272 資格――天に認められし者達――
伊世高校校門前。午前十一時三十分。
もうすぐ昼食の時間となるというときに、神奈はキャリーケースを転がして校門前に辿り着く。
一度家に帰ってから三日の寝泊まりに必要な物……財布、携帯電話、靴下、日数分の下着やパジャマなど含めた衣類、歯ブラシなどなどの最低限の荷物をキャリーケースに入れた。普通の女性であるならここに鏡や軽いメイク道具もあっていいが、神奈は女子でもがさつであるためどちらも持っていかない。
校門にはすでに速人、ソラシド、洋一、焔の姿があり、同級生二人の男子も神奈同様にキャリーケースを持っている。
少し速人が持っていることに違和感を覚える神奈だが、多少常識あることは知っているのでまあいいかと流す。しっかりしていそうな洋一は元から持ってくると予想していた。焔が持っていないのは元から天界に住んでいるからだろう。
「これで全員揃いましたねえ。それでは早速――」
呼び出した全員が揃ったことで焔が口を開く。
しかしその発言に待ったをかける声があった。
「あ、待ってください」
声をあげたのは洋一だ。非常に申し訳なさそうな顔をしている。
「白部君、何か?」
「……それが、えっと、もう少し待ってくれませんか」
「いいですがぁ……どうしてでしょう?」
何も待つことはないはずだと、焔は困惑した表情を浮かべる。
「ふん、バカめ。トイレなら済ませておけ」
「いや、トイレじゃなくてね……」
「あーじゃあ忘れ物とか?」
「……ここに忘れていいものかもね」
用を足すわけでも、忘れ物でもない。それならばいったいなんなのか。答えはすぐそこまで迫っている。
「みんなもう集まってるの! ごめんなさい待たせちゃった!?」
その答えが神奈達にも理解できた。
やって来た恵に飽きれた視線を送る。そして流れるように洋一にも視線は移動する。
焔は恵を呼んでいない。つまりこれは洋一の独断、というか強引な恵に押し切られたのだろうと全員が予想する。その予想は合っていて、恵が「洋一が行くなら私も行く」と言い出して聞かなかったのだ。
「わ、鷲本さあん? 別にあなたは呼んでいなかったのですがあ」
「いいでしょ先生、洋一が行くんだったら私も付いていきたいの! 離れるのはもう嫌なんだから!」
「……まあぁ、白部君が面倒を見るならいいでしょう」
強引で、強情で、強欲な女だ。すぐに焔も何を言っても引き返さないと理解する。
諦めた表情で出された同行の許可に、キャリーケースを置いた恵ははしゃぎ、三回ジャンプしてから洋一に抱きつく。
「やった、やったね洋一! 今夜は一緒の部屋で寝ようね!」
「……うん、そうだね」
笑顔で恵に抱きつかれた洋一はといえば、死んだ魚のような目でどこか遠くを見つめていた。表情からは何も感じ取れない……無だ。ささやかながら押しつけられている柔らかいものに理性を削られるが、それに耐えるために洋一は無とならなければならない。
「おー、母上も父上と抱き合わないんですか?」
仲睦まじい、少なくともそう見えたソラシドの言葉に、神奈と速人はギョッとして見下ろす。
子供の悪意ない純粋な言葉だ。揶揄っているわけではない、とはいえ些か神奈には難易度が高い。異性と恋愛的な意味で抱き合ったこともないのに、犬猿の仲である相手に抱きつけるわけがない。やろうと思えばできるだろうがそもそもやる気が出ない。
「うっ、おお、また今度な?」
「えー今見たいです」
我が儘を言うソラシドに、神奈が困った顔をして「勘弁してくれ」と口を開こうとした。しかし出た言葉は全く違う、意味を持つものでさえなかった。
「……え」
視線がソラシドに向いている間に速人が接近し、神奈は――抱き寄せられた。
「ほら、これでいいだろ」
「父上大胆ですね!」
「どこで覚えたんだそんな言葉」
混乱。体が自分の意思と関係なく動かされた。
ゆっくりと感じられたが、神奈は何も行動を起こせない。思考もさっきまで考えていたことが全て吹き飛ぶ。
何かに後ろから押されたような気さえしていたが、それは急激に距離が縮まった速人のせいだと気付く。だがそこからどうしてこんなことになっているのか上手く考えが纏まらない。
