第五話:堕落
深淵に飲まれて行くような落下が終わる。
私が落ちた先は水が溜まっていて、全身に叩き付けられるような衝撃が走った。
痛みで意識が飛びかけるも、衝撃で息を吐き出してしまった口に水が入りそうになって慌てて息を止める。
痛みと衝撃で意識が朦朧としながらも、なんとか水面に上がろうと藻掻く。
自分が上がっているのか、それとも潜ってしまっているのか、それもわからない。
息を止めているのも限界だと、止めていた呼吸を吐き出してしまう。気泡が上がって、上へと登っていく。
その気泡を掴もうとするように手を伸ばす。それが本能的に上だと察知して、途切れそうな意識を振り絞って水を蹴る。
「――ぶはっ! げほ、げほっ、げほっ……!」
なんとか水面に顔を出して、水を吐き出す。嘔吐くように呼吸をして、何度か水に沈みになりそうになりながらも息継ぎをする。
ゆっくりと水がどこかへと流れているようで、その流れになるべく逆らわないようにして淵を目指す。
なんとか淵についた所で、私は水の中から身体を引き上げる気力も出ずに突っ伏してしまう。
「……げほっ……うぇ……ぐぅ……」
一息を吐いた所で、思い出したように腹部に激痛が走った。魔法使いの女によって放たれた魔法、それによって抉られた傷がじくじくと痛む。
水によって冷える身体と、抜け落ちていく血と体温。痛みで気が遠くなりそうになりながらも、震える腕に力を込めて陸地へと上がる。
「……っ、痛覚……遮断……」
痛みで動けなくなる前に、魔術によって痛覚の感覚を遮断する。痛みが消えればノイズのように思考を妨げていた痛みが消えた。
ただ、これは痛みを感じなくなっているだけだ。早く傷口を処置しなければならないと、纏っていたローブを脱ぎ捨て、水を絞ってから破り捨てた。
破って千切ったローブを包帯代わりに巻きながら血が溢れるのを止めようとする。しかし、力が上手く入らない。
「……神経……制御……」
ふぅ、ふぅ、と。何度も息を零しながら深呼吸をする。呼吸を落ち着けて、体内に魔力を巡らせていく。
そして魔術によって身体の動きを制御して、力が入らないという腕を誤魔化しながら動かしていく。
身体強化の応用、いや、悪用と呼べるこの技術は魔術師にとって最終手段の一つだ。
魔術による、神経の思考制御。無理矢理、魔術によって身体を動かすようなものであとの反動が怖い。けれど、こうでもしないと身体が動きそうにもない。
「……うぷ、げほっ、げほっ……!」
迫り上がって来る嘔吐感に逆らえず、吐き出してしまう。吐いたのは血だった。鉄のような匂いと不快感が込み上げて来て、更に吐き出してしまいそうになる。
確実に内臓を傷つけてしまっている。けれど、これ以上の処置は難しい。
「……ポーション……は、ない……」
ベルトでポーチに下げていた非常時用のポーションや、その他の細かな道具は水に落ちた際の衝撃で落としてしまったらしい。
上を見上げても、光が僅かに差し込むだけで視界は良くない。それでも僅かな明かりが点々と続いていて、どこかに繋がる道があるみたいだ。
「……進むしか……ない……」
このままここにいても死ぬだけだ。治療もこれだけしか出来ない以上、進むしか選択肢がなかった。
壁伝いに身体を支えながら歩き始める。片手は傷口を押さえながら、足を引きずるようにして前へ、前へと進んでいく。
淡い光が灯るだけの古代遺跡はどこまでも静かだ。嫌でも自分が一人だというのを自覚させられてしまう。
「……帰れる、のかな」
ぽつりと呟いてしまう。あまりにも寂しくて、不安で、苦しくて。
でも、呟いたからこそ思ってしまう。帰るといっても、どこに帰るのか?
