310 邂逅――アイギス――
扉を開けた先には一人の女性が白いベッドで横になっている。黒く、艶のある長髪が綺麗な女性だ。表情は優しさが滲み出ているかのように穏やかである。
どこか懐かしさを覚える神奈は自分の気持ちに困惑していた。確実に初対面だ。そうであるはずなのに自然と心が温まる。まるで赤子のときからずっと一緒だったかのような安心感を得ている。
女性の首から上だけが動き神奈の方を見る。動きが制限されている原因は大きく膨らんでいる腹部だろう。白い花柄の布団が不自然に盛り上がっているそれは明らかに――妊娠の証。
「パンサーじゃないのね。あなたはだあれ?」
「え、えっと……私は……」
言葉に詰まる。そもそも扉を開けたこと自体予想外だったので頭は未だ混乱中だ。
「答えられないのなら無理に答えなくていいわ。ただお願いがあるんだけど、そこの扉は開けっ放しにしないで閉めてほしいかな」
「え、あ、はい」
多少どもりながら神奈は部屋に三歩程入ってから扉を閉める。
閉めてから後悔。時すでに遅し。どうせ閉めるのならば、外へ出ていけば謎の女性と緊張する会話をしなくても済んだというのに。
「知らないかもしれないから一応自己紹介。私はアイギス、不本意ながら帝王の妻をしています」
「あ、私は神谷神奈と言います」
「えっちょっ神奈さん?」
(……つられて名乗っちゃったよおい)
相手が自己紹介したのなら自分の番などと、今は礼儀など切り離さなければいけなかったのに神奈はやってしまった。
一方、神奈の名前を聞いた女性――アイギスは数秒頓狂な顔をしてから笑みを深める。
(神谷神奈……カミヤ、カンナ……ふふ、なるほどね)
「えっと、いきなりなんですけどホウケン村ってどこにあるのか分かりますか? 私そこに行きたくって」
「ごめんね、私はほとんどこの城から出たことがないの。その村にも聞き覚えがない。どこにあるのかも分からない。カンナはどうしてそこに行きたいの?」
「なんか困っている人がいるっぽくて。助けるよう頼まれたんです」
大雑把すぎるのだが実際こうとしか言えない。時空だの機械人だのを説明しても変な目で見られるだけだろうし、未来人だとバレれば大事になってしまう可能性がある。
「そっか、いい子だねカンナは……こっちへおいで」
微笑んでいるアイギスがゆっくりと手招きしている。微妙に警戒しつつも、アイギスが何かおかしなことをするとは思えない神奈は少し息を呑んで歩いて近付く。
二人の距離がどんどん縮まって手を伸ばせば届く至近距離にまで来た。そして「屈んで」と告げられて神奈は言われた通りに膝を床へつける。それからアイギスが何をしたかといえば、招くよう動かしていた左手を神奈の頭へとそっと乗せて優しく撫で始めた。唐突に愛撫されることで神奈は――
(なんなのおおおおお!?)
僅かに嬉しそうな感じで口角を上げて混乱していた。
愛おしいものに触れるよう撫でていたアイギスはハッと我に返って手を放す。
「あっ、ごめんね。つい」
(どんな『つい』だああ! どんな『つい』で初対面の人間の頭撫でるの!? 普段から何してるの!?)
