273 腕相撲――強さを数値化するのは王道――
直径三百平方キロメートルもの大きな大地の塊。
それが信じられないことに雲より高い場所に位置しており、落ちることなく浮かび続けている。
地面からスプーンでくり抜かれて、そのまま持ち上げられたかのように浮かんでいる大地には、鉱石で作られたいくつもの民家が存在している。他にもふわふわとした白い綿のようなもので作られた建物も存在し、古い遺跡のようなものまである。
広場とされている広いだけの場所。そこに地上から飛んできた神奈達は初めて足をつける。
折れた石材の柱以外はには特に何もない。しかし階段のような通路はいくつもあり、さらに上にある場所へと続いている。
「ここが天界……」
「こんな大地が浮かんでいたなんて、地上の人には信じられないだろうな」
「そうですね白部君、天界はこれまで秘匿されてきた場所です。地上の人間には存在すら知れらていませんよ」
ようやく天界についた神奈達はそれぞれ感想を零す。荷物は全て地面へと下ろした。
もう天界に着いたので洋一は桃色の粒子から車椅子を出現させ、ゆっくりと腰を下ろす。
そのとき、渋い声が焔にかけられる。一同は一斉に声の主へと振り向く。
「ウリエールよ」
シワの多い白髪の老人が、その左右に二人の若い男を連れて歩いて来ていた。服装は三人とも白い布で、裾が長くゆったりとしているワンピースのようなものを着ており、腰の辺りをもう一枚の白い布で縛っている。当たり前であるが天使族であるので白い翼が背中から一対生えている。
かけられた声に焔はにこやかな笑顔のまま答えた。
「これはこれは天使長、迎えに来てくれるとは思っていませんでしたよお」
「ふん、儂とてお主などを出迎えに来るのはごめんじゃて。儂が直々に出向いたのは例の聖剣を見るためじゃ。分かっているのじゃろうな、本物の聖剣を持ってこなければお主の望みは叶わんということを」
「理解していますともお。聖剣なら、彼が抱えている男の子ですよぉ」
焔は右にいる速人の方に顔を向け、天使長の老人も視線を向ける。
速人の腕に抱かれているソラシドを見て、老人は「ほほぅ」と呟き近付いていく。そして穴が空くほどに凝視する。
見られ続けているソラシドは怖くなり、不安そうな表情になって速人の胸板へと顔を向けた。
「何を見ている爺さん、斬り殺すぞ」
「あれ酷い! 儂が天使長だって話は聞いてたんじゃよな!?」
「知るか。こいつを怖がらせるようなやつは全員敵だ」
「ぐぅ、そもそもこの者達は誰なんじゃウリエール! 見たところただの人間のようじゃが、なぜ余計な連中まで連れてきおった!」
再び老人は焔の方に振り向いて叫ぶ。
「えー? 彼らは魔人との戦いにおいて重要な戦力ですよお。聖剣の使い手に選ばれている人達もいるんですからあ」
聖剣の使い手と聞いて老人の目の色が変わる。
「使い手じゃと……? では聖剣が完全体になったとき、使うのは人間になるとお主はそう言うのか」
その老人の感情で分かりやすく出ているのは不満。人間という種族を下等だと見下していたのが神奈には分かる。魔界の魔族達もそういう感情はあったので何もおかしなことではない。非常に苛つく話ではあるが、人間が他の動物を見下すのと同じだ。猿が日本語を喋れるか、虎が人の道具を扱えるか、そんなことはできないと決めつけている人間達と同じなのだ。
「何か不満でもぉ? あなたが戦うよりぃ、よっぽどいいと思いますけど」
「ほぅ、つまりこの人間達の方が儂よりも強いと、そういうわけかウリエール。儂も甘く見られたものよ、地上に住む人間如きに、神の導きを得られる我ら天使族が負けるはずがなかろうて」
