340 出産――傍にいて――
白いベッドの上で艶のある黒い長髪の女性が苦しそうな表情を浮かべている。
部屋の四隅に燭台が置いてあり、電気をつけているのと変わらない明るさを放っている。そんなアイギスの部屋に足を踏み入れた神奈はその状況に絶句した。
脂汗を浮かべ歯を食いしばるアイギス。周囲に三人いる黒いドレスの女性。よく見ればベッドは数種類の液体により酷く汚れている。
これが神奈の始めて見る出産の光景であった。
「見ての通り今は出産中だ。そこの椅子に座って見ているがいい」
「……出産」
ベッドの隣、丁度アイギスの顔の横にある二つの椅子に二人は腰を下ろす。
苦しそうに喘ぐアイギスは二人のことを視界に入れるとぎこちなく笑いかける。
「パンサー……カンナ……来てくれたんだね」
「アイギス様……」
「アイギスさん……」
「ふふっ、そう心配そうな顔……うっ、しなぐっ……いで。私なら……うあっぐうっ……だいじょ……うぶ、だから」
黒いドレスの女性達は助産師の役割なのか慌ただしく動いている。
細かいことを神奈は理解出来ないが、専門用語が飛び交うなか女性達の慌てようでかなり危険な状態なのは分かった。
神奈からは見えないアイギスの体の中では今にも産まれそうな赤子が暴れている。
女性達が落ち着かないのはこれまでなかった事例だからだ。今、陣痛発来から十二時間ほど経過したにもかかわらずまだ頭すら出て来ず、それどころか母親の体内でもがいて暴れるという異常事態が発生している。
ベッドに染みている赤い液体は今もアイギスから溢れていた。
「もう十二時間。普通ならそろそろ終わりそうなものだが……」
「なあ……血がすごい出てるけど大丈夫なのかよ。いや大丈夫じゃないだろうけどなんとか終われるんだよな?」
「死を覚悟しろとは言われている」
顔に暗い影を落としてパンサーは告げた。
息の詰まる感覚を神奈は味わう。それは死ぬ可能性があると告げられたことも原因だが、主な原因は別にある。
――神奈の体を巡る邪血がまた暴れ出していた。
(この感じ……あの時の……くそっ、今は……静まれ!)
神奈は膝丈上のズボンの裾を捲り少し露出させた自分の太ももを、血が出るほどに強く、ゆっくりと五指の爪で掻いた痛みにより正気を保つ。
太ももを掻いた傷から出た鮮血は黒く、グツグツと沸騰しているようなものだったが今の神奈が気にする余裕はない。
辛そうなアイギスの右手を包み込むように神奈は両手で握った。
なぜ自分がこんなことをしているのか理解出来ず、しようとすらせず、少しでもアイギスの助けになればいいと強く思う。
「……優しくて、温かい手。カンナはいい子だね」
ぎこちない笑みを浮かべ続けているアイギスは時々苦しそうに喘ぐ。
何度も何度もその声を耳にした神奈は視線を逸らさずにパンサーへと問う。
「父親は帝王なんだよな。どうせこの城にいるんだろ。なんでこの部屋はおろか近くにすら来てないんだよ」
「帝王様は多忙なお方だ。来られないのも仕方ないこと」
「ふざけてんじゃねえぞ、自分の奥さん大事なら仕事なんかほっぽってここに来いよ……! そんな簡単なことをする覚悟もないやつが、こんな温かい人の夫だなんて私は認めない……! 死んじゃうかもしれないんだぞ。決めた、私がぶん殴って連れて来てやる」
勢いよく立ち上がって神奈が歩こうとした瞬間、パンサーがそれに対して刀に手をかけた瞬間、アイギスは右手で神奈の離れそうだった指を掴んで止める。
予想外の人間が止めた事実に二人は目を見開いてアイギスを凝視する。
「ありがとう……でも、いいの。私と帝王の間に愛はない……あるのは一方的な、興味だけ。だから最期くらいは……本当に、一緒にいたい人と……過ごしたいの」
「最期って、そんなこと」
「分かるの。私はもう、長くない。この子を産んで十分も持たない。……だから、傍にいて?」
否定したくても二人には否定出来ない。
もう大量の血が流れているのだ。このまま失血していけば死もありえる、いや確実に訪れる。アイギスの死は定められた運命であるかのように覆る未来は閉ざされている。
「分かり、ました」
神奈は大人しくなって椅子に再び座る。
それを見たパンサーは刀から手を放した。
「……でも、なんで私なんですか。二回しか会っていないのに」
