツッコミしてくるタイプの人間のようだ。将来は有望な女芸人になれそうだ。
「私、高校生になってから学校に行くことに恐怖を感じるようになったの。小学生、中学生の時はここまで恐怖を感じることは無かったのに」
だから、自己紹介を待っているときにも震えていたのか。
「私は学校恐怖症になったのよ」
笹浦は深刻な表情だった。
「それは具体的にいつからだったの?」
「入学式の日のはじめて学校に来たときから」
自己紹介の前から、学校恐怖症だったということは、やっぱり俺の責任じゃないってことか。
「特にあなたが私を辱めたときからね」
笹浦は新藤に咎めるような視線を投げた。
「まあ何はともあれ、その学校恐怖症を克服することを考えよう」
新藤は話を逸らした。
笹浦を学校に通えるようにしたら、小島から五千円貰えるし、ウィンウィンというやつだ。
「とりあえず明日、笹浦さんの家に迎えに行くから、一緒に学校に行くというのはどうかな」
「わかった」
思い付きで考えた提案に笹浦は安堵した。