「え? いやいや、いくらなんでもお爺さんには負けないと思いますけど……」
つい口が滑ったと、恵が慌てて手で口を押さえるも遅い。老人は目を光らせて「ほぅ?」と興味深そうに呟くと、余計なことを言った恵に鋭い視線を向ける。
こういうときに何かしでかすのは洋一も想像していた。深いため息を吐き、何かあったら助けられるように色々と策を考えておく。
「ウリエール、お嬢さん、儂より強いと言いおったな?」
「私は言ってませんけどお?」
「……い、言っちゃったけど」
「ならばちと腕力でも比べてみるか。儂より強いのなら当然勝てるということよな?」
人間を見下す天使族には人間に負けるという発想はない。人間がリスと腕相撲しても絶対に負けないのと同じ、天使族も絶対に人間には負けないという認識であった。
「ま、まあ、勝てると思うけど……」
「言ったな人間風情が! シオン、トゥーラ、どっちでもいいからあれを持ってくるのじゃ!」
側近らしき若い男二人が「はい」と元気よく返事をして、翼を広げると音を置き去りにして飛び立つ。すると三分ほどで戻ってきて、若い男二人は黒い長方形の箱を持っていた。
命令通りに箱を持ってきた二人の男は老人の前へそっと置く。
「……これは?」
「昔から天界で行われている遊びの一つ、ブラッチアファイト。端的に言えば腕相撲ですねえ」
置かれた黒い箱を疑問に思った洋一が問いかけると、焔が分かりやすく答えた。
腕相撲の発祥はまさか天界だったのかと戦慄する神奈を無視し、誰もが分かりやすい遊びで恵もすっかりやる気になっている。神奈達の中で最弱とはいえ、幼少の頃から厳しい訓練を受けてきた自分が老人に負けるわけがないと、自信たっぷりな表情で右肩を回す。
「なんだ腕相撲なら楽勝でしょ! お爺さん、降参するなら今のうちだけど?」
「若いというのはいいのぅ、無知、無鉄砲、傲慢、全て若さあってのこと。初めに言っておくが……儂は天界で一番強いぞ」
「へえ、天使様の中の最強を倒したら気分よさそうね」
まだ恵は天使の実力を知らない。まさに無知であるがゆえの強気な態度。
二人は肘を黒い箱につき、お互いの手を取って笑い合う。
シオンと呼ばれていた若い男が審判役として選ばれ、箱の前に立って右手を挙げる。そして「レディ、ファイト!」と言って鋭く右手を下に振り下ろした。
開始と同時。恵は己の持てる全力で右手に力を込める。
握り潰す勢いで掴み、倒そうとしているのに――老人の手が動かない。
焦る恵に老人はにやりと笑う。徐々に老人の手が動き始め、恵の手の甲を箱につけようとする。それに一切抵抗が意味をなさず恵はあっさりと敗北した。
「うそ……」
「教えてやろうお嬢さん。天使族は長い年月を生きた者ほど力を増す。ゆえに年長者、今年で二千七百歳になる儂は強いということじゃ」
負けたことが信じられず呆然とする恵に、老人は告げる。
老人は手を離し、背後にいたトゥーラと呼ばれている若い男へと顔を向ける。
「トゥーラ、このお嬢さんの実力はいくつじゃった」
「860です」
「ほぅ驚いた、人間にしては相当強いではないか。なるほど道理で傲慢な性格になるわけじゃの」
いきなり出てきた数字に恵は「860?」と首を傾げる。
恵達が疑問に思っているのが分かって、老人は出した数字を説明する。
「今トゥーラが告げたのはお嬢さんの実力値、つまり戦闘力。お嬢さんがどれだけ強いのかを簡単に測ってみせたのじゃよ」
「その860ってすごいの?」
「人間にしては相当強い方じゃ。昔の人間の英雄相手でも善戦できるレベルじゃて」
一人、恵は「私そんなに強いんだ」と嬉しそうにしているが、すぐに神奈達の存在を思い出し、自分がそれほど強いなら神奈達はどうなるんだとすぐに気持ちが沈む。圧倒的実力差があることは承知しているので自慢などできない。
