幕間:花は枯れ落ちていた 後編
カトレアはアネモネのローブの残骸を握り締めて、蹲るようにして嗚咽を零していた。
そのローブについた血が、アネモネが負った傷の深さを物語っている。自分たちのように備えもせずに落下した彼女は水に叩き付けられた筈だ。
どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。想像するだけでカトレアの胸は張り裂けそうになってしまう。
「……カトレア」
ガレットはそんなカトレアに手を伸ばしかけるも、その手は彼女に届くことはなかった。
今の彼に、言えることなど何もないのだから。
ミルーニもまた呆然と泣きじゃくるカトレアを見つめることしか出来ない。
流されるままだった彼女も、漸くアネモネと二度と会えないかもしれない可能性を見つめ始めた。
その発端となったのは誰だったのか。原因はガレットとカトレア、アネモネの関係があったとしても発破をかけたのは自分だ。
その自覚が、ミルーニの喉を締め付けるように呼吸を鈍らせていく。
「……アネモネは奧に移動したみたいだな。血が残ってる」
「え?」
ただ一人、冷静に現場を見ていたダグリアスが呟く。確かによく見れば血の痕が点々と残っていて、それは奧へと向かっているようだった。
壁には血で汚れた手の痕なども残っていることから、負傷したアネモネが移動していたことが読み取れる。
「……引き返すか?」
「……行く」
カトレアは涙を勢い良く拭い、ローブの残骸を抱えたまま立ち上がる。
例え、この先に待っているのがどんなに残酷な結末だとしても……目を逸らすことだけはしない。でなければ、もう自分は永遠に妹と向き合えないことを自分が一番分かっていたからこそ。
誰もが無言で血の痕を辿っている。もし、この血を辿った先にアネモネの死体があったなら。誰もがその光景を想像しただろう。
しかし、誰も口にすることはない。その事実を確認した時、このメンバーが同じ志を抱えたまま一緒にいられるとは思えなかったから。
しかし、彼等の歩みは阻まれることになる。
「……待って、ダグさん」
「カトレア?」
「この先、結界が張ってある。……なにこれ、凄い……多分、古代文明の魔術結界だと思う」
カトレアが察知したのは、魔術によって人を拒絶するように張られた結界だった。
手を伸ばすと、それ以上先に進ませないとするような力場が阻んでいる。軽く手で押した所でびくともしない。
だからこそ、その強度も知れるというもの。これは生半可な魔術によるものではない。現代においては最高峰と言える魔術師や、その分野に通じた魔法師でもなければ突破することが出来なさそうな代物だ。
「結界だと……? だが、アネモネの血は奧まで続いているぞ?」
ダグリアスが訝しげな表情をしながら通路の先を見る。そこにはアネモネの血が奧へと続いているのが見えた。
間違いなくアネモネはこの結界の先へと進んでいる。しかし、一体どうやって?
「アネモネが結界をすり抜けた……? いえ、でもあの子だってここまで複雑な魔術を突破出来るとは……」
「……どうするんだ?」
「……ミルーニ、どう?」
「む、無理だよ……流石にお手上げ」
話を振られたミルーニは首を左右に振って答える。魔術の罠もミルーニは解除も出来る。だけど、ミルーニがまったく知らない仕掛けは解除しようもない。
「アネモネだったら……解析出来たのかもしれない、けど……」
技術としての魔術は使えても、知識としての魔術を理解出来ない。だから解析することが出来ない。それがミルーニの限界だった。
「……壊すか?」
「やってみる。下がってて」
ガレットの問いかけに、意を決したようにカトレアが杖を構える。
呼びかけるのは、火の精霊であるサラマンドラ。カトレアが使える魔法の中で、一番の威力を誇る魔法が繰り出される。
「〝ヒート・レイ〟!」
それは最早、炎と言うよりは光。凝縮された炎が光の熱線となって結界へと放たれる。
並の壁や結界であれば即座に焼き貫く炎の熱線が結界へとぶつかり、しかし弾くようにして熱線を拡散させてしまった。
その光景を見てカトレアは目を見開き、次の瞬間に悔しさに歯噛みをしてしまう。
「……ダメ。私の魔法じゃ貫けない」
「……打つ手なしか?」
ガレットが無念そうに呟く。カトレアは納得いかないと言わんばかりに結界に拳を叩き付けてしまう。
何度か拳を叩き付けた後、諦めきれない思いから魔法を放とうと杖を構える。
『――止めよ、それ以上は無駄だ』
そこに、人ならざる者の声が響き渡った。小さな火の玉が空中に生まれたかと思えば、一気に膨れあがって美しい女性の姿を象る。
一瞬にして現れたその存在にその場にいた者たちは驚きに目を見開く。中でも一番反応を見せたのはカトレアだった。
「あ……貴方は、サラマンドラ様!?」
火を司る四大精霊が一柱、サラマンドラ。燃えるような赤髪、褐色の肌の上に纏うのはこれまた真紅のドレス。瞳は黄金色で、蜥蜴のように瞳孔が裂けている。
豊満な胸を腕を組んで持ち上げ、空中で足を組む姿は妖艶な女性そのものだ。彼女はカトレアたちを静かに見下ろしている。
