第五話:期待
ぱちぱちと火が弾ける音が聞こえる。火が絶えぬように拾ってきた枝を放りながら、私はそっと息を吐く。
火の弾ける音とは別に聞こえてくるのは、風によって揺らされた木の葉の囁きや、虫や鳥の鳴き声だ。
折り重なる音に耳を傾けながら、私はそっと息を吐いた。
「寝なくて良いのかしら?」
「……はい。ちょっと落ち着かなくて」
隣に座ったルクスリアが問いかけてくる。私は火を見つめたまま、気のない返事をしてしまう。
野盗たちの〝処理〟を終えた後、保護した女の子の魅了を解除してから村の傍で見つかるように置いてきた。それから足早に村を後にした。
そして、人の気配もなくなった森の中で夜営をしている。ルクスリアがいてくれるから、周囲の警戒に気を張らなくても良いのは助かる。
野盗との戦い、そして長距離の移動。その二つが重なって、私も大分疲労している。それでも眠気は遠く、ただ火が燃えるのを呆けたように眺めてしまう。
「……呆気なかったな」
焚き火を見つめていると、つい口にしてしまった。思い出すのは処理をした野盗たちのことだ。
意識がないまま、彼等は抵抗もなく眠るようにこの世から旅立っていった。はっきり言えば現実味が感じられない。それでも夢幻だと思えないのは、手にしっかりと感触が残っているからだ。
別に、命を奪う経験なんて初めてではない。魔物相手なら、この手でたくさん殺めている。
(……でも、人を殺したのは初めてだ)
以前の私には人を殺すような技量はなかった。『黄金の鷹』にいた頃も、野盗と直接やり合っていたのはガレットやダグリアスさんだった。
だから自分の手で人を殺めたのは、今回が初めてだった。手に残る感触が、その実感をどうしようもなく強めてしまう。
火によって照らされた手が真っ赤に見える。手はしっかり洗った筈だけど、それでも人を殺した手の感触はいつまでも残り続けている。
だから手にこびり付いた血も落ちてないんじゃないかって錯覚してしまう。
(いくら野盗でも……気持ち良いものじゃない)
握ったり、開いたりしてみても手の感触が消えない。この感触はいつになったら消えるのか、それともずっと思い出す度に感覚が蘇るのか。
それが嫌なのか、悲しいのか、怖いのか。自分でも正直わからない。ただ、この消えない事実を漠然と受け止めているというだけ。
手を火に翳しながらぼんやりしていると、私の手にルクスリアの手が添えられた。
「あまり近づけすぎると火傷するわよ」
「……そこまで呆けてません」
「どうかしら? でも、そんなに浸っているのも良くないんじゃない?」
「そうでしょうか」
「そうでしょうとも」
冗談めいて言うルクスリア。クスクスと小さな笑い声が漏れたけれども、それでも私の意識はどこか漫然としていた。
「……どうしてこんなに呆けてしまってるんでしょう」
人を殺した。自分の意思で、ルクスリアの圧倒的な力を以てして。
きっと何かを思わなきゃ、感じなきゃいけない気がしている。けれど、その正体が掴めない。
霧の中で目が見えないまま、手探りで掴めない何かを探しているような心地にさせられる。
無益だと思っても、手は止まらず自分というものが乖離していく。だから呆けていることしか出来ないのだと思う。
「考えすぎないの」
すっと、視線を隠すようにルクスリアが後ろから手を回して被せる。そのまま肩に寄りかからせるように私の身体を引いてくるので、私はルクスリアに身体を預ける。
一定のリズムで頭を撫でながらルクスリアは私の耳元で囁いた。
「今の貴方は、身についていない力に振り回されてるだけよ」
「……」
「私を拒まなければ、いずれ身につく力よ。けれど、力が身につけば貴方も実感していくでしょう。貴方は恐れているから、まだ力を暴走させていない。けれど制御も出来ていない。流されるままに力を使えば、あっさりと誰かの命をも奪ってしまう。その事実が貴方の心を麻痺させているだけよ」
ルクスリアの言う通りなのだろう。ルクスリアの〝魅了〟の力は、使える力ではあるけれど、身についた力ではないということだ。
だから、この力で誰かを殺してしまったのが自分だという実感がわかない。手に感触は残っていても、どう受けとめて良いのかハッキリしない。