「さて、ついでに全員勝負とゆくかの。次は黒髪のお嬢さん、やってみるかの?」
「まあいいけど……後悔するぞ」
老人は極大の地雷を踏み抜いた。
神奈の強さを知っている全員が「あぁ」と憐れむ目線を老人に送る。
黒い箱の上に神奈と老人が肘をつき、手を取り合う。
「ふふふ、始める前に教えてやろう。儂の戦闘力は274000! これがどれほどか想像もできないじゃろう……止めるなら今のうちじゃがどうする?」
「そういうのいいから早くやろうよ」
「いい度胸じゃな。では覚悟してかかるがよい!」
審判のトゥーラが右手を挙げ、先程と同じように開始の宣言をして振り下ろす。
老人は相手の力を試すように、まずは自分から動かないことを決めていた。先程も恵の力を試してから倒したのだ、今回もそうしようと神奈を甘く見ていた。
――甘い考えはすぐに覆ることになる。
「そい」
微かな気合も入っていない気の抜けた一言。
なんてことない相手だと甘く見ていた老人の体が――くの字に折れ曲がった。
「ほ……?」
腰辺りが折れ曲がってからようやく自分の状況を悟る。
いつの間にか、開始と同時になのだが老人は認識すらできず負けていた。しっかりと左手の甲が箱につけられている。なぜ体が折れ曲がっているのかといえば、その急な腕の湾曲で骨が折れてしまわないように、体が無意識に衝撃を流すために行った行動であった。
もし無意識下の行動がなければ老人の左腕の骨は折れていたかもしれない。
ようやく負けたという事実を認識し、左手を見てもまだ信じたくなくて「は……?」と戸惑いの声を零す。人間に負けるわけがないという傲慢さが、なかなか敗北を受け入れてくれない。
数秒経って老人が体を元に戻し、神奈が手を離したことで左手もひっこめる。
「……ドーレ様の負けです」
「……マジ? 儂負けた……? あんなに前置きしておいて?」
信じられないが負けは負け。敗北した老人は目を丸くして困惑していた。
「はぁい、負け犬ならぬ負け天使は放っておいてえ、みなさんの泊まる場所へご案内しましょーう」
なぜか気まずくなった神奈達が焔の案内により階段を上っていく。去る前に礼儀正しく洋一と神奈だけは一礼してから去っていった。
呆然と神奈達を見送った老人は思い出したように問いかける。
「そういえば、あのお嬢さんの戦闘力はいくつじゃった」
老人が後ろを振り向いてみれば、トゥーラは激しく汗を掻き、目を見開いて驚愕の表情で神奈達の方を見ていた。そして少しして上擦った声で質問に答える。
「……約500000です」
「……なんじゃと?」
「それだけじゃない、黒髪の男も約300000と破格の強さです……」
恵のときは正確に測れたのに、神奈達のときに「約」と言っているのは桁が大きいからだ。桁が大きすぎればゼロの数を把握するのにも時間がかかる。といっても普通に数えられるので、単純に信じられない数値に動揺して見間違えを疑っているだけである。
一瞬耳を疑ったが、嘘を吐くような男ではないので老人は信じるしかない。
人間とは弱いはず。つまりあれは人間ではない。もはや老人たちは神奈を人間ではない怪物とみなしている。
「ちなみに聖剣はどうじゃった。元々そっちが本命じゃからな」
「100000に届くかといったところでした」
「なるほど……」
考え込む姿勢になった老人は数秒沈黙。やがて口を開く。
「……もう人間達に任せた方がいい気がしてきたの」
無知、無鉄砲、傲慢。それらがあったのは老人も同じであったのだ。
世の中には信じられないほど強い者が山ほどいるのだから。