羞恥。何をされているのか遅れて理解する。
火でも点けられたかと思うほどに全身の体温が上昇。顔が熱を帯びて赤く染まり、神奈はごくりと息を呑む。
「なにしてんだお前はあ!」
――そして爆発。
抱きしめられたのは分かる。ソラシドのためにやったことも分かる。でも本当にこんなことをするとは神奈は思っていなかった。適当にのらりくらりと躱し続けていくつもりだった。抱擁などまるで恋人同士のようであるから、自分がするともされるとも思っていなかった。
抱くにしても時と場所を考えてほしかった。神奈とて、絶対に速人と抱き合わなければいけない状況になれば、百歩譲って許可はする。一万歩譲って自分からする。しかし一億歩譲っても周りに人がいればやらない。少なくとも洋一達に見られる状況で絶対にすることはない。
一気に爆発した神奈は思いっきり速人を突き飛ばす。
密着していたからこそどうすることもできず、速人は「グヴェア!?」と虫が潰れたような声を零して校門の壁に激突する。亀裂が入るどころか、壁を砕いて校庭にまで転がっていく。
「は、隼くーん! 大丈夫ですかあ!?」
誰が見ても痛そうな一撃。そして、誰が見ても死にかけている速人。
駆け寄る焔も予想外な事態に慌てている。洋一と恵も唖然として動きを止めている。
「母上! どうして父上を突き飛ばしたんですか!」
目の前で起こったことが理解できずにソラシドが叫ぶ。
「……ごめん。本当にごめん。でもいきなりすぎて……でも、私も冷静になるべき……だったな」
「いきなり抱きつかれたから? ゆっくりならいいんですか?」
「ごめん、いきなりじゃなくても私は嫌だ」
「……ならしょうがないですね。人の嫌がることはやってはいけませんから」
結果、ソラシドの言い出したことを実行した速人が悪いことになった。
彼からしたらたまったものではない。彼とて恥ずかしさも嫌悪もあったが、ソラシドのために神奈を抱いた。それなのに悪だとされ、なぜか恵からゴミを見るような冷たい目で見られるなど最悪である。
地面に倒れて、白目を剥いて呼吸を荒げている。そんな速人を焔は優しく抱きかかえ、通称お姫様だっこの要領で両手に持つ。
神奈達の元へと戻ると、焔は怒気を込めた声を発する。
「もう神谷さん! いくらなんでもやりすぎですよお!」
「す、すみません。次からはもっと手加減します」
普段怒らない焔の怒気に当てられ、神奈は身体を震わせて小さな声で謝罪した。
小さな体からでも神奈を怖がらせるには充分すぎる怒気である。
「はい、分かっているなら言うことはありませんねえ。……それでは改めて、天界に出発するとしましょうかあ」
色々あったがようやく出発――の前に神奈には疑問ができる。
「あの、ちょっと気になったんですけど、天界ってどうやって行くんですか?」
以前に神奈が神音から聞いた話、魔界と天界は二つとも隔離されている異世界のようなものということ。魔界に赴くためにはどこにあるかも分からない、常に移動している門を潜らなければ正規ルートでは行けない。
裏技として、禁術で行くことは可能であるが、禁術を使用できるのは地球に二人、三子と神音のみ。三子では禁術、理想郷への扉を使用するのに魔力が足りず、神音は協力してくれないだろう。
もしも魔界と同じような行き方しか出来ないのなら、天界に行くのは相当な苦労がかかることに他ならない。
「どうって……飛んでいくんですよお」
「あーなるほどぉ……。飛ぶ? もしかして荷物を持ったままですか?」
予想とは少し違う苦労が神奈達を襲う。
「それはそうですよお、荷物を持っていないと意味がないじゃないですかあ。別に置いていってもいいんですよ? 天界にだって日常を送るための施設はありますから」
「あのぅ、私は飛べないんですけど……」
おそるおそる手を挙げて恵が告げる。そう、この中でただ一人、恵だけが空中を移動することができない。跳ぶことはできても、自由に飛び回ることはできない。完全な自由ではないが、速人でも〈不動の空気〉という魔法で移動することはできる。この中で唯一、恵は手段を持たない。
