262 散歩――わるいひと――
鮮やかな夕日が町を照らすまで三十分ほど。もうすでに若干染まっているオレンジ色の光はきれいなもので、人も、植物も、雲も、町も全てが美しくなっている。
もう学校の下校時刻である五時から数分。一人の幼児が可愛らしくゆっくり歩いていた。
学生やサラリーマンなどが家に帰っていくなか、道を歩く幼児のソラシドは当てもなく歩く。
明確な目的地があるわけでもなく、ただ一人で歩くことに解放感を覚えていた。いつも速人や神奈に抱かれていたが、ソラシドはもう誰の力も借りず自分の足で歩くことができる。
近くに誰もいないというのも解放感が増す。両親だと認めている二人は心配するだろうなと考えるも、あまり長時間でなければいいかと結論を出した。
「あれ、霧雨君。あそこにまだ小さい子供がいるよ」
「……どこかで見たような子供だな」
どこかで見たことのある学生が近付いてくる。ソラシドは以前会ったことのある両親の友人だと思い出す。
近づいてきたのは斎藤、霧雨、夢咲の三人。まだ斎藤は初対面だが、他の二人は神奈達の連れていた赤子に似ていると気付く。
「こいつ、神谷と隼が連れていた子供か」
「うーん、似てるけど、それにしては大きくなってない? まだこの前はハイハイしかできなかったじゃない」
「え、神谷さんと隼君が何? 子供? ちょっ、僕だけ知らないの?」
自分だけ何も知らないことに斎藤は困惑するなか、夢咲と霧雨は目の前の幼児をソラシドではないと決めつける。
「実はね、最近神奈さんと隼君が子育てしてるの」
「……え? それはつまり、二人が……」
一瞬夢咲の言葉を理解できず硬直した斎藤だが、次第に間違った解釈へと導かれる。
斎藤は神奈が子供を産んで育てているのだと勘違いしてしまう。実際そう思ってもいいくらいには説明不足であった。
勘違いをしてから斎藤は勢いに任せて携帯電話を取り出す。
「もしもし、もしもし! で、出ないや……」
数コールの後、決まった音声が流れて相手が出なかったことが夢咲にも伝わる。
「誰に電話したの?」
「神音だよ。彼女なら何か知っているかもしれないし、仮に何も知らなくても驚くだろうから」
もう斎藤達は泉のことを神音と呼んでいる。泉のことを忘れたわけではないが、神音のことも友人なのだと受け入れていた。
「ああそれは繋がらないわね、彼女いま忙しいみたいだから。……魔人とやらについて調べてるらしいわ。一回私が予知夢を見なかったかって連絡が来て、そのときに聞いたんだけど」
二日ほど前。夢咲の元に神音から電話がかかって来ていた。
内容は夢咲の言う通り、魔人と呼ばれる存在についてであった。
「魔人、また事件が起こるってこと?」
「そうかもね。よく分からないけど、魔界だとか天界だとかが関係しているんだって」
「この世界はいつから漫画みたいになったのさ……」
斎藤と夢咲が話していると、不敵な笑みを浮かべて霧雨が口を開く。
「心配いらんさ、どうせ神谷がいる。あいつならなんとかしてくれる、そうだろ?」
「……そうだね、きっとそうだ。まあ僕もできれば協力するし」
「友達として当然よね。……あれ、あの子は?」
いつの間にかソラシドがいなくなっている。そのことに気付いたのは夢咲であった。
話に夢中になりすぎたことが原因だが、どちらにせよ関りが薄いので一生懸命に捜すことなく足を進めていく。
斎藤達の前からいなくなったソラシドはゆっくりと道を歩く。
等間隔で木が生えている歩道を進むと、一軒の喫茶店が目に入る。
大勢の客はいないとはいえ、一定数の客が静かにコーヒーを飲んでいる店内。ソラシドは物珍しさから心惹かれ扉を開けた。
「いらっしゃいま、せ……こ、子供?」
律義に入口付近へ挨拶しに来た青髪の少年は困惑する。
喫茶店マインドピース。この店に来る客といえば半数が四十代から七十代という客層、残りは落ち着いた雰囲気を好む学生や、オリジナルブレンドのコーヒー目当てに来る者達。子供を連れて来る大人もまったくいないわけではないが、それでも絶対に保護者が存在していた。
目の前にいる幼児の傍に保護者らしき人物はいない。一応店外に目をやってもそれらしき者はいない。
まさか子供一人で、それもまだ幼い子供が来るなど想定外で初めての出来事であった。
「お、おい、お前……じゃなくて、君は一人かな?」
青髪で高校生くらいの年である店員――グラヴィーは混乱しつつ接客を開始する。
いつもの粗暴な言葉が出そうになるが、なんとか抑えて幼児に対して丁寧な言葉を使う。
「ひとり、です!」
「元気いいな。で、では、一応席に案内するから付いてきてくれますか」
こくりと頷くソラシドは空いている席に向かうグラヴィーの後を付いていく。
静かな空間が珍しいので、ソラシドは周囲を見渡しながら席に飛び乗って座る。
少ししてグラヴィーが水の入っているグラスを持ってきて、難しい顔をしながらソラシドの前に置く。
「さて、一つ訊きたいことがある、あります。言葉は分かるようだし質疑応答くらいはできるだろう。……お金は持っていますか?」
「……おかね?」
当然、ソラシドは金銭など持ち合わせていない。それどころか存在すら知らない。
買い物というものをしたことがあるはずもなく、ただ訊かれても首を傾げるだけだ。その仕草を見てグラヴィーは知らないのだと理解した。
知らないものは知らない。だがもしかすればお金をお金と認識していないだけで、実は持っているという可能性もある。そこでグラヴィーは黒いエプロンの中から硬貨を五枚取り出してテーブルに置く。
「これがお金だ。おま、君はこういうのを持っていないのかな?」
目の前に置かれた一円玉、五円玉、十円玉、百円玉、五百円玉を眺める。ソラシドは一つ一つ丁寧に観察し、そういえば家にこんなものがあったなと思い返す。
何に使う道具なのか分からず触れたこともないが、店員が触れていたことで危険物でないことは分かっている。これを機に触れてみようとソラシドは手を伸ばす。
「うん、どうした?」
届かない。一歳児ほどの身長しかないソラシドでは、テーブルの上に置かれたものに手が届くわけがない。
少しの間のみ頑張って手を伸ばしていたが、届かないことが分かった。つまりこのままでは何もできないので、行儀悪いことだと教わっているがソラシドはテーブル上へと飛び乗る。
手が届かなかったのかとグラヴィーは納得するが、さすがに注意しないわけにはいかない。テーブルの上は飲食物を置く場所であり、誰かが乗っていい場所ではないのだ。
「お客様。当店では、いやどこの店だろうとテーブルの上に乗ってはいけないと思います」
「これが、おかね……」
「聞けよおい。あ……聞いてくださいお客様」
もはや荒い言葉が隠れていないグラヴィーは置いておき、ソラシドは足元にある一円玉を拾う。
不思議な物質だった。硬いようで柔らかく、力を入れてしまえば折れ曲がる。
一円玉が曲げられた事実にグラヴィーは驚愕する。
(なっ……! この歳で硬貨を曲げるのか! 僕もできなくはないが、この歳の頃はできなかったぞ!)
ありえないこともないが、現実的ではない。硬貨を折り曲げるくらいならグラヴィーにだってできる。しかし年齢的なことを考えればできる者は少ないだろう。
どう考えても、ソラシドは普通の子供ではない。
「お客様、いや……お前は何者だ」
「しぇーけん」
「は? なんだって?」
ソラシドは一円玉を掴んでいる手を振りかぶり、勢いよくグラヴィーに向けて振る。
「がっ!?」
手にしていた一円玉がグラヴィーの額に直撃した。
視認することもできず、額からは僅かであるが血が垂れ、片膝を床についてしまう。
「く……くそっ、何が……」
「ねえねえ、わるいひと? わるいことしたの?」
次にソラシドは五円玉を手に取り投げつける。
「悪いことをしているのは貴様だと思うがな、ガキ」
弾丸よりも速く発射された五円玉は、グラヴィーに当たる直前で大きく右に逸れて外れた。
不思議な現象を起こしたのは近づいてきた喫茶店の店員であるディストだ。灰色のマフラーを季節問わずつけている彼の力は空間操作であり、グラヴィー周辺の空間を閉ざしたことで五円玉は届かない。
「おまえもわるいひと? わるいことした?」
「おいグラヴィー、なんだこのガキは。なんで店の中にいる」
ソラシドはディストに十円玉を投げつけるが、それは先程と同じように逸れる。
空間操作は強力な力だ。自分の力をディストは過信しすぎており、また目の前の子供のことも舐めきっていた。
「くろいおーらがでてるよ? わるいことしたらでてくるんだよ?」
「はぁ、黒いオーラだかなんだか知らんが絵本の見すぎだな。ガキはとっとと家にがえっ!?」
自身のこともディストは空間を閉ざしている。外部からの干渉などできるはずがなく、もちろん硬貨も何もかも逸れていく。
――そのはずだった。いつもと同じく、直接殴られようと拳は届かないはずであった。
油断していたことは関係ない。ディストは一歳ほどの子供に腹部を殴られてしまったのだ。閉ざしていた空間などなかったかのように、ソラシドは飛びかかって拳を振り抜いていた。
「あ、がっ、バカな……この力、まるで」
「神奈みたい、そうだろディスト」
床に着地したソラシドのことを、黒いエプロンをしている赤紫の髪の少年が睨みつける。
「さて、君が何者なのか吐いてもらおうか。ただの子供でないことくらい僕でなくても分かる。それにどうして二人を攻撃したのかも、ね」
レイ「ふっ、なんだかこの、僕が来て終わるみたいな引き多くないかな。これで何回目かな、ねえ、敵だったらどうせ僕やられるよね?」
グラヴィー「いつからかませ犬になったんだかな」
ディスト「……出番が多いから羨ましいがな」