内心絶叫しながら神奈は立ち上がって一歩分距離を取る。
いきなり頭を撫でられたとはいえ、なぜか神奈はそこまで悪い気分はしなかった。むしろ気持ちいいとさえ感じた。
「もう、やめてくださいよ。頭撫でられて喜ぶ子供じゃないんだから」
「ふふっごめんごめん。なんだか自分の子供みたいに思えちゃってね」
「……もうすぐですか?」
神奈の視線が腹部にいったことでアイギスは察する。
「さぁね、正確な日にちは分からない。でも私の子は元気いっぱいなんだ……今もお腹蹴られたし、あっ殴られた」
「元気だけど暴れすぎなんじゃ……」
赤ん坊が母親の子宮内で動くこと――胎動。実はわりと早くから胎動は開始されていて、妊娠初期の方から母親に感じさせないくらいで動いている。妊娠中期が一番胎動が激しくなり、妊娠後期で少し大人しくなる。腹部の膨らみから相当時間が経っている、おそらく産まれるのは近いだろうと神奈は想像した。
「大丈夫大丈夫、この子はいい子に育つから」
山のように膨らんでいる腹部をアイギスは愛おしい目で見つめ、優しく撫でる。
「まだ産まれてもないのに分からないじゃないですか」
「分かるよ、私には分かるんだ。あうっ、結構強く殴られた」
「凶暴じゃん……」
胎動が性格と関係あるかどうかは分からないが、神奈には産まれてもいない子供が将来不良になるイメージが出来てしまった。荒れて暴れるんだろうなと勝手に推測している。
「そういえば名前はもう決めているんですか?」
「決めてるよ。この子の名前は――」
そのとき、コンコンと二度のノックが鳴る。
ノックにマズいと思って慌てるのは神奈だ。そもそもこの場所に無断で侵入している時点でアウトなのに、帝王の妻などと偉そうな立場の人間の部屋にお邪魔しているなど斬り捨てられても文句を言えない。ダラダラと汗を垂らして扉の方を見れば、未だ来客は部屋に入ってくることがない。これはチャンスだと思い部屋を見渡すと小さい窓を発見。
(小さっ! でもあれしかない!)
「アイギス様、パンサーです。入室しますよ」
「えっあっ、もう少し待って……」
部屋の奥にある人間一人入れるかどうかという小さな窓に神奈が走り飛び込む。もはやガラスが割れて侵入がバレようが関係ない、ここで見つかることが一番厄介な事態になりそうなのだから。
神奈が窓に頭から飛び込むと――ガラスが割れずに脳天を打ちつけるだけに終わった。
「なんですか今の音は! 入りますよ!」
ガラスに頭を打ちつけた、まるで大きな石を思いっきりぶつけたかのような音に慌てて扉が開けられる。
扉を開けたのは男性。黄と黒のヒョウ柄の髪色と瞳。黒いコートを身に纏い、腰には鞘に入った日本刀のような武器を下げている。一見、只者ではないと感じさせるが、食事の乗った丸いトレイを持っていることで覇気が半減している。
部屋にいるはずなのはアイギス一人。ただどういうわけか癖のある黒髪の少女が「いってええええ」と頭を押さえて悶えており、それを見てアイギスが慌てふためいている。思わずパンサーは自分が持っていた白銀のトレイを落としそうになった。トレイにはアイギスの食事が乗っており、落とすわけにはいかないためなんとか持ち堪えたが。
「なんだこれは……」
呆然としているパンサーに気付いて神奈は涙目で立ち上がる。
「ふっ、計画通り」
「いや何がですか、思いっきり計画崩れてるでしょ」
悪そうな笑みを浮かべるも強がりなのは誰の目から見ても明らかだ。
間抜けそうな神奈を見てパンサーはハッと我に返ると警戒心を露わにして睨みつける。それに連動するように神奈もいつ攻撃が来てもいいよう警戒する。
「……貴様、何者だ。どうやって侵入した」
「いつの間にかここにいたんだよ。ミツバチが花の蜜を求めるように誘われてな」
「あの、二人共……まっ」
一触即発の空気の中、アイギスが声をかけた瞬間――二人が消えた。
食事の乗った白銀のトレイを置き去りにして、パンサーは腰に下げていた刀を抜刀し振るう。その刀は確実に神奈の首を切断する軌道だったが、同時に神奈も回避行動に移っていたために外れる。
パンサーの背後に回った神奈は冷や汗を流す。
(あっぶねえ~こいつ隼よりも速いぞ。ガチの全力で避けないと斬られる)
(躱された……! 加減したとはいえ一見普通の子供に!?)