「その二回で、ううん……一回で好きになったから。運命の人ってぐっ、こういうことをうっ、いうのかな」
「私一応女なんだけどなあ」
運命の人といえば異性に使う言葉のような気がして神奈は呟く。
もちろんそれは神奈の思考なので誰が誰に言おうと自由だが。
「ねぇカンナ、あなたのことを教えて? あなたはうぐっ、どんな人に育てられて……どんな暮らしをしてきたのか、私……知りたいな」
段々とアイギスの小さな悲鳴を上げる回数が減少していた。苦しそうな表情は相変わらずだが一山越えたようでパンサーは安心する。
しかし誰も、アイギス本人以外誰も知れない。
もうアイギスは下半身の感覚がない。痛覚も機能していないため一番酷かった下腹部の痛みが感じ取れなくなったのだ。それゆえに力も抜け、暴れん坊の赤子が力ずくで出て行きやすくなる。
「な、なんでそんなこと……私のことなんて知ったって……」
「お願い。あなたみたいに可愛い子のこと知らないのは嫌だな。せっかく奇跡的に出会えたのに、何も知らずにお別れなんて悲しいよ」
「話せ、それがアイギス様の望みだ」
「パンサーまで……。ああもう、話しますよ、話せばいいんでしょ」
神奈の記憶は五歳の頃から始まっている。
正確にはもちろん生まれてすぐに始まっているのだが、生後すぐからの記憶など持っている人間の方が特殊だろう。それをいうなら五歳から鮮明というのもおかしな話だが、転生者の場合、前世の記憶が脳に刻み込まれたとき記憶力などを引き継ぐ。
正真正銘、今の神谷神奈としての生活は記憶を思い出した五歳のときから始まったのだ。
「母親は知らないんだけど、父親にはよくしてもらいました。七歳くらいの頃に死んじゃいましたけど良い人でしたよ」
上谷周。それは神奈の義理の父親であった。
義理というのは再婚とかそういう事情ではなく神奈自身が捨て子だったからである。彼には恋人がいたようだが妊娠出来ない体であり、子供に憧れていたところ玄関前に放置されていた赤子を引き取ったのだと神奈は聞いている。
聞かされたのは五歳のときだ。
少し真実を話すのは早くないかと思った神奈だが、転生前の記憶を取り戻したことで性格が一変していた。その前までは年相応に我が儘で無邪気だったらしいが、記憶を思い出してからは子供らしさが消えたとも聞いている。
転生したことを神奈はすぐ話した。
我が子が、ただの子供の意識が乗っ取られたようなものなのに、彼の聞き終わった一言目は「話してくれてありがとう」であった。
そしてそこから奇妙な親子の生活が始まったのである。
奇妙といっても関係性だけで、生活に関しては不思議なことなどほとんどない平凡な日常を過ごしていた。
テレビのお笑い番組で笑い合ったり、アニメや漫画の感想を言い合ったり、料理を作り合ってみたりなど様々なことをした日常。
本当の子供の意識ではないのに彼は邪険に扱わないでくれた。まるで本当の子供のように接してくれた。
そんな二人も一度だけ大喧嘩したことがある。
その内容は酢豚にパイナップルを入れるか入れないかというどうでもいい内容であったが、どんな内容であれ喧嘩は喧嘩。互いに罵倒し合って、最後は笑い合って仲直りする。
交通事故で死ななければ今も上谷周は良き父親のまま傍にいてくれただろうと、神奈は今でもそう思っている。
「――と、まあこんな感じで」
「おいなんだそのつまらん内容は。笑いどころがないじゃないか」
「笑いどころ求めんな」
神奈は転生関係を隠して二人に平凡な生活だった頃を語った。
アイギスは優しい笑みを浮かべたままで、パンサーはつまらんと文句を告げる。確かに面白い話ではないが今ここで面白くする必要もないだろう。
「ふふ、いい父親だったんだね。そんな人に育ててもらったから今のカンナがいるってことだね」
「まあ……そう、なりますかね」
今は亡き義理の父との思い出を振り返っていると神奈は慌ただしく動く女性達を見やる。
助産師の代わりらしい彼女達の様子が少し変化する。ある一点に視線を固定させ、何かをアイギスから取り出すような仕草をしていた。
「奥様、無事産まれました」
血で汚れている黒いドレスを着た女性の一人が感情なく告げる。
女性の一人が赤子を持ち上げ、産声を上げているその子を予め桶に張ってあったぬるま湯の中へと入れる。そして少しした後、お湯から上げて柔らかく白い布で赤子を包み込んだ。
出産の光景を詳しくは見れなかったものの神奈は無事産まれた赤子を見て胸を撫で下ろす。
母であるアイギスの目は輝き、パンサーはジッと赤子を見据えている。
そして助産師代わりの女性達はというと「どうぞ奥様」と赤子をアイギスの横に置き、一度頭を下げてから退出してしまった。
「えっ、あの人達出て行ったぞ」
「……心の壊れた者達、本当に言われたことしかやらない人形だ。あまり気にしないでいい。それよりもアイギス様、ご出産おめでとうございます」
「ありがとうパンサー。たとえ相手が誰であろうと私の子、決して見捨てたりしないわ」
「アイギスさんおめでとう、きっといい子に育つよ」
そう神奈が言っている間、赤子はそれを否定するようにジタバタしていた。
顔以外が布に包まれて身動きなどほとんど取れないにもかかわらず、生まれたばかりの赤子なのに泣きながら少し暴れている。
「いい子に、育つ……はず。……んぐうっ!?」
自信のなくなった神奈の体に異変が起きた。
外見に変化はない。ただ赤子と目が合った瞬間、先程まで酷かった邪血の力がさらに強まってしまっていた。今神奈は破壊衝動に襲われており、必死に耐えようとして再び太ももを血が出るほどに強く掻く。
目前の全てを破壊したいと思ってしまう神奈は両目を瞑り、潤んだ瞳が映す景色が暗くなっていく。
もう暴走してしまいそうだと自覚する神奈の手に触れ続けながらアイギスは語りかけた。
「大丈夫……大丈夫だよ。ね?」
邪血による支配が嘘のように落ち着く。
身体の中で温かい黄金の光が広がっていくのを感じた。それは邪悪な血をも光で呑み込んで抑え込む。
「あ、平気だ。さっきまで苦しかったのに……」
「うん、それは良かった。ほら、あなたも」
アイギスは神奈から手を放し、暴れる我が子の方へ重そうに体を向けると抱きかかえる。それだけで赤子の暴れっぷりが収まって大人しくなった。
それから体勢を仰向けに戻し、豊満な胸に抱いた赤子は眠そうに両目を閉じてしまう。
「アイギス様、この子供のお名前はどうするのです?」
「実は、妊娠してからずっと……決めていたの。……この子の名前は」
パンサーの問いかけにアイギスは笑みを絶やさずに答える。
「――カンナ」
瞬間、白いモヤのようなものが天井から出て来て、よろよろと降りて来ながらカンナへと入っていく。
明らかな異常に神奈とパンサーは反応出来なかった。なぜなら二人共お互いの顔を見て戸惑っていたからだ。それでも神奈だけは白いモヤが降りたことを横目で確認していた。
なぜ白いモヤをどうにかしなかったのか。それは単純な理由である。
見覚えがあったのだ。いや誰かの魂なのは見て分かるのだが、それが誰の魂なのかすらはっきり分かってしまった。
(今のって……じゃあもしかして、この赤ん坊は、この、人は)
「アイギス様、お考え直しください。それではこの女と同じ名になってしまいます」
「いいの……これも運命よ。ね、パンサー、いいでしょう?」
「……し、しかし……いえ、アイギス様がそう仰るのであれば俺に文句などありません」
アイギスは両腕で優しくカンナを抱えたまま告げる。
「カンナ、あなたは邪血。それでも正しい生き方をしてくれると……私は信じてる。この世界は不自由で、どうしても生きづらいけれど……魔法だとか、環境だとか……そういったものに、振り回されないでね」
神奈とパンサーは動かずにただ聞いていた。
カンナの体が淡く金色に光り始めても黙して見ていた。
もう二人は、いやアイギス本人も感じ取っている。アイギスも自分で言っていたが、それよりもさらに死の迎えは早く来てしまうのだと理解出来る。
「私は、ずっと……あなたと、共にいるわ……」
(ああどうりで気になってたわけだよ。気付かないのも無理ないけどさぁ)
アイギスの瞼がゆっくりと閉じられる。力が抜けた両腕はカンナから退けられて真っすぐに寝かされる。
息絶えるところを無言で見送り、パンサーは動かなくなってから「アイギス様……」と沈痛な面持ちで呟いた。神奈も似たような悲しみ溢れる表情で静かに涙を零す。
(アイギスさんは私の……母さんだったんだ)




