268 星――大三角くらい覚えとけ――
夜空に浮かぶ星をよく見るため、才華は天体望遠鏡の高さなどを調節する。何も分からないまま笑里も手伝おうとしたが、繊細な機械なのに力を入れすぎて破壊してしまった。そのため申し訳ない気持ちでいっぱいになり、すぐ近くで見学するだけにしている。
一人だけでなく笑里、神奈、速人と合計四人分調節しているので、才華に人一倍負担が掛かっている。別に星を見に来たわけではないと速人が言っても、折角来たのだからと才華はおせっかいを焼いていた。それが大変な状況を作り出している。
「神谷さん!」
そんなとき、一人の男の声が神奈に届く。
聞き覚えのある声なので誰かを特定しつつ、面倒そうに振り返ると神奈の予想通りの男がいた。
「影野、お前も来てたのか」
男にしては長めで、手入れもされていないボサボサの暗緑色の髪。服装は単色のよれたパーカーとズボン。不潔というほどではないが、あまり清潔ともいえない少年――影野統真が笑顔で近付いてきていた。
影野という男は神奈のことを神格化しており、日々危険から守るためという尤もらしい理由でストーカー行為を働いている。もちろん神奈とてそれ自体には嫌悪しているが、小学生の速人の前例があったり、根は悪人ではなかったり、実害が出ていないために何も対処していない。
つまり本当なら会うことも遠慮したい相手なのだが、今日はさらに遠慮したいと思っている。
性格上、影野がソラシドのことを知れば狂う可能性があるのだ。大袈裟ではなく、血が繋がっている神奈の子供と誤解されれば確実に狂う。目の前にいる父親代わりに発狂して殴りかかることすらありえる。最悪の場合、藤原邸の庭の一部が赤く染まることになる……影野の血で。
なんとかソラシドのことは誤魔化さなければと、神奈は使命感のようなものを背負った。
「ええ、こうして面と向かって会うのは久し振りですかね。今日という日はまさに神谷さんと会う、このためだけに来ています」
「おい主催者の前だぞ」
天体望遠鏡を弄っている才華が苦笑いを浮かべる。
神奈も星は特に興味ないし、ソラシドに見せてやろうとしているだけだが、主催者の前でそんな理由は話さない。だが統真という男がそんな心遣いなどするわけがない、神奈以外のことなどどうでもいいと考えているくらいなのだから。
「むぅ、影野君、お星さまは綺麗だから見てて楽しいよ」
「確かに輝く星々は綺麗だね。でも神谷さんはその一億倍くらい綺麗だ。俺にとっては夜空にある輝きなんて全てくすんで見えるよ」
「……そうだね」
「納得すんな!」
少し面倒だからか笑里は肯定することで諦めた。
「ふっ、やかましい奴だ」
ソラシドを撫でながらやり取りを聞いていた速人が呟く。
爽やかな笑顔を浮かべたまま影野は速人の方へと向き直る。
「君とも久し振りだね隼君。全く、神谷さんと子育てなんて羨ましいことを平然とやってのけてくれちゃって……妬いちゃうよ」
「男の嫉妬ほど見苦しいものはない、な? おい……貴様なぜ知っている」
明らかに知っている影野の口ぶりに速人は顔を強張らせる。
さすがにおかしいと感じたが、神奈は信じたくない真実に到達してしまう。
「え? それはもちろん、神谷さんのことを見続けているからね」
「なあ、まさかお前……私のこと毎日つけてるわけじゃないよな?」
影野は神奈へと勢いよく振り向き、爽やかな笑顔を向ける。
「俺は毎日神谷さんのことを見守り続けています! あなたに危険が迫っても迅速に対処できるように! 全てあなたを守るためなんです!」
よくテレビの情報番組で流れるストーカーの言い訳そのものである。
本格的にヤバい奴になってきたと思い、神奈は身震いしながら口を開く。
「そうか、じゃあ私の心を守るためにストーカー行為禁止な」
「無理です」
「おい即答すんな」