家? 戻っても、姉さんは遠征に向かってしまっている。帰ってくる筈がない。
帰っても一人だ。だって、私は置いていかれたんだ。必要がないから、って。
「……は、はは……そう、だよね……」
もし、ガレットだったらあの三人を相手にしても大丈夫だったかな。姉さんでもどうにか出来たかもしれない。
ミルーニだったらすり抜けて逃げられただろうし、ダグリアスさんだって負けるとは思えない。
私だけ、一人じゃ何も出来ない。あの人たちに比べて何の取り柄もない、役立たずの厄介者だ。
「……何、やってるんだろうな。私」
前へ、前へ、ただ前へ。
進んで、進み続ける。馬鹿だな、なんて思いながら。
馬鹿でも、だからって足を止められない。
どこにも辿り着けなくても、この足を止めてしまえば終わってしまう。
「……嫌だ」
嫌なだけなんだ、生きたいとか、助かりたいとか、もうそんなのどうでも良い。
ここで、たった一人で誰にも看取られずに死ぬのが溜まらなく嫌だ。死ぬなら良い。生きていても価値がないって事はもうよくわかったから。
それでも嫌なんだ。一人で終わるのは嫌なんだ。誰かに看取って欲しい、せめて、せめて誰か、誰でもいいから――。
「あ、あぁ……! あぁぁ……!」
体力がなくなるとわかっても、嗚咽を抑えられなかった。泣き喚きながら私は足を引きずるように前へ進み続ける。
脳裏に浮かんだのは流行病で亡くなった両親の顔だった。眠るように死んでいた二人の顔に、そっと無表情で白布を被せた姉さんの横顔を覚えている。
あのどうしようもない虚無の表情を、私は忘れることが出来なかった。人が死んだらあんな風に見送られるのだと、それがどうしようもなく怖かった。
「置いて……いくのは……嫌……置いて……いかれるのも……嫌……」
死ぬのが怖かった。誰かが死んでしまうのも怖かった。自分の知らない所で、手を離してしまった人が消えてしまうのに耐えられなかった。
だから必死に追いかけた。そうでないと姉さんに置いていかれてしまうから。私が姉さんを置いていってしまうかもしれなかったから。ただ、それが嫌だったんだ。
「……姉さん……」
貴方の、あの日の顔が本当に怖くて、大嫌いだったの。
でも、貴方が大好きだったの。貴方が私に笑いかけてくれるのが何より幸せで、ここにいたいと思えた。姉さんは、私にとって光だった。
奪わないで、離れないで、ただ笑って欲しいの。貴方が笑うために必要なら、傍に行きたかった。あの日の姉さんの顔を見ないで済むなら、どんな事だって頑張れた。
――でも、姉さんは旅立ったじゃない。ガレットたちと一緒に。私を置いて。
足が引っかかって無様に転ぶ。受身も取れず、顔から崩れ落ちるように倒れてしまった。
「……ぁ……」
倒れた衝撃で、気力が血と一緒に流れ出していくように脱力感が襲ってくる。
涙はいつの間にか止まっていた。いや、枯れ果てたと言うべきなのかもしれない。
だんだんと重たくなる瞼、その薄くなる視界できらりと輝くものを見つけた。
お守りとして首から提げていたペンダント、それは姉さんとお揃いのものだ。
私が魔術師になって、姉さんのために作ったペンダント。ちょっと失敗した方は自分用にして、同じものを持っていた。
姉さんと一緒にいた日々も、少しずつ積み上げていくようなお揃いも。私にとっては、大切なものだった。
「……でも、もう、いいか」
姉さんにはガレットがいるし。ガレットにはミルーニも、ダグリアスさんもいる。頼りになる人たちだから、私がいなくても姉さんはきっと大丈夫。
「……私……もう、死んで……いいよね……?」
死に別れた両親を見つめる姉さんが本当に怖くて、寂しそうで、悲しそうで。あんな顔は見たくない、させたくないって思って来たけど。
私が死んじゃえば、きっとその顔は見ることはない。それにそうなったとしてもガレットたちがいる。私の居場所は、もうそこにはない。
「……ダグリアスさん……折衝案、無駄にして……ごめんね……」
色々と気を回して貰ったけど、結局無駄にしか出来なかったよ。
「……ミルーニ……一度、ちゃんと……謝っておけば……良かった……かな……」
あの子とは、結局最後までちゃんと話が出来なかったな。
「……ガレット……」
義兄になっていただろう人。結局、そう呼ぶことはないだろうな、って。
「……姉さん……」
走馬灯のように姉さんと一緒に過ごした思い出が浮かんでは消えていく。そのまま目を閉じて記憶の海に溺れていたいと、そう思ってしまう程に私は幸せだった。
だから、これ以上は贅沢だ。出来損ないの私には望むには高すぎるものだ。皆に迷惑をかけたなら、これ以上誰にも迷惑をかけないまま死んだ方が良い。
「……そう、納得しないと、苦しいよ……」
なんで助けてくれないの、なんて思っちゃいけないんだ。
私は一人で死ぬべきなんだ。きっと、そうしなきゃいけない程に私が悪かったんだ。生きていてごめんなさいって、そう言わないといけないんだ。
じゃないと、納得出来ないよ。こんなに痛くて、寒くて、冷たくて、苦しくて、辛くて! こんな死に方をしなきゃいけない理由がわからない!
「……ぁ……あ……ぁぁ……っ!」
お願い、早く息を止めて。
もう自分で舌を噛み切る力も、勇気もないの。だから、お願い。
私が、全てを恨んでしまう前に、この息の根を止めて欲しいの。
どうか、この幸せな夢に笑える内に。
「……お……わって……よ……」
私が、私じゃなくなっていきそうだ。薄暗い闇に自分が溶けていきそうで、自分が自分じゃないものに変わってしまいそうで。
それが怖い。怖いのに、気持ちと裏腹に変化を望んでしまいそうになる。この理不尽の全てを何かに叩き付けられるなら、そうしたいと思ってしまう程に。
私の心が黒く染まって、私じゃなくなる前に。拒絶するように私は目を閉じた。
――本当にそれで良いの?
目を閉じた私の脳裏に、そんな声が聞こえた。
とても心地良い声は、まるで辛さや苦しみ、私が感じているあらゆる苦痛を和らげてくれるようだった。
もう開かない筈の瞳が、ゆっくりと開けた。
――こっちにおいで。
また、声が聞こえた。その心地良い声を聞く度に、もう動かない筈の身体が動いた。
傷の痛みだって感じない。ただ、この心地良い声の主に会いたい。
胸の奥から湧き上がってくる思いのままに、私は立ち上がる。
――そう、良い子ね。おいで、おいで。
転んでしまった子供を優しく呼びかけるような、まるでお母さんみたいな声。
一歩、また一歩と進んで行く。その間、ずっと夢の中を彷徨っているような浮遊感があった。
暗闇の中、歩みを進めていく内に光が見えてきた。フラフラと、その光に誘われるように私は光の中へともつれ込む。
「……こ、こは……?」
そこは私にとって未知の光景だった。幾重に引かれた魔術陣が敷き詰められ、その中央に向かって幾つもの鎖が伸びている。
その鎖には無数の魔術文字が描かれた紙が括り付けられていて、何かを封じているようだった。
鎖が厳重に巻き付けられた、宝石のように透き通った結晶。その中には――誰かが入っていた。
「……きれい」
結晶の中に入っていたのは、私より少し年上の少女だった。
最初に抱いた印象は綺麗だという感想一つ。生涯に見た中で一番の美人だ。けれど、その美しさはどこか人外じみていて造り物のようにさえ思えてしまう。
眠るように結晶の中に封じられている少女に、私は心を、いや、魂すらも奪われていた。なんて美しいんだろう、と。このままずっと眺めていたと思ってしまう程に。
でも、同時に恐怖も覚えていた。このまま見続けていると、自分の中の何かが壊れてしまう気がする。そんな危機感に拳を握り締めてしまう。
――本当に暫くぶりのお客様ね。それに、私を見てもまだ正気なのね。いえ、もう正気じゃないから私を見ても平気なのかしら?
「……この声は、貴方なの?」
脳裏に響く声は、確かに目の前の彼女のものと言われれば納得してしまう。それ程までに似合った声だった。
――そうよ、懐かしい魂の人。こんなにも近くに来てくれたのは、本当に久しぶり。
クスクスとまるで笑うかのように脳裏の声が笑っている。
――でも、折角会えたのだから……このまま死なれるのも目覚めが悪いわね。ねぇ、助けて欲しい?
助ける。誰を? それは、私を?
ごくり、と喉を飲んでしまう。心はもう限界で、その甘美な言葉に頷きたいと暴れ始める。でも、本当にこの声に従って良いのかって歯止めがかかってしまう。
答えられずにいると、その場に膝をついてしまう。痛みは感じなくても、血は止まった訳じゃない。本当に、ここが限界だ。
お守りでつけていたペンダントの紐が千切れ、床に転がっていく。それを見た私の心が答えを定めた。
「――助けて。一人で……死ぬのは……いや……!」
一人で死にたくない。誰にも看取られずに、何も果たせずに無意味に死ぬのだけは嫌だ。
生きたい、ただ死にたくないから生きたい。だから、助けてくれるなら、もう何でも良い……!
――じゃあ、助けてあげる。良い子だから言うことを聞いてね? 同じく唱えなさい。
脳裏に響く声、その声に私は意識を集中させる。もう、その声しか聞いていたくない。
まるで脳裏の声は歌うように告げる。必要な言葉を、私が救われるための歌を。
「――ここに証明を。我、アネモネ・トゥナカはこの血の盟約に従い、汝の声に応えん。汝が名を唱えよう。汝、神が恐れし災厄なり。汝、神が封じた悪霊なり。汝の魂の名を呼ぼう。我が名を契りの標とし、応えよ――ッ!」
私の流れた血が、まるで吸い上げられるように魔術陣に溶けていく。怪しく赤色に光が放たれ、真っ黒に文字が染め上げられていく。
鎖が軋む音を立てる。そして、鎖に縛り上げられた結晶が淡く輝きを帯びた。すると、結晶の中の少女から分離するように半透明の少女が浮かび上がってくる。
『応えましょう、新たな主――アネモネ・トゥナカ。我が名を呼びなさい、我は神が封じた〝罪〟、七つが内の一柱、色欲の名を冠せし〝悪魔〟なり!』
今度は鼓膜を震わせた声に、身体全身が歓喜するように震えた。心臓が高鳴り、零れた吐息に熱が篭もる。
ふわりと流れた髪は薄い桃色、頭には山羊のような立派な角が伸びている。金色の妖しい瞳はまるで人を惑わす月のよう。
そんな彼女に触れたいと、手を伸ばしてしまう。恋い焦がれるように、私は彼女の名を呼んだ。
「――〝ルクスリア〟――」
私が名を呼ぶと、彼女――ルクスリアは、花が綻ぶかのように満面の笑みを浮かべて、私に顔を寄せるように近づく。
半透明の彼女が私の唇に、自分の唇を重ねた時、私と彼女の間で何かが繋がった感触がした。
その繋がりが結ばれた歓喜と安堵感が緊張を緩めてしまったのか、私の意識が一気に眠りへと落ちていく。
半透明だった筈のルクスリアの手が、意識を失う直前の私を支えたような気がする。
「――えぇ、今後ともどうぞよろしく。アネモネ」