316 罰――全ては無意味になる――
神奈は憤慨していた。
名前も知らない関係だが、弟のため健気に働き続ける女性が踏み躙られ、あまつさえ道端のゴミのように捨てられようとしていた。あまりに酷い光景と展開に我慢できず飛び出すのも、隣にいるキリサメが止められなかったのも誰にも責められない。
高く投げられた女性を、神奈が〈フライ〉で空を飛んで回収。このとき兵士長達の目にも止まらぬ速度だったために誰かに見られることはなかった。問題はその後で、怒りを抑えられない神奈が兵士長を殺す勢いで殴り飛ばしたのだ。さすがにこれは大問題だとキリサメは焦る。
殴り飛ばした神奈を見て、兵士長の傍にいた男兵士が「ひっ」と情けない声を出して後退る。
兵士長はそれなりに強いからこそ長の役職に就いていたのだ。それが一撃で、おそらく殺されたともなれば兵士が恐れるのも当然だろう。
「おい」
神奈がまだ殴れる距離にいる兵士を睨みつける。
「あの人の弟はどこにいる」
「あ、あの人……?」
竦み上がっている兵士は上擦った声で、説明不足の言葉を復唱した。それに苛立った様子で神奈は倒れている金髪の女性を指さして「あの人だよ」と、察しの悪い兵士に告げる。
「ろ、牢屋……です……」
「どこの」
「へ、兵士の休憩施設……その、三階より上の、どこかに……」
「そうか」
神奈の興味が自分から失われたと安心する兵士は腰を抜かして崩れ落ちる。
情報を手に入れた神奈はすぐにでも解放してやろうと兵士専用休憩施設の方へと歩き出した。もちろんそれを見過ごすわけにもいかないキリサメは「待て!」と叫ぶ。
「本当に待て、どこへ行くつもりだ! 分かっているのか、お前は今、自殺行為に近いことをやろうとしているんだぞ!」
「大丈夫。正々堂々戦えばここにいる誰にも負けない」
「それは……」
自信過剰だ。そう指摘することがキリサメは出来なかった。
実際に兵士長を一撃で倒す力があるなら残る雑兵程度問題ないだろう。もしかすればワイルドも倒してしまうかもしれない。
(ワイルドを倒せるなら倒せるに越したことはない。だが……本当に倒せるのか? ワイルドはサシの勝負を正々堂々するような男じゃない。不安だ、漠然とした不安が渦巻く……本当に止めなくていいのか?)
力強く歩いて行く神奈を止めるか、止めないか。キリサメが悩んでいたそのとき――最悪なものを目にする。
「これはいったいなんだあ?」
神奈は足を止めて、正面から歩いて来る男を見据える。
筋骨隆々。上半身は衣服を身につけておらず、たくましい筋肉を露わにしている。腰には金色のベルトを巻き、下半身は革のズボン、脛には鋼で作られたレギンス。厳つい顔つきの大柄な男の名は――ワイルド。帝王がある程度の地位を授けた四神将と呼ばれる強者の一人。
「わ、ワイルド様! その女が兵士長を殴りました! どうかそのお力を見せて黙らせてください!」
腰の抜けていた兵士が慌てて叫び出す。
普段なら恐怖で話しかけることも出来ない相手だが、今は最大級に頼りになる味方が来てくれたと内心喜んでいる。
「ほぅ、まあ想像はしていたがな。お前くらいに強いやつなら大人しくしてるわけがないと思っていたぞ」
「……丁度いい、お前をぶっ飛ばせば全部終わりそうだ」
強く睨み神奈に対してワイルドはふんと鼻を鳴らす。
余裕そうな態度なのは苛つくが、一度は一撃で勝利したのだから神奈も理解できる。だが指をどこかへ向けて、首をクイッと動かしてそちらを向くように促すのはどういうことか。何が目的なのか不思議に思いつつ、警戒は怠らずに視線をチラッとそちらに向けてみれば――先程まで座り込んでいた兵士がキリサメを拘束し、剣を首筋に当てて人質にしている光景。
「んなっ……ぎょぼぐっ!?」
目を見開いて驚愕した一瞬だった。――走ってきたワイルドの膝蹴りが神奈の腹部に勢いよくめり込んだ。
一瞬の遅れが命取りとなる戦闘で気が逸れてしまったのは致命的。耐えようと踏ん張っても神奈の体は地面から浮いて後方へ吹き飛ぶ。それから地面に体がつくと何度も激しく転がって、採掘場の壁を破壊して森の方へ。
神奈は〈フライ〉を使用することで徐々にスピードを落とし、森へ入る一歩手前で地面に足をつける。立ち上がった神奈は奔る痛みに顔を苦しそうに歪め、腹部を押さえ、視線を自分が吹き飛んできた方へ向ける。
勢いよく走る巨体が接近してくるので神奈は構えるが、至近距離にまで来たワイルドが「いいのか?」と囁いたことで動きが硬直する。その隙に神奈の右頬に大きな拳が叩きつけられた。
(ああくそっ、戦うのは二回目なのに……)
先程の『いいのか?』という問い。それは紛れもなく人質にとられたキリサメの安否。まともに戦えば、抵抗したと思えば、いつでも殺せるぞという姑息な脅迫。