まさかの即答である。これにはさすがに神奈も面食らった。
しかし衝撃を受けているのは神奈だけではない。話を聞いていた才華は一瞬とはいえ手の動きを止めてしまっているし、笑里は気持ち悪いと多少顔を歪めている。そして一番重症なのが速人だ。
「……バカな。ではつまり、毎日尾行されていて俺が気がつかなかった?」
「隼君、俺の隠密スキルは君の三倍以上だと自負している。これが俺の努力の成果だよ」
「おいその努力の方向性間違ってるよ。ストーカーの腕磨いてどうすんだよ」
そろそろ警察に通報した方がいいのだろうか、なんてことを神奈は本格的に検討し始める。毎日後ろから見られていると分かったら入浴中やトイレなどでも警戒しなければならなくなる。さすがに精神の害になりえるだろう。
「……はぁ、話戻すけどお前は知ってたってことか。気い遣って損したよ」
「ソラシド君のことなら知ってますよ。……ただ、実は最近になって神谷さんをつけ回す輩が出るようになりまして。最近はそちらを気にしすぎてあまり観察できていませんでしたね」
「なるほどお前のことか」
「いや俺のことじゃなくてですね。なんだかよく分からない猫耳女がいまして」
「……お前猫耳つけてるのか」
「いやだから俺のことじゃなくてですね。妙にすばしっこくて捕まえられないんですよ……きっとストーカーですよ! 絶対に捕まえますから安心してください!」
「やっぱりお前のことだろそれ」
そう、影野でなければいけない。ストーカーがこれ以上増えるなど神奈には許容できない。猫耳女というワードに心当たりがあっても信じるわけにはいかない。だいたいストーカーは目の前にいるのだから他にいるわけがない。
「でっすよねえ、ストーカーはどう考えてもそっちの男ですにゃん」
何か聞こえる気がするが神奈は気のせいだと信じない。聞き覚えがありすぎる声だが幻聴だと信じ込む。
速人や影野が間の抜けたような顔をして神奈の方を見ているが……気のせいだと思い込む。
「だいたい見守っているだけとか犯罪者の言い訳ですよ。尾行しているのが二人だと勘違いしているってことは、あれにも気付いていないみたいだし。私はじっくり観察して、身の危険を守ろうとしてるだけにゃん」
「だ、誰?」
笑里が目を丸くして問いかける。もう神奈も気付かないフリなどできない。
「どうも初めましてー。私は深山和猫というしがない――」
「ストーカーだよなあああ!」
「にゃんぶらん!?」
黒い猫耳が頭部から生えており、白黒のメイド服を身に纏う少女は殴り飛ばされる。
常軌を逸した速度の拳を額に叩き込まれ、地面を数十回は転げて神奈達からは見えなくなった。だが死亡するかと思いきや、少女は無傷で平然と起き上がり、一瞬で神奈の目前に移動する。
「む、無傷……」
「にゃーにするんですか神奈さん! 私じゃなかったら死んでいたところでした、にゃん」
「……お前、なんでここにいんの? 呼ばれてないよね?」
一応神奈は才華に目で訴えるも首を横に振られた。つまり才華は和猫を呼んでいない。
「呼ばれていなくても這い寄る混沌、ニャルラトホテップとはこの私で――」
「そういうのいいから早く答えろ」
光のない瞳で見つめられて和猫は身体を震わせる。
「あ、はいすみません。なんか面白そうなことしてるなと思って後をつけました」
「こいつですよ神谷さん! 俺が言っていたストーカーというのは!」
「それはお前もだよストーカー!」
話の流れから和猫も神奈を尾行していたのだと理解し、速人は言葉を失う。影野だけならともかく、和猫の存在にも気付けなかったのは屈辱以外のなにものでもない。しかし一人ショックを受けている速人には誰も触れない。
「神奈ちゃんのお友達?」
和猫のことを疑問に思った笑里が口を開く。
「そうなりますねー。私と神奈さんはずっと友達、略してズッ友にゃん」
