341 神谷神奈――手違いが生んだ出会い――
神奈は母親を知らなかった。知る必要もないと思っていた。
――しかし予想外にも偶然に真実を知ってしまった。
(この赤ん坊は、私なんだ……)
現代で育ててもらったのは義理の父。アイギスが母親であるなら神奈の本当の父親は帝王。
邪血の共鳴が起きるというのも、まだ産まれていなかった自分がアイギスの腹の中にいたのだから当然であったのだ。この時代に来たのがパンダレイ二人に頼まれた偶然ではなくまるで運命のように感じる。
加護が神奈の転移を防がなかったのも、アイギスのところへと導いたのも、全て加護自身が知っていたからだ。自我があるというなら二人の再会と別れを望んでいたのかもしれないと神奈は思う。
「母さん……お母さん……あれ、なんだろ。私こんな泣き脆かったか? こんな、こんなに涙が零れて……止まらないなんて、きっと、敵からの攻撃だろこんなの……」
「おかしくはありませんよ。本来のカンナさんの意識が混ざっている以上、今の神奈さんも悲しく思ってしまうのは当然なんです。だって、愛してくれた母親が死んだときに泣かない子供なんていませんからね」
「……ああ、そうだな」
神奈はアイギスのまだ熱のある右手を両手で優しく包み込む。
涙が頬を流れ、顎から床へと落ちていく。そして神奈は出産直後であるアイギスの皮の余った腹部へと布団越しに顔を埋める。
パンサーはその行動に対して特に何かを言うことはなかった。手で止めることもなく、ただ俯いて涙を流し続けている。
「ごめん、まだまだ話したいことがあるんだ……。私これまでずうっと不思議なことに関わってきてさ。幽霊とか魔法使いに会ったり、侵略者とか大賢者と戦ったり、学校の七不思議解決したり、聖剣の子供と過ごしたり、人魚とかと仲良くなったり、過去に跳んだり……。辛いことも悲しいことも多かったけど……楽しいことも多くていい人生だったと思う。ねえ母さん……私を産んでくれて、あ、りがとう……あり、がとう……ありが、とう……ありがとう……!」
神谷神奈の中にはカンナと上谷翔の二人分の魂が存在している。いや今は混ざり合って一つになっているが、それはつまり二人の感情や性格が混ざり合ったということでもある。
カンナはアイギスの死を悲しみ、翔はアイギスの生に感謝した。
今までの思い出を手向けとして神奈は母親の来世の幸福を祈る。
「……貴様は」
パンサーが神奈の泣き姿を後ろから見て何かに気付いたとき――白く眩い光が部屋を満たす。
閃光は数秒で収まった。眩しさに目を閉じていたパンサーが目を開け、神奈と同時に顔を上げる。
「さて、この時代か」
光が消えて現れたのは眼鏡をかけた若い男。
「まったくあの男、いい加減な仕事をするのは止めてもらいたいものだ。自分だけが苦労するならともかく俺達にまで飛び火するのは我慢ならん」
男は下がってきた眼鏡をクイッと上げて元の位置に戻す。
その男が只者でないことを二人は肌で感じる。逆立ちしても勝てっこない強者であることくらい瞬時に理解させられた。だがそれでもパンサーは立ち上がり、抜いた刀を男に向けて問いかける。
「侵入者。何者だ」
「やれやれ面倒な。俺は管理者の一人……情報とでも呼べ。他の者はほとんどがそう呼ぶ」
神奈は「管理者……」と小さく声に出す。
小学生の頃になるが神奈は祝福の管理者と名乗る女に会っている。尋常ではない強さを秘めているという点では同じであり、敵に回してはいけない相手であることも想像がつく。
「お前達の問いに答えたいのは山々だが、今はその赤子だ」
情報の管理者はベッドにまで歩いてカンナへと手を伸ばす。
その瞬間、パンサーが遠回りして回り込み刀を振るう。
パンサーの刀は躱されていない。そもそも届いていない。
剣技において帝王軍で右に出る者はいないというパンサーが敵との距離を誤るなどありえない。不思議な感覚に「なに……?」と呟くパンサーは驚愕していた。
「その刀の情報を書き換えさせてもらった。安心しろ、後で元に戻す」