「なら行かなければいいのではあ?」
「い、いや! お泊まり旅行は絶対行く! 洋一、私を連れてって、お姫様抱っこで!」
「……うん、分かったよ」
もはや何を言われても洋一は承諾しそうである。
ある意味、恵と付き合うことで諦めるのも一種の正解なのかもしれない。
「白部君、車椅子はどうするんだよ」
一応足が不自由である洋一に空中浮遊など難しいだろう。神奈の疑問に答えるため、洋一はゆっくりと立ち上がる。
「それは大丈夫、夢幻の魔導書にはちょっと特殊な使い方もあってね。……これぞ、夢想収納」
本形態のムゲンが光り出し、桃色の光が車椅子だけを包み込んでいく。目に優しい光に包み込まれた車椅子は分解されて粒子となり、桃色の粒がムゲンの中へと吸い込まれていく。車椅子は完全に本の中へ消えてしまった。
目の前の光景に目を丸くする神奈は「す、すっご……」と呟く。それに鉄の義足で立つ洋一が笑いかけて口を開く。
「車椅子を幻想物質にして魔導書内に保管したんだ。ムゲンが言うには重量制限とかはなくて、この星丸ごとなんてのもできるらしいよ」
「なんか、すごすぎて意味わからん。幻想物質って?」
「実は僕もよく分からないんだけど……この世界に存在する物質とは決定的に違くて、夢や幻のようなものらしいんだ。現実にあるものを幻にした、これが分かりやすいのかな」
「へぇ、全く分からん。まあとにかく車椅子問題はオッケーってことか。恵も収納出来ないの?」
重量の制限がないのなら人間でも収納可能なのではという素朴な疑問。そちらの方が楽そうだと、デメリットなど何も考えない発言に洋一は笑みを消す。
「出来ることは出来るんだけど、この魔法は制御が難しくてね。もしかしたら元の形に戻せないかもしれない。さすがに生物に使う度胸はないかな」
「というか私が嫌よ。直接洋一に運んでもらえないなら、神谷さんでも先生でもいいんだからね」
洋一でなくていいとは言うものの、恵は不満を隠そうとしていない。
よく考えてみれば、失敗したら車椅子はなくなってしまうのではと思う神奈だが、余計なことは口に出さないでおく。
「先生も白部君も手が塞がってるし、荷物は私が持つよ」
「ありがとう神谷さん。あまり女の子に荷物を持たせるのはよくないだろうけど、お願いするね」
両手が自由なのは神奈しかいない。こうなることは必然だと納得し、神奈は「任せてよ」と返して全員分のキャリーケースを一か所に集める。
「……話は纏まったようですねえ。まあどうせ付いてくるのであればあ、観光でもしていってはいかがですかあ? それでは――」
焔は右手を胸の前に持ってきて人差し指を立てる。さらに純白の翼が背中から一対現れ、神々しい雰囲気に包まれる。
「天使ウリエールの名において、神谷神奈、隼速人、白部洋一、鷲本恵、あなた達四人を天に認められた者達と保証しましょう。天の加護があらんことを」
白い翼が音を立てて大きく広がり、焔の人差し指から白いエネルギーが漏れ出す。
細い煙のようなエネルギーは吹いた風に揺らめきながら、神奈達全員分に分かれて、その胸に吸い込まれていく。何かが体に入り込んだことに驚くが、体調などには何も変化がない。不思議に思った神奈達は焔に問いかける。
「あの、今のは……?」
「たった今、正式にあなた達に天界の敷居を跨ぐ資格を与えたのですよお。これをしなければ天界に辿り着くことは絶対にできませえん」
もう神奈は覚えていないようだが、神音がかつて、天界に行くためには天使の付き添いが必要と告げている。
天界は神が作り上げた神聖な場所とされており、地上や魔界という下界の者ではその目に捉えることも、干渉することすらもできない。まさに天使達だけの楽園であり、穢れなき地。
今まで神奈が散々空中戦を繰り広げてきたのに天界に気付かなかったのはそういうことである。
「それでは行きましょーう。我が故郷、天使の住まう穢れなき地へー」
白い翼が羽ばたき、速人を抱えた焔は飛び立つ。続いて恵を抱える洋一、全員分の荷物を両手で持った神奈が飛び上がった。
一同が向かうは天界。不思議な世界の一つである。