「おい勝手なこと言うな。てか帰れよ、なんで平然とこの場に馴染もうとしてるんだよ」
「えーいいじゃないですか。私だって神奈さんの友達なんですから」
わざとらしく頬を膨らませて和猫は抗議する。
「そうだよね、いいよ!」
「許可するな!」
勝手に許可する笑里に怒鳴る神奈だが、そこで天体望遠鏡の調整を終わらせた才華が口を開く。
「別に私達は構わないわ。みんなでいると楽しいもの」
「……まあ、才華が言うならしょうがないな。ダメイド、迷惑だけはかけるなよ」
「了解にゃん」
びしっと敬礼して答える和猫にもう神奈はつっこまない。さすがにツッコミのしすぎで精神的に疲れてしまったのだ。
話がまとまったところで、神奈は一つ気になったことがあった。
「そういえば影野、元同級生は全員いるか?」
「南野さんと坂下君はあっちにいますよ。ただ日野君は入院しているんで来ていません」
影野がそう言って指を向けた方向には、天体望遠鏡を自分の見やすいよう調整している葵と坂下がいる。触ったことがないのか調整に苦戦していた。
最終的にはあたふたしている二人に、近くにいる斎藤が教えることで調整が終了する。
「え、なんで入院してんの……?」
未だ神奈は自分の犯した罪に自覚がない。日野、獅子神、霧雨の三人は神奈の魔力弾のせいで気絶し、病院に運ばれている。三人の骨には僅かに歪みがあり入院という結果となった。だが獅子神に関しては自然治癒だけで完治して退院している。
影野の言葉がきっかけで、才華が思い出したように補足説明をする。
「来てないっていえば夢咲さんは霧雨君の傍にいるらしくて、泉さんは連絡が取れなかったから、その二人も来てないわ。斎藤君はメイジ学院組に交ざって星を見ているわね。他の人達も各々で楽しんでいる感じかな」
他にも実は洋一を誘っていたのだが、レインの通知が来たときに恵に発見されどういう知り合いなのかと問い詰められていた。長々と説明するはめになり洋一は来れていない。
一応グラヴィーとも銀行強盗の件で仲がよくなり、誘いの連絡を入れたのだがマインドピースが繁盛していることで忙しく、仕事を抜けられないため断られている。
「とにかく、今日来ていない人達の分まで天体観測を楽しみましょう。深山さん以外の準備は済んでるから」
「お構いなく、私は肉眼で宇宙の彼方まで見えるにゃん」
「そ、そう、出鱈目なスペックね」
ようやく藤原邸での天体観測がスタートする。
夜空にある幻想的な光。宇宙のどこか遠くに存在している星を観察するため、神奈達はそれぞれ用意された天体望遠鏡に目を合わせた。
肉眼では見えない星の数々を見せるため、速人はソラシドを両手で抱えて天体望遠鏡を覗かせる。藤原邸に来てから夜空を見上げて喜んではいたが、天体望遠鏡を通して見ることのできる星でさらに嬉しそうにはしゃいだ。
どこかにある星を見て全員が綺麗であると思考した。そして笑里が神奈に話しかける。
「ねえ神奈ちゃん」
「なんだ?」
「綺麗だね、お星さま」
「そうだな」
二人は天体望遠鏡に目を当てながら会話を続ける。
「ねえ知ってる? 夏の大三角って有名な三つのお星さま」
「あの有名なやつな、もちろん知ってるよ」
夏の大三角形。おそらく星関連の言葉で一番有名なのではないかというほどで、デネブ、ベガ、アルタイルという三つの星を繋げると、綺麗な三角形になるということからその名がついている。さらに補足すれば、ベガは七夕伝説に出てくる織姫、アルタイルは彦星とされている。そちらの話も有名なものなので、結果として有名になるのは必然であったのだろう。
「えへへ、私全部言えるからね。デブ、ベブ、ケバブ!」
神奈の全く知らない星の名前が笑里の口から告げられた。
「笑里、たぶんそれ違う。本当はデブ、ベブ、アラブだ」
訂正したはいいが神奈も全く違う。それを聞いた速人は呆れたようなため息を吐く。