たった一撃の攻防で分かる互いのある程度の実力。神奈もパンサーも全力で戦わなければいけない相手だと互いを認める。
そしてパンサーが再び神奈へと駆ける。今度の速度は一度目の攻防とは比でない速度。先程の一撃すら速人の〈極・神速閃〉すら上回っていたというのに、さらに上回ってきたのだ。神奈もこれには驚愕し、刀が通る軌道を推測して〈魔力加速〉にて回避する。そのついでに神奈が蹴りを放ち、パンサーが鞘で防御した。
(魔力加速を使わなかったら死んでた……!)
(加速を利用した蹴り……重い、まるで帝王様の一撃)
神奈が後方に跳ぶと、つい先程まで体があった場所を刀が通り過ぎる。超人的な反射神経で避けるだろうことを予想していたパンサーはすぐさま二撃目を放つ。
研ぎ澄まされた刺突は力を一点に集中して放たれる。
死のイメージが脳裏によぎった神奈はエネルギーが一点に集中している刃先を避けて、刀身を両拳で挟むように殴りつける。パンサーや刀にダメージはないが動きは止まった。一旦停止した戦いを再び始めようと二人が動こうとし――
「待って二人共!」
アイギスの叫びで動きがまた止まる。……とはいえそれも一瞬でパンサーは刀を納刀して腰に戻した後、自分が置き去りにしたトレイが床へ落ちる前に難なく両手で持つ。二人の戦いが一秒も経っていなかったおかげで食事は落ちずに無事である。
「はぁ……パンサー、彼女を攻撃しないで。カンナもね」
思わず上体を起こしたアイギスが焦った表情で告げる。しかしもっと焦ったのは神奈とパンサーだ。妊婦が急に体を動かすなど色々な意味で危ない。
「アイギス様、無理な動きはお控えください!」
「そうだよお腹の子供に悪いだろ!」
「え……あ、ありがとう。ごめんなさい」
再びアイギスが横になり――
「いやそうじゃないでしょ! どうして二人共戦ったの!」
今起きていた超人バトルのことを思い返して叫ぶ。
しかし二人からすれば自然な戦いだっただろう。パンサーは元よりここに住んでいる者として胡乱な侵入者がいたとなれば斬り捨てるのが当然。神奈とてそうして攻撃されればやり返すしかない。もちろん実力差が開いていれば回避し続けることも可能だっただろうが、生憎と二人の実力差はそこまで開いていなかった。
「いやぁ、攻撃されたから……」
「侵入者がいれば斬るのが当然です。仮に他の四神将がこの場に来ても同じことを言ったでしょう。斬らない保証をするというのならしっかりと誰なのかが分からなければなりません。アイギス様、この者は何者なのですか」
「……えっと、よく分からないわ」
「やはり不審な侵入者ではないですか! おい貴様、何が目的で帝王様の城へと侵入した」
「えっと、よく分からないな」
「なぜ自分で来た目的も分からないんだ! くそっ、もういい。アイギス様、食事は置いておきますのでこの少女は外へ放り出してきます」
さすがにこれ以上留まるのは神奈にもリスクが大きすぎる。アイギスともっと話していたかったような気がしてもこればかりは仕方ない。
少し残念そうにしているのはアイギスも同じだった。神奈と同じようにしょんぼりした表情と雰囲気になっている。
パンサーは食事の乗ったトレイをベッド脇にある木製の机に置き、神奈の着ているパーカーのフードを掴んで出ていく。当然向かう先は城の入口もとい出口であり、神奈はポイッと投げ捨てられた。
地面をゴロゴロと転がった神奈は立ち上がり、唇を尖らせて「ケチ」と呟く。
「おい何がケチだ聞こえたぞ。殺さないだけありがたく思えよ、本来なら貴様のような者などバラバラに切り裂くところなのだからな。アイギス様が悲しまれるだろうから殺さないのだ、精々感謝しておけ」
仕方なく神奈は身を翻して城から離れていく。ついでに「ケチ」と二、三回言っておいた。もちろん聞こえているパンサーは目を血走らせており、なんとか堪えたがすぐにでも抜刀して斬りかかるところであった。