――神奈の思考で、ワイルドへ攻撃する選択肢が泡となって消える。
「はははっ、久し振りのサンドバッグだなあ!」
神奈が殴られる度に衝撃が地面に伝わり地震を起こし、大きな亀裂を作り上げ、森の木々が何十本も奈落の底へ落ちていく。
「見ろっ! まだまだ大地は耐えられる! お前というサンドバッグがいてくれるおかげで被害が最小限に抑えられる! 今なら俺にも帝王様の気持ちが分かる、お前は俺のために生まれてきた人間なんだ!」
何かを守る者と壊す者。どちらが強いのかという問いは意見が割れる。
ヒーローは必ず周囲の人々を守らなくてはいけなくて、敵は何も守るものがないからこそ派手に動ける。失うモノの有無は戦闘において、時折重要なポイントとなるのだ。
守るモノがあるからこそヒーローは敵より強くなければいけない。神奈はワイルドよりも、帝王よりも、誰よりも強くならなければ全てを守るヒーローになれない。
無理だ、と神奈は思う。
せめてこの視界に映る人々を助けたいと願う自分が酷く、ちっぽけな存在に思えてくる。ヒーローに憧れる夢見る子供でしかないのだと理解してしまう。
全て救う、なんて夢物語。今までの救い、なんて奇跡が都合よく起きただけ。
「いいないいな! いったいどこまで耐えられるんだおま……」
何かを感じ取ったワイルドが咄嗟に神奈から飛び退く。
「黙れ」
天秤にかければ単純なことだった。キリサメ一人の命など、奴隷全員の命に比べれば大した価値にならない。これから奴隷を救うのに必要な犠牲と割り切ればなんてことはない。
神奈の明るい紫の魔力が体に纏わりつき、それがどす黒く変貌していく。
血が煮え滾る。沸騰しているかと思うくらいに体が熱い。何かのタガが外れたように神奈は思える。今まで重い鎧でも着ていたのかと思うくらいに体と心が軽くなる。
(壊せ、熱い、破壊、熱い、私以外は、熱い、どうなっても、熱い、熱い、破壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊壊――)
「神奈さんっ! 正気に戻ってください!」
ハッとして神奈は目を見開く。魔力の色はどす黒さを失くしていく。
揺れる瞳で、神奈は自身の震える右手を見て困惑した。
「……私は、今、何を思った?」
正直神奈は自分で自分のことが信じられなかった。
大勢が助かるためなら一人の犠牲など問題ないと、そんな数誤差でしかないと思ってしまったのだ。そんなことは前世でも今世でも変わらない価値観から思うはずがない。
「むぅ……先程の寒気は」
厳つい顔なのに強張らせているのでワイルドの顔は一層怖さを増していた。鋭く睥睨して何かを考え込むワイルドだったが、その思考は突然割って入った声に打ち切られる。
『ワイルド、あなたまた暴れたでしょう。こちらにまで地響きが来ましたよ』
「バーズか。この頭に直接響く声は止めろといつも言っているのだが……まあいい。つい嬉しくて暴れたことは謝ろう。で、何か用件があるのか」
目線は神奈から外さずにワイルドは話している。その光景は神奈からすれば独り言を突然言い出したようにしか見えない。
『まあ近々来るあの日について連絡があったんですが……はぁ、これは直接会って話した方がよさそうですねぇ。被害の確認もしておかなければ……まったく余計な手間を増やしてくれたものですよ』
「悪かったと言っているだろう。ふん、来るなら採掘場にある俺の部屋で待っていろ」
『ええ、くれぐれもそれまでに力を振るわないように。あなたのような怪力バカが何かを殴っただけで美しい自然が破壊されてしまうのですからねぇ』
「……というわけだ。俺は来客の対応があるから、お前をサンドバッグにするのは一時的に止める。あの人質をとった兵士には俺から話をつけておいてやるが……次に反抗すれば容赦なくあの男を殺すと思えよ」
突然独り言ではなく神奈へ話しかけたので困惑は深まる。ただ訊きたいことができたのでとりあえず質問しておく。
「私はあっちに戻っていいのか。殺しておいた方が、もしくは牢に入れた方が安心なんじゃないの」
「ほざけ、牢に入れても自力で脱出するだろう。それにお前の労働力は貴重だからな、むやみに殺すわけにもいかん。以上だ」
結果からいえば、これだけ派手に動いたのに何も状況は改善されていない。
ボロボロな姉弟を助けることも出来ず、キリサメが人質にとられたことで逃げ出すことも反抗することも出来なくなったので、改善どころか悪化したも同然だ。
「神奈さん、行きましょう」
「……ああ」
身を翻して戻っていくワイルドの後に神奈も付いていく。
奴隷生活九日目。兵士長を殴ったり、ボコボコにされたり、謎の力が溢れたりして最終的に事態が悪化した。なお神奈に反省するつもりはない。