「バカな女だ。大三角はデネボラ、ブローラ、ビアンキだろうが」
訂正を訂正した速人も全く違う。残りは三人となったわけだが、次に訂正するのは影野だ。
「違うよ隼君、勉強はしておくべきだったね。夏の大三角……デストロイラー、ベルディラ、アクラだよ」
「はぁ、何を言っているのか。あの三つの星はデスマーチ、ベアベアー、アリフレータにゃん」
夏の大三角は星三つを結ぶと三角形になる、定番ともいえるほど有名な名前だ。有名なはず……である。
なぜ誰も知らないのか、それは星に興味がないからだろう。興味がないものを記憶することはあまりない。何かしらに対して少しでも興味があるからこそ記憶されるのだ。
「もう名前の原型ないじゃない……。あのね、デネブ、ベガ、アルタイルだからね。どうして誰も分からないの……」
才華の正しい答えに全員が「あーそれだ」と納得して頷く。
星を見続けてまだ十五分。もうすでに飽きてきている一同を確認し、才華は三子の名を呼ぶ。
「三子さん! 例のアレまであと何分かしら!」
呼ばれたことにより、瞬時に才華の傍に近付く三子は報告する。
「およそ三分ほどです」
「うん? 何が三分なんだ黄泉川」
「神奈さんもみんなも驚くわよ。今日はね、流星群がやってくる日なんだから」
流星とは流れ星のことだ。宇宙空間にある物体が地球に落下し、僅かな間にかなりの速度が原因で摩擦により燃え尽きる。発光していることから、星が落ちて来たかのように見えることが由来かもしれない。
大きすぎて燃え尽きることなく隕石として落下するものもある。その場合は地上に多大な被害を及ぼしてしまう。
普通は燃え尽きて、その間に願いを三回言うと叶うなどという迷信まである。
流星群はその流れ星の大群が来ることだ。少ないものだと五個、多いものだと何十、何百という数の流星が落ちてくる。珍しいことのように思えるが、実は毎年来ているくらいには珍しくない。どうして時間まで分かるのかは単純。才華が衛星などで宇宙の景色を観察し、大量の小天体が地球方面に来るのが分かったからだ。
神奈達はその言葉を聞いて、今日の天体観測が行われた理由を推測した。
「なるほど、流星群があるから今日のイベントか」
「そういうこと。もうすぐよ、きっと綺麗なものが見られるわ」
天体望遠鏡は必要ないので神奈達は目を離す。
全員で夜空を見上げて、目的の物が来るのを待つ。そして――
「来た……!」
何十もの小天体が地球の大気圏に突入し、燃えて発光しながら落下していく。
夜空が何者かの爪で引っ掻かれたかのように白く裂ける。それが連続で、二回、三回と続く。
藤原邸にいた者達も、他の場所にいる者達も、空に現れてはすぐに消えた光を目撃した。普段星など見ない神奈達は「おお……」と呟いて、ちょっと感動していた。
速人の肩に跨っているソラシドは、落ちてきて燃え尽きる何かに手を伸ばす。目を輝かせて腕を伸ばすも、手で掴めるのは虚しくも冷たい空気のみ。光は決して掴めない。
数秒とはいえ輝いた夜空に、一対の白い翼を背から出している女性が浮いていた。
薄い赤色の髪が背中辺りまで伸び、女性の平均的体躯よりも少し小さい小柄な女性は神奈達を見下ろしている。じっと何が起きても逃さないように、観察し続けている。
「猛獣の白き爪が夜空を切り裂くとき、魔人の復活は間近に迫る。同時に聖剣も復活の予兆がある。……古い言い伝えの通りならばおそらくはもうすぐ、苛烈な戦いが幕を上げますねえ」
高い高い場所にいる女性――若空焔はまだ小さな子供を見続ける。
そんな彼女を見つめる一人のメイドがいた。うっすらと笑みを浮かべて、白い翼を細部までじっくりと観察している。
「……前座とはいえ戦いは起きる。そして狼煙となる、にゃん」
金色の瞳をしたメイドは、何かを予見したかのように独り呟いた。