パンサーが刀身を見やると長さが半分程になっていることに気付く。
折られたわけではなく、元々そういう長さの小太刀であったかのようだった。少し意識を向けなければ短くなっていることにも違和感ないので気付けない。
「関係あるか。たとえどんな力を持っていようと、アイギス様が残したその赤子を他者に渡すわけにはいかない!」
「やれやれ、勘弁してくれ」
情報の管理者がパンサーへと金色の瞳を向ける。
敵意をぶつけたパンサーが駆け――その姿が掻き消えた。
高速で移動したわけではない。本当に、最初からこの場にいなかったかのように消えてしまったのだ。
「今の、あなたが……?」
「パンサーの情報を書き換えさせてもらった。彼は今頃どこかの金持ちの令嬢と結婚し幸せに暮らしているだろう。君は覚えているようだが、君以外はそういう認識になっている。帝王やアイギスとも関わっていない人生を彼は現在進行形で歩んでいる。安心しろ、後で元に戻す」
そう告げると情報の管理者はカンナを抱きかかえる。
知らない者だからか、圧倒的な体内エネルギーを感じて恐怖したのか、カンナは大声で泣き始める。
「その子を未来に送るんですか」
「どうしてそれを……いや、なるほど、お前は未来から来たようだな。しかもこの赤子本人とは複雑な事情があるらしい」
別に神奈に確信があったわけではない。
あくまでも可能性の話。神奈自身が未来からやって来た以上、カンナも未来へと送られていなければならない。上谷周が玄関で拾ったというのならそこへ飛ばされるのだろう。そしてそれが尋常ではない力を秘めている情報の管理者ならば出来るのではないかと思っただけだ。
「あの、私のことを未来に返してくれたりしますかね。帝王をぶっ飛ばした後で」
「悪いがそれは出来ない。赤子のお前を未来へと送るのは、本来お前がいるべき時代がここではないからだ。魂の管理者がミスをして手違いで送られたにすぎない。管理者のミスは管理者が補うべきだからな、こうして俺が来たわけだ。逆にそれ以外、ただの人間からの要望を聞くほど暇でもないのでな」
「ならいいです。ダメ元だったし」
眼鏡をまたクイッと上げた情報の管理者の発言に、最初から期待していなかった神奈は容易く納得して受け入れる。
「でも一つだけお願いしてもいいですか?」
「……一応一度こちらの不手際で知らぬうちに迷惑をかけていたようだし、常識の範囲内でなら構わない」
「じゃあ、私のこと、無事にあの時代に送り届けてください」
別に神奈はそんな大層なことを願うつもりではなかった。
こんなことを頼まなくても結果は変わらないだろうし意味はないだろう。だがなんとなく言っておきたくなったのだ。決して情報の管理者が頼りにならなさそうなどと思ったわけではなく、本当になんとなく願っておきたかった。
本当なら義理の父である周に交通事故に気をつけろと伝えてもらうことも出来る。未来を多少なり今より良い方向に導くことも出来る。それでも神奈はこれまでの結果を捨てるつもりなどない。これまでの苦労を、悲哀を、幸福を、総合して人生をなかったことにするのは、必死に生き抜いてきた自分への裏切りにも思えるから。
「容易い願いだ。……そこの腕輪、お前の願いも一個くらい叶えてやってもいいんだぞ」
「えっ、私ですか? うーん、あ! 私、人間になりたいです!」
「すまない、それは不可能だ。俺の力を大きく上回っている」
「なんだシェンロンも大したことないですね」
「誰がシェンロンだ。まあいい……神谷神奈、お前の願いは叶えてやろう。また会う時も来るかもしれんが今は己の使命に集中するといい。では、さらばだ」
情報の管理者は強烈な光を放ってその場から消えた。
最初からそんな男はいなかったのかと思ってしまうが、共に消えているカンナが先の存在があった証拠だろう。
「元気でな。何があっても挫けないで、これから出会うやつらを大事にしろよ」
虚空を見つめる神奈は届かないと分かっていても過去の自分に言葉を贈る。
赤子の自分が今の自分へと無事成長出来るように。神奈は心から何もないことを願う。