麻痺しているというのは的確な例えで、私は今、この力を振るったことについて思いを馳せる段階にすらいないということだ。
「普通の人だったら、そこで力に溺れてしまうものよ。或いは、過剰に恐れて排斥しようとするか」
「……私は、そんな特別な人間じゃないですよ」
「いいえ。それは貴方が自分の価値を知らないだけ。私の力に狂わされないというだけで稀有なのよ」
ルクスリアが抱き寄せる格好から、私を包み込むように両手で抱き締める。
「だから、私は貴方に期待しているのかもしれない」
「……期待?」
「いつか、話せる時が来たら話すわ。今の貴方に他人を気遣う余裕はないでしょう? ほら、さっさと寝てしまいなさい」
ぽんぽん、と背中を撫でるように叩かれる。その温もりが次第に麻痺していた神経を解していくようだった。
今日は、とても疲れた。その疲れを思い出したように眠気が浮かび上がってくる。私はその眠気に抗えず、ルクスリアに抱き締められたまま、ゆっくりと瞳を閉ざした。
* * *
規則正しい寝息を立てながら眠る彼女――アーネを見つめる。
私――ルクスリアはその寝顔を眺めていると懐かしい思いに駆られてしまう。
「髪の色とかはマスターに似てるのに、雰囲気はあの人似ね」
あの人、そう口にすれば思い浮かぶのは彼女の種族の源流、エルフの始祖とも言うべき女性だった。
マスターによって生み出された、最初期の使徒。この世界に多くを齎した神が生み出した最初の種族たちの一つを冠す者。
自分たちにとっては先達であり、同胞であり、姉のようであり、同時に母であった。記憶を思い出せば、今でも愛おしい者の一人だ。
「……先祖返り、か」
神とエルフの血筋を受け継ぎ、人の両親から生まれた隔世遺伝の子供。それはなんとも運命めいた存在だと私は思っている。
「私たち、悪魔の力は当時の人には災厄しか齎せなかったものね」
神であるマスター以外に、私たちの力を適切に導ける者はいなかった。それは始祖のエルフである彼女でも、その他に始祖と名を冠する者たちでも駄目だった。
一言で言ってしまえば、未熟。それに尽きた。始祖ですら手を持て余した私たちは悪魔として、戒めの名を与えられた。
この名は枷であると同時に、私たちを守る檻でもあった。
「消してしまえば楽だったけれど、そうはならなかった」
誰もが私たち、悪魔の消滅を良しとしなかった。そして、私たちは眠りについた。
いつの日かを夢見て、この世界に生きる者たちが、自分たちと共に歩める時代が来る日まで。
しかし、時折呼応するように目覚めてみても、結局変わらず人は悪魔の力に溺れるだけだった。
「……あなたはどうなのかしら? アーネ」
彼女は、まだ与えられた力に振り回されているだけに過ぎない。自分の扱える力としての実感は薄く、その力を恐れることは出来ても、制御する術を身につけてはいない。
可能性は未だ五分五分。力の制御を学んでいくことで力に溺れていく可能性だってある。決して、この子の精神は強いとは言い切れない。
傷ついて、ズタボロで、痛みすらもわからなくなる程に傷ついて、麻痺してしまっているからだ。逆にそれが功を奏したとも言える。
死にたくないと、そして生きたいと願う本能。それが今のアーネの原動力とも言えるもの。それは原始的であるからこそ、故に歪まず、曲がらない。
「貴方となら、この世界を見れるのかしら」
かつて、マスターがいた頃はそうすることが出来たように。
たくさんの仲間と姉妹に囲まれて、笑い合える日々を。
あの懐かしく、輝かしい日々と同じだけ大事に思えるものを。
「あぁ、それはなんて楽しみなのかしら」
だから、どうか期待は裏切らないで欲しい。けれど、ただでは縋らない。
私は色欲を冠する悪魔。愛を知る者を堕落させる者。だからこそ、惑わせることだけは止められない。それが自分の本能と言うべき基盤なのだから。
「捕まえて、搦め捕って、溺れさせて。貴方は泳ぎきれるかしら?」
クスクス、クスクス。あぁ、なんて楽しいのかしら。
やはり現世は刺激的だわ。願わくば、どうかこの時間が瞬きの間に終わらないように。
そう願いながら、私は眠り続けるアーネの頭をそっと撫でた。