「分霊じゃなくて、本体での顕現だなんて……」
魔法師は精霊と契約を交わすが、それは分霊を通じて行われるものであって本体の意志を直接受け取れるのは高位の魔法師や、精霊や魔獣そのものを信仰している神官ぐらいだ。
だからこそカトレアは突然のサラマンドラの登場に驚きを隠すことが出来ない。一方で、サラマンドラは億劫だと言わんばかりに溜息を吐く。
『ふん……シルフが余計な世話を焼いたようだからな、その後始末だ。まさか履歴を見せるとはな。それだけお前の祈りが真摯であったとも言えるが……この先に進むのは止めておけ。お前たちには資格がない』
「シルフ様……? あの、資格がないってどういうことですか!? この先には何があるんですか!? 妹が、妹がこの先に向かったんです! 教えてください、サラマンドラ様!」
必死な思いを訴えるようにカトレアは胸の前に手を組み合わせ、跪く。そのカトレアの様子をジッと見つめていたサラマンドラだが、その返答は無慈悲なものだった。
『カトレア・トゥナカよ。お前の真摯な祈りに応えたいのは山々ではあるがな、それとこれとは混同してはならぬ話よ。この先にある物をお前たちが知る必要はない』
「そんな!」
『妹だったか……ここまでの祈り、さぞ大事な存在なのだろう。だが助言する。――忘れよ。その縁は最早、お前を不幸に貶めるだけだろう。この先にあるのは、我らが神の罪に他ならぬのだから』
「罪……?」
サラマンドラの言葉に、ダグリアスが何か思う所があるかのように呟きを零す。
しかし、カトレアに気付く余裕はなかった。涙を流しながら、跪いていた姿勢から更に姿勢を低くして、地に伏せるように頭を下げながら懇願する。
「それでも、どうかお願いします……! どうか……!」
『……だから止めよと言ったのだ、シルフの奴め』
チッ、と忌々しそうにサラマンドラは舌打ちをした。それから地に足をつけ、カトレアの頭にそっと手を置く。
『……既にこれでも大目に見てやっているのだ。そんなにも踏み込みたくば、自らの足で踏み入るが良い』
カトレアの髪を撫でた後、話は終わったと言わんばかりにサラマンドラの姿が薄れていく。
その姿が消えれば、空気が一気に変わったように元に戻る。それを察して、カトレアが泣き崩れた。
そんなカトレアを気遣うようにガレットとミルーニが左右からカトレアを起こしてあげる。二人に支えられながらも、カトレアは顔を覆うようにして涙と嗚咽を零し続ける。
「アネモネ……! アネモネ……!」
この先に進んだ妹のことを何一つ知れないまま、諦めろとしか言われず、手がかりも見失った。急速に絶望がカトレアの心を満たしていく。
そんなカトレアに対して、ダグリアスが正面に膝をついて向き合う。
「……カトレア。俺に少し心当たりがある」
「……ぇ?」
「サラマンドラが言っていたのは……もしかしたら〝悪魔〟じゃないか?」
ダグリアスが口にした言葉に、三人が目を見開いてダグリアスへと視線を集中させる。
「悪魔って……何?」
「俺も詳しくは知らん。死んだ爺さんが酒の席で口にしていたホラ話かと思っていた位だからな。悪魔だとかいう、神が恐れて封印した力があるらしい。この悪魔の力を手に入れたって奴は……世界を壊しかねない程の力を得るって話だ」
「何だよ、それ……」
ガレットが血の気が引いたような顔色で進めない通路の先へと視線を向ける。
この先に精霊が踏み入るな、と言った言葉も合わせて信憑性が出てきてしまう。怖気がガレットの背筋を駆け巡った。
「……悪魔の力……資格がない……じゃあ、アネモネはもしかして」
「……もしかしたら、悪魔の力を手に入れて生き延びたのかもしれない。少なくとも進めたってことは、アネモネは〝資格がある〟って事なんだろうよ」
「アネモネが世界を壊すかもしれない力を手に入れたってこと?」
ミルーニが不安そうに呟く。それに誰も返答することはなかった。もし、そうだとしたらアネモネがどうなっているのか全く想像が出来ない。
身勝手な理由で命を狙われて、重傷を負い、そんな追い詰められた彼女がどんな精神状態なのか想像するだけで恐ろしい。
「そんな……でも、アネモネは生きてるかもしれない……?」
「それはわからん。とにかく、これ以上は進めないって言うなら先に情報を得るべきだろう」
「情報って言ったって……悪魔なんて初めて聞いたぞ?」
ガレットが困ったように眉を寄せて言う。それにダグリアスは重々しく頷きながらも答えを返す。
「少なくとも精霊は詳しく知っているんだろう。なら、話を聞きにいく奴等は決まってる」
「……誰だ?」
「――ハイエルフ。この世界を長く生き、古きを知る賢者たちだ。彼奴等なら精霊との親交も深い。何か悪魔の情報を持っている可能性が高い」
* * *
運命の糸はほつれ、しかして再び編み合わされていく。それぞれが細くとも、束ねれば太い縄へと変わる。
まるで、それは時代の流れが激流へ転じていくのを現すかのように。変化は、加速していく。
気に入って頂ければブックマークや、評価ポイントを入れて頂けると嬉しく思